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2006年5月に作成された記事

2006年5月30日 (火)

スペイン旅行記9―エストレマドゥーラの旅

5月11日、ツアーは後半、エストレマドゥーラ地方に入った。
スペインの西端、ポルトガルと接する位置にあるエストレマドゥーラの語源は「ドゥエロ川の彼方」。スペインの大半を失ったキリスト教徒の戦士たちが、イスラム教徒とこの川を挟んで対峙した故事に由来する。戦線をドゥエロ川の彼方へ押し戻すことが悲願だった。そしてレコンキスタ(国土回復戦争)の最も勇敢な戦士たちをこの地域から輩出し、とりわけナスル王朝グラナダ王国に対する攻撃の主力となったという。
レコンキスタ後、彼らは余勢を駆って新大陸へ進出した、という経緯はここへ来て改めて理解できた。メキシコ征服のコルテス、ペルー征服のピサロはこの地域の出身である。

ツアーは、(セビーリャ)→メリダ→カセレス→トルヒーリョ(泊)→グアダルーペと周った。
ここではとりわけ印象の強かったトルヒーリョとグアダルーペについて記したい。

トルヒーリョには夕方着いた。宿はパラドール・デ・トルヒーリョ。旧サンタ・クララ女子修道院を改装したものである。石造りの回廊を、かつての修道女の居室が取り囲む。添乗員が「お仕置きの部屋になるかもしれませんよ」などと冗談を言いながら部屋割りをしてくれる。私の部屋は2階。石畳の回廊から木製の扉を開けると、1段低い位置にやはり石敷きの広々とした居室が広がる。窓は小さく、がっしりとした鉄格子がついている。正に修道院の部屋そのものだが、ベッドや浴室・トイレは最新の設備で何不自由もなかった。夕食はホテルのレストランだったが、ちょっとした講堂ぐらいの広さがある元修道院食堂である。
カナッペ→マッシュルームのキッチュ→白身魚のグリル→イチジクのクリームケーキ。
翌日は朝8時半からトルヒーリョの観光に出かける。まず、街の中心マヨール広場へ。大きな建物の屋根の上には必ずと言っていいほど、コウノトリが巣を作っている。鶴ぐらいの大きさがあるから空を舞うと見栄えがする。広場の北側のゴシック式のサン・マルティン教会を背に騎馬像がある。大航海時代のコンキスタドーレ(征服者)を代表するフランシスコ・ピサロである。この街の出身ということを知って眺めると、像が生き生きとしてくるから不思議です。
広場から、イスラム教徒が築いた城の名残がある丘の頂上に登ると、エストレマドゥーラの荒涼とした大地が何処までも広がっているのが見渡せる。

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パラドール・デ・トルヒーリョの入り口
旧女子修道院のたたずまいそのままです



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私の居室  とても広くて設備・調度品も立派




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街の中心マヨール広場にある
フランシスコ・ピサロの騎馬像
この街が産んだ英雄です


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城跡の丘から見るエストレマドゥーラの大地




トルヒーリョから1時間余りでグアダルーペに着いた。
グアダルーペは、コロンブス、コルテス、ピサロを始めとする征服者たち(コンキスタドーレス)の信仰上の拠点だったところである。「全スペイン世界の守護聖母」がグアダルーペ王立修道院に祀られているのだ。早速、修道院に入る。
・・・1320年、一人の羊飼いが迷い羊を探していると、聖母マリアからお告げを受け、地面を掘ったところ黒いマリア像を発見。1340年、このマリア像に加護を祈願した直後にモーロ(イスラム)軍を破ったアルフォンソ11世は、壮大な修道院を造らせ、ヒエロニスム会修道士たちの手にゆだねた。その後修道院は聖母マリア崇拝の中心地となり、コロンブスがカリブ海の島をグアダルーペの聖母に奉納してからは、新大陸キリスト教化の象徴とされてきた。・・・
建物はゴシックとムデーハル様式が混在している。聖衣展示室や15世紀のグレゴリオ聖歌の巨大な楽譜(重さ60Kg、移動用台車付き)、ムデーハル様式の中庭を見て、聖具室に入ると壁一面にスルバランの11点の絵画が掛けられている。黒い僧衣をまとった修道士を一人ずつ描いた絵が多いが、これらに囲まれていると、敬虔な気分になる。このほかに「聖ヒエロニムスの誘惑」などもある。
巨大な修道院の中の教会部分に問題の聖母像が祀られているのだが、その裏手の部分にカマリンと呼ばれる小聖堂がある。豪華な装飾が施されたこの部屋は玉座の控えの間にあたり、巡礼者たちはここで聖母像に真近に会うことが出来る仕掛けになっている。というのは、驚いたことに「黒いマリア像」がぐるりと180度回転するのである。実際に対面できるスペースは1坪ほど、我々は数人ずつ順番に拝ませていただいた。

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グアダルーペ王立修道院
ゴシックとムデーハルの混合様式
内部には見所がたくさんある


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ムデーハル様式の中庭回廊




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大きな中庭の中央には小さな聖堂が置かれている
とても変わった形をしている



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黒い聖母マリア像
写真撮影不可「だから絵葉書で
巡礼者は聖母像のマントの円形の浮き彫りに
接吻を捧げる






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聖具室に掛けられたスルバランの絵の1枚
「The Father Carrion」

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2006年5月29日 (月)

スペイン旅行記8―アンダルシアの旅3

ここでスペインの建築様式について整理してみる。
スペインの中世はイスラム教文化とキリスト教文化がぶつかり合った時代ですから、建築様式も相互に影響しあうことになりました。
①純然たるイスラム建築の代表例はグラナダのアルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータ(モスク)など。ただし、スペイン独自の発展を遂げています。
②一方、キリスト教建築もイスラムの勢力圏外で造られ続けます。当初は北部で細々と、そして、キリスト教圏が回復するに連れて各地で。ヨーロッパの他の地域からの影響を受けながら、ロマネスクからゴシックへと発展していきます。
③そしてスペイン建築の最大の特徴は、二つの文化の混合様式が発達したことです。
優位にたったキリスト教支配地域では、在住するイスラム教徒が,その建築技術をもってキリスト教に奉仕してできた建築を「ムデーハル様式」と言う。煉瓦やセッコウを構造体に使い,タイルやアラベスク,さらに馬蹄形アーチや木組天井などを駆使するのが特徴である。この様式は11世紀に始まり,ロマネスク,ゴシック時代を通じて隆盛を極め,遠く新大陸にまで波及したばかりか,その好尚は今日にまで伝えられている。
④逆にイスラム支配地域に在住したキリスト教徒が、迫害を避けつつ岩にうがった教会堂を造ったり、北部に逃れて修道院を造ったりしたが、これらもイスラム美術特有の執拗な反復リズムや幾何学的傾向を取り入れている。これを「モサラベ様式」と言う。

ここで大事なことは、いろいろな形でイスラム様式が建築に取り込まれていると言うことはそれだけ、優れた点が多かったと言うことです。
スペインへ行って歴史的建築を見る場合、上記のどれなのかを意識していればより理解が進むでしょう。

5月9日、コルドバでは、典型的なイスラム教モスク(スペイン語でメスキータと呼ぶ)を訪れた。イスラムの新首都コルドバにふさわしいモスクを、という意気込みの下、785年から3期に分けて、最終的には2万5千人の信者が同時に祈ることができる巨大なモスクが建造されたのです。内部は白い石と楔形の赤レンガを交互に組合わせたアーチが限りなく広がっていました。アーチを支える石柱のコリント式柱頭部の飾りを見ると一つ一つ違うのが面白い。ガイドによると、ローマ遺跡などのものを再利用しているためだとのことだった。

Dscf0547  メスキータの内部は円柱の森
赤と白の組み合わせ、二層のアーチが印象的




なお、コルドバでは既述のとおり、パティオ祭も観光しました。

セビーリャは5月10~11日に滞在。
最初の観光はムデーハル様式の代表的建築「アルカサル」。レコンキスタ後の1362年、ペドロ1世がイスラム王の宮殿跡地に建設した要塞。以後のキリスト教時代の歴代の王の宮殿として使用された。例えば、乙女のパティオには小さな彫像(即ち偶像)とアラベスク(幾何学模様)の装飾が共存し、典型的なムデーハル様式となっています。
P1010110 アルカサルの外観  
14世紀のムデーハル様式
キリスト教徒がイスラム教徒の大工を招聘して
建設に当たらせた


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大使の間
カスティーヤ王国とレオン王国の紋章の間に
聖典コーラン文をデザインしたタイル装飾がある


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パティオの回廊の壁もタイル張り
湿気対策でもあるとの事



Dscf0589乙女のパティオの回廊の壁はこのような
アラベスクのタイルで覆われている。
単純な繰り返しではないし、近くで見るのと
遠くから見るので模様が違って見える


セビーリャでは世界第3位(ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ)の大きさを誇る大聖堂も見学した。ゴシック様式であるが、モスクに習って多柱多廊式の採用により、大面積の聖堂を実現している(モスクを改造した)。高さ97.5mのヒラルダの塔は、元はモスクのミナレットとして造られたものの上部に付け加えて鐘楼としたとのことですが、とても美しい仕上がりになっています。先端に乗っているブロンズ像(高さ4m)は風で回転するようになっているのでヒラルダ(風見)と名づけられたと言う。
礼拝堂にかかっているムリーリョ(セビーリャ出身)の巨大な作品「聖アントニオの幻想」を見ることが出来ました。
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世界第3位のセビーリャ大聖堂の全景
(絵葉書より)


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ヒラルダの塔
素人写真では全景を綺麗に撮ることが難しい
ので、絵葉書を使用しました
それにしても美しい





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ヒラルダの名の由来となった風見部分の拡大
これは私の写真






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内陣
16世紀に造られた杉の木の彫刻の上に金箔を
塗った祭壇飾り






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ムリーリョの
「聖アントニオの幻想」



意外なことにセビーリャは50Km以上内陸に位置するけれど港町なのです。コロンブスが到達したのはインドではなく新世界であることを証明したアメリゴ・ベスプッチも、セビーリャ港から出帆した。自由時間にセビーリャを良港たらしめているグアダルキビル川の遊覧船に乗った。川から眺めるセビーリャの街はまた違った趣きがある。川岸沿いには綺麗な紫の花が満開のジャカランタの並木があるし、川面にはカヌー、そして大航海時代に初めて世界1周した帆船ビクトリア号の復元船(昨年の愛知万博で名古屋港に来た)も係留されていたりするのでした。

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グアダルキビル川の遊覧船に乗る




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大型船も入れるよう、橋は中ほどで跳ね上げ式になっている
左の塔のところが発船場



Photo_38中央左よりの黒い船がビクトリア号。
500年の時を経て新たな世界1周の航海に出た。
その途上、万博開催中の名古屋に寄航した。


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2006年5月27日 (土)

スペイン旅行記7―アンダルシアの旅2

ジブラルタルを見た後、ミハス(泊)→ロンダ→グラナダ(2泊)→コルドバ(泊)→セビーリャ(泊)と、アンダルシア地方の見所を旅する。

ミハスは白壁の村。ロバタクシー、世界最小の闘牛場、お洒落な店・・・。
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世界最小の闘牛場
(四角形である)


ロンダは、旧市街と新市街がグアダレビン川が刻んだ深い渓谷によって隔てられており、優に100mはある絶壁の上の白い街並みは素晴らしい景観を見せる。中でも18世紀に造られたヌエボ橋を渓谷の下から見上げるところは絶好の写真スポット。
ロンダのもうひとつの見所は1785年に建てられた最古の闘牛場です。5000人収容、縦幅66mはスペイン最長。スタンドの下にある闘牛に関わる博物館を見学。闘牛のやり方もここロンダで確立された。①カポーテ;闘牛士と雄牛の初対面。②ピカドール;目隠しした馬にまたがった闘牛士が長槍で牛の肩を突き、牛の頭を下げる。③バンデリジェーロ;更に2本の銛を差し込む。④マタドール;真っ赤な布に向かって牛を突き進ませ、さばき、最後の一撃で牛を倒す。
さすがスペイン、どの街へ行っても大小は別として闘牛場があります。
マドリッドでは希望者で闘牛を見に行く事になったが、私は降りることにしました。
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ロンダの遠景(絵葉書より)
左方に闘牛場も見える


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ヌエボ橋を渓谷から見る



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ロンダの闘牛場(絵葉書より)




グラナダと言えば「アルハンブラ宮殿」。これは唯一、西欧世界に造られた典型的なイスラム宮殿である。以下に平凡社世界大百科辞典の記載を引用した。

『イスラム宮殿建築の伝統を踏襲して,池や噴水を設けたパティオ(中庭)を中心に構成されている。すなわち,〈獅子のパティオ〉と〈ミルト(天人花)のパティオ〉が中心となり,その周囲に,公儀の間(玉座〈大使の間〉),居室(ハレム〈2姉妹の間〉)などが配置される。アルハンブラ宮殿の名を不朽にしたものの一つに,漆喰,タイル,大理石による繊細華麗な装飾がある。アラベスク,花文,アラビア文字が織りなす壁面装飾,万華鏡さながらにドーム内面を隙間なく埋めつくす精緻なムカルナス(鍾乳石飾り)の美しさは無類である。』

なお、アルハンブラ宮殿の外観はとても地味で、不細工ですらある。幻想的な美しさに満ち満ちた内部とは対照的である。一般民衆に関心を持たせないようにとの配慮だと、ガイドは説明するが?
それでも、内部の世界に感嘆した者としては、是非外観を記録しておきたくなるのです。自由時間にタクシーを飛ばし、サン・ニコラス展望台へ。行った甲斐があった。雪を被ったシェラネバダ山脈を背景に、歴史を超越して悠然と建つアルハンブラ宮殿の姿をカメラに収めることが出来ました。
グラナダでの昼食はエル・パラドール。ここは旧サン・フランシスコ女子修道院。メニューはイカの黒墨ライスがメインだったが、久しぶりの米がとても嬉しかった。

P1010098 宮殿の入り口。この小さな扉をくぐるとメスアールの間
幾何学模様が幻想世界へのプロローグ



P1010100 アラヤネス(天下花)の中庭
建物と池の長方形が見るものの心を引き締める
青い池に映る姿も計算の内。水の芸術。
賓客はここを通って大使の間へ導かれた

Photo_27 ライオンの中庭。中央に12のライオンの噴水。
124本のアーチ柱は椰子の木を表現している。
ここは王族のプライベート空間。周りの居室はハーレム。



Photo_28 ライオンの中庭の北側は二姉妹の間
天井の鍾乳石飾りの精緻な美しさは他に類を見ない



Photo_29 アルバイシン地区にある展望台から宮殿を見る
雪を被ったシェラネバダの山並みの気高さが
宮殿の外観の無骨さを救っている


P1010097 夏涼しく、水にも恵まれた立地条件からか、
宮殿の庭園は何処も花に埋もれていた

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2006年5月26日 (金)

スペイン旅行記6―アンダルシアの旅1

今回の旅行で印象に残った事の一つは、スペインが永らくイスラム教徒の統治を受け、その影響が今も色濃く残っている事であり、他のヨーロッパ諸国とは大分様相が違うことを再認識しました。

旅行は第1日のバルセロナから飛行機で国際空港のあるマラガに飛び、それから数日はスペイン南部のアンダルシア地方の各都市を訪ねました。
アンダルシアと言う響きのいいこの言葉は、元は「アンダルス」から来ている。「アンダルス」はイスラム教徒によるイベリア半島の呼称だったけれど、次第にイスラム教徒の支配領域を指す言葉となった。
イスラム教徒は700年代始め頃から、北アフリカからジブラルタル海峡を越えて侵入し、版図を最大にしたのは1000年頃で、イベリア半島の北部の一部を除く大半を占めた。この最繁栄時のイスラム王朝の拠点はコルドバで当時、人口100万人以上だったと言う。
その後次第にキリスト教徒に領土を狭められ、1238年以降の最後のナスル王朝はグラナダを中心とする地域に押し込められた。ナスル王朝は仇敵カスティーリア王国(イベリア半島中央部のキリスト教王国)に服従する政策をとって国の安定をはかり、経済を潤わせ、その富によりグラナダに壮大・優美なアルハンブラ宮殿を造った。
レコンキスタという、我々には馴染みがないけれど、スペイン人にはとても重要な言葉がある。キリスト教徒による国土回復戦争である。それはイスラム教徒侵入直後から始まった息の長い、抵抗運動であって、パレスチナと同様、二つの宗教・文化の戦いであった。イスラム側はアフリカのモロッコから援軍を入れたりして、熾烈なものであったようだ。
最終的には1492年にグラナダ王国が滅ぼされ、レコンキスタは目的を果たしたのですが、800年にも亘る闘争の刻印は大きなものがあり、その後のスペインの国民性や国家活動に大きな影響を及ぼし、今も克服すべき課題だという。

マラガの国際空港からリゾートとして有名なコスタ・デル・ソル(太陽海岸)を通り、途中、白壁の美しいカサレスの村にも寄り、イベリア半島の南端ジブラルタルへ。
ジブラルタルは海に突き出た岬で、地中海はここまでで、これより西は大西洋となる。対岸のアフリカ(モロッコ)は僅か26Kmに迫っていて、軍事上の要衝である。1713年以来英領となっていて、ここに入るには、国境越えの手続きが必要である。実際には、我々の場合は入国審査や税関はほとんどフリーパスだった。国境のゲートを出るとすぐ目の前が飛行場になっていて、1日何便か英国から物資や人が運ばれてくるとの事であった。
英国人運転手のミニバスに乗って英国領内の繁華街や軍港を見ながら、岬の突端を周り、それからターリク山(462m)に登る。
天気晴朗なれど・・・霞がかかっていて、見通しが今ひとつ。それでもジブラルタル海峡のはるか先に山並みがうっすらと見えた。モロッコのファハミン山2162mだとのこと。
海峡は26Km、山までは28Km と、案内盤には表示されていた。
この海を越えてイスラム教徒が侵入して来たのだ。モロッコの山が見えることで実感が湧く。そしてわが国における蒙古襲来と重ね合わせる。神風もないだろうし、この近さでは防ぎようは無かったろう。

Photo_25
スペインの地図
字が小さいが今回訪れた場所は全部載っている
ジブラルタル付近でアフリカが迫っているのがよく分かる

Dscf0497白壁の美しさで有名なカサレスの村
コスタ・デル・ソルからは14Km内陸だが、
永住する外国人(特に英国人)が多い 


Dscf0500 英領ジブラルタルへの国境ゲートと
ターリク山(英国人はThe Rock と呼ぶ)
この山に登りジブラルタル海峡を眺めた


Dscf0507 ターリク山からモロッコのファハミン山(2162m)
を臨む



Dscf0505_1 軍港。物々しい船はいない。




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ジブラルタル旧市街の広場
住人はもちろん英国人である

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2006年5月24日 (水)

スペイン旅行記5―プラド美術館

最終日にプラド美術館を訪れた。強く印象に残ったのは、見た順に言えば、フラ・アンジェリコの「受胎告知」、ベラスケスの「ラス・メニナス」、ゴヤの「裸のマハ」。

10数年前にフィレンツエに行った時、サン・マルコ修道院が閉鎖中で、フラ・アンジェリコの受胎告知の壁画を見ることが出来なかったので、プラドでは是非見たいと思っていたが、ガイドが最初に案内してくれたのが、これでした。
フィレンツエのに比べると、やや立体感にかけるけれど、基本的な構図は全く同じである。明るく純粋な色彩とシンプルな空間表現による典雅なアンジェリコの絵画世界が私はとても好きだが、ここプラドで実際に見ることが出来、嬉しかった。

展示室で初めて「裸のマハ」を見た時、尋常の絵ではないと感じた。余りにも美しく、生々しい裸体に、じっと見つめることに罪悪感を感じてしまう。きっと、男なら誰でもそうだろう。それは別にして、色彩と言い、明るさと言い、美術書で見て想像していたものとまるで違っていました。マハの横たわるトルコ風椅子のグリーンの鮮やかさ、真珠のように輝く肌の色、やはり実物を見ないと、この素晴らしさは分からない。名画中の名画のひとつであることを、プラドへ来て再認識しました。
この絵は、当時首相までしたゴドイという人物が自分の居宅に置くためにゴヤに製作依頼したもので、、しかも「裸のマハ」の上に「着衣のマハ」を重ねて掛けていた、と言われる。そういう目的を持った絵であるから、本来、美術館などに展示するものではないのかもしれない。とは言ってもこんな美しい絵を残したゴヤに我々は感謝しなければならないでしょう。
それから、着衣のマハより、裸のマハの方が絵画的に好きだと感じたが、美術書の解説によると、「裸」では筆致が繊細緻密で、彫刻的、感覚的な理想が優位を占め、「着衣」では筆触がはるかに暢達(のびのび)で、絵画的理想が優位を占めている・・・そういう違いがあったのか。
なお、プラドの入り口広場には、美術館の建物を睥睨するようにゴヤの像が置かれており、その足元には裸のマハの彫像も添えられています。

ベラスケスのラス・メニナスは実に大きな絵でした(318×276cm)。大きさゆえもあって、じっと見ていると絵の中に入り込んでしまう錯覚を覚える。
本来、この絵は王宮内の政務室に置かれていて、国王が絵の前に立つと、画中の人々が一斉に動きを中断して彼を注目し、国王は画中世界と一体化し得た。正にそのような効果を与えるべく、ベラスケスは眼が現実世界を捉える時の視覚印象を正確に絵に移す努力をした。「これは絵ではない。真実だ」「絵は何処から始まるのだ」と、当時の画家たちに言わせしめたとのことです。
構図にもいろいろ工夫を凝らしているが、中でも後ろの鏡に国王夫妻が映っているのが秀逸です。17世紀のスペイン国王は現人神に擬せられていて、鏡像という形で登場させるという、ゴヤの国王への深慮を示すものだと、私の美術書では述べています。

Dscf0784 フラ・アンジェリコの受胎告知





Dscf0782裸のマハ
美術書のコピーより写真の方が色合いが
実物に近い(プラドはノン・フラッシュなら撮影OK)


Dscf0783 着衣のマハ
ゴドイの居室では裸のマハの上に覆うように
着衣のマハが重ねて掛けられていた


Dscf0787 美術館の建物に向き合って建つゴヤ像
この角度からは見えないが、ゴヤの足元に
裸のマハの彫像が添えられている


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ベラスケスのラス・メニナス(官女たち)

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2006年5月23日 (火)

スペイン旅行記4―ピカソのラス・メニナス(バルセロナ)

観光第1日はバルセロナ。ガウディの独創的な建築に溢れている華やかな都市という既成のイメージは全く裏切られることは無く、楽しい1日でした。それでも、バルセロナで何が一番印象に残ったかと問われれば、ピカソ美術館で見た10数点の絵でした。

プラド美術館の至宝と言われるベラスケスの「ラス・メニナス(官女たち)」を、ピカソが彼流の解釈で、実に44点も模写しているのですが、そのうちの14点が1室にまとめられて展示されており、とても興味深かった。一点一点に、それぞれ異なった、しかも大胆な変形ないしイメージの転換を行なっている。一見してベラスケスの原画と対比できるものから、どうしてこうなるの、というものまで。でもよく見ると、犬、少女、矮人(こびと)などが必ず見つけることができる。時間があれば何時までも見ていたい誘惑に駆られる。
このように、大画家が他の大画家の絵を模写することはよくあることで、自分流の解釈を提示したい、あるいは原画からの束縛から解放されたいという意思からだ、と、ある解説本には記されている。
ピカソの場合、この外に、ドラクロワの「アルジェの女」の模写連作が14点、マネの「草上の昼食」の模写連作が27点あるとのことで、これらを全部見てみると面白いのではないか、と考えるのだが、なかなか難しそう。私のコレクション癖が頭をもたげてしまった。
私だけかも知れないが、ピカソと言えば、理解の埒外の絵を書く人という印象を持っていたが、ラス・メニナスの連作はピカソのやろうとしていたことが分かるような気にしてくれ、今までよりぐんとピカソとの距離が近くなったように思えるのでした。
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ベラスケスのラス・メニナス(プラド美術館=原画)



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ピカソのラス・メニナス連作 第1作
(バルセロナ・ピカソ美術館)

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ピカソのラス・メニナス連作 ヴァリエーション1
(バルセロナ・ピカソ美術館)

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ピカソのラス・メニナス連作 ヴァリエーション2
(バルセロナ・ピカソ美術館)



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タイトルはピアノだが、明らかにラス・メニナスを
ベースにしている。(連作44点外のようである)
ベラスケスの最右端の矮人(こびと)がこのようにイメージ転換された。

さて、バルセロナと言えば、ガウディ。やはり触れねばなるまい。
バルセロナにはガウディの建築作品がどれだけあるのだろうか?今回見たのは、サクラダ・ファミリア聖堂、グエル公園、カサ・ミラの3つです。この内、後ろの二つが世界遺産。意外だったけれど、サグラダ・ファミリアは未完成の理由で登録されていない。
サグラダ・ファミリアは工事現場そのものである。1882年着工、今のところ2022年完工予定となっているようだが、30年はかかると言うのが一般的見方だとか。この日も観光客で溢れていたが、年間の入場料が10億円もあるので、工事が続行できるのだそうだ。自由時間に、完成している8本の鐘楼の一つにエレベータと階段で登って見た。絶景と言うほかなし。完成時には鐘楼が18本になると言うから、凄いだろうな。
鐘楼から降りてきたところで、髭面の芸術家風の日本人とばったり会ったが、添乗員が親しそうに握手し、我々に紹介してくれた。この工事で従事している彫刻家二人のうちの一人、外尾氏(福岡出身)だとのこと。とても嬉しい気分になる。

全く知らなかったけれど、ガウディと同時代の建築家ドメネクの「カタルーニア音楽堂」と「サン・パウ病院」も世界遺産なのです。このうち、カタルーニア音楽堂を自由時間に見に行ったが、これは本当に凄い、筆舌に尽くしがたいほど美しい。19世紀末モデルニスモ建築の最高傑作というのも分かるような気がする。

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サグラダ・ファミリアの鐘楼の一つに登る



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グエル公園の最大の人気者トカゲの噴水


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カタルーニア音楽堂内部
外観も同様に美しい



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カサ・ミラ
最上階はガウディ建築に関する博物館で屋上も見学できる
この隣の隣にあるレストランにて昼食

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2006年5月21日 (日)

スペイン旅行記3―トレドの風景

5月12日夜から14日朝までトレドに滞在しました。
トレドの魅力は何と言ってもよく保存された中世の街並みであり、とりわけその遠景の美しさでしよう。トレドの街は三方をタホ川に囲まれた狭い丘の上にぎっしりと詰め込まれていて、タホ川の対岸の高台から見ると正に絶景なのです。どんなガイドブックにもこの写真は載っているから、誰でも一度は見ていることと思います。どの角度から見ても素敵だけれど、アルカサルを右側に、大聖堂を左側にした配置が、定番でしょう。

この街で後半生を過ごしたエル・グレコがこの風景を描いていることは前から知っていたけれど、つぶさに見た事は無かった。私の朝日美術鑑賞講座には3枚のエル・グレコが掲載されており、その1枚がメトロポリタン美術館所蔵の「トレドの風景」でした。そして今回、トレドのエル・グレコの家でもうひとつの「トレドの景観と地図」を実際に見ることが出来ました。この2枚は一見驚くほど異なっているように思えるけれど、じっくり眺めると両方とも、ドールスの言うようにエル・グレコ独特の飛翔するフォルム、音楽の世界を髣髴とさせる画風ですね。
メトロポリタンの方は、神の声として雷鳴・雷光を描こうとしていると解説にもあり、凄みを感じる絵です。グレコの家の方は、トレドの市街図を手に持つグレコの息子や、タホ川の水源としての女神が描かれていたりして、親しみの持てる絵であると感じた。

エル・グレコがこれらの絵を制作した背景には、トレドをスペインの首都に返り咲かせたいという地元の強い熱意があったとされる。
トレドは11世紀から500年間、カスティーリア王国の首都、ならびにスペイン・カトリックの総本山所在地であったが、スペインの版図拡大に伴い1561年に首都をマドリッドに譲ったのです。

快晴の朝10時、ホテルを出発。迷路のような旧市街を歩いて観光した。大聖堂とサント・トメ教会が目玉である。エル・グレコの最高傑作は「オルガス伯の埋葬」とされているが、これがサント・トメ教会にあるのです。1332年にこの教会で行なわれたオルガス伯の葬儀の最中に起きた奇跡を描いた作品で、絵の構想がやはりとても素晴らしかった。

午後の自由時間に、列車型のミニ観光バス「ソコトレンZocotren」に乗った。狭くて曲がりくねった、急な坂もある旧市街の内部、外回りを40分で周ってくれる。
観光するというより、危なっかしさを楽しむ遊園地的乗り物で、久しぶりに童心に返る。途中、トレド全景を見渡せる絶景ポイントを通ると、歓声が起こった。

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メトロ美術館所蔵「トレドの風景」


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グレコの家所蔵「トレドの景観と地図」


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私が撮影したトレドの風景


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エル・グレコの最高傑作
「オルガス伯の埋葬」

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2006年5月20日 (土)

スペイン旅行記2―コルドバのパティオ祭

今回のツアーは日程的にコルドバのパティオ祭に合わせてあるのが特徴である。私もどうせ行くなら何か祭りを見たいと、これを選んだ経緯がある。
パティオとは、アンダルシア地方に多いイスラム式家屋の中庭のことである。アンダルシアに限らずイスラム世界は乾燥地域であり、夏の暑気を避けるため、家屋は開口部を少なくし、外壁は真っ白にする。そして中庭を設けて水を引き込み、噴水や水槽を置いた。アンダルシア地方では水源は井戸のことが多い。パティオは一家に涼を提供する実用性が第一だが、特にコルドバでは普段からパティオを美しく飾っておくことが家人の心意気とされているとの事。コルドバでは毎年5月にパティオ祭が行なわれ、市の後援する委員会により、優秀パティオの表彰が行なわれる。
パティオの飾りのメインはこの時期に咲き競う花々であるけれど、パティオを構成する内壁、柱や回廊等の建築要素、井戸や噴水、壷や陶器等の小物類も重要である。これらがバランスよく配置されて始めて賞賛に値するパティオとなる。いわば総合芸術といえる。
今回のツアーではパティオ祭に参加している10数軒を鑑賞させてもらった。
通常はパティオは個人宅の庭であり他人が入ることは出来ないのであるから、貴重な経験が出来、とてもハッピーだった。白壁に小さく開いた入り口の扉から通路を経てパティオへ入っていくと、外部からは想像できない世界が広がっていた。
添付の写真は今年の特賞を得た家のパティオである。さすがに、品格が高く、とても優雅である。特に陶器などの小物が凝っている。家人が温かく迎え入れてくれた。いろいろな質問にも答えてくれる。見せてもらったお礼に小銭を置いてくるのが礼儀のようだ。
このように立体的に花を飾るので、水遣りが大変らしい。他の家では、3mほどある長い竿つきのジョウロで水遣りの実演をして見せてくれた。
どの家のパティオも趣向を凝らしていて甲乙付けがたいが、集合住宅(アパート)でも住人みんなで飾り付けたという質素だが心のこもったパティオがあり、印象に残った。
(コルドバ訪問は5月9日~10日)
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 パティオ祭特賞の家1(入り口)


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パティオ祭特賞の家2(メダルが飾られている)


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パティオ祭特賞の家3(別の角度から見る)




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水遣りはこういう風に。



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2006年5月19日 (金)

スペイン旅行記1

18日午後スペインから帰国。
日本は天候不順が続いているようだが、スペインは15日間ほとんど晴天だった。最高気温もスペイン入国直後の21~22度から観光最終日16日には33度にまで上昇。翌日は40度にもなりうると、予想が出ていた。我々はたまたま雨の多い時期が過ぎた直後にスペインに訪れたようで、前の週まではかなりの雨量だったとのこと。
陽射しは強烈だが、乾燥しているので日陰に入るととても涼しい。特に午前中は長袖でないと寒いくらい。とりわけ教会など大きな建物の中は冷える。
午後になると、急に暑さが増し、Tシャツ1枚で充分だった。

野山も街も、何処へ行っても花盛り。只でさえ心が浮き立つ春の旅に文字通り花を添えてくれました。南部および中部の草原あるいは牧草地帯で目立ったのは、白、黄色、紫の野草のだんだら模様と、時折真っ赤なアマポーラ(野生のポピー)の絨毯。
南部の都市でみんなに特に人気のあったのはジャカランタの大木のなんとも言えない薄紫の花と、華やかなブーゲンビリア。

今回のツアーで訪れた都市もしくは村は、バルセロナ、ジブラルタル、カサーレス、ミハス、ロンダ、グラナダ、コルドバ、セビリア、メリダ、カセレス、トゥルヒージョ、グカダルーペ、コンスェグラ、トレドアランフェス、チンチョン、アビラセゴビア、マドリッド。
チャーター・バスの走行距離数は3300Kmにも達した。(この外に航空機も使用)
上記都市の内、アンダーラインは都市自体(旧市街)が世界遺産となっている。世界遺産としては、この外に、バルセロナのグエル公園(ガウディーの作品)と音楽堂(ドメネクの代表的作品)、メリダのローマ遺跡群、グラナダのアルハンブラ宮殿、セビリアの大聖堂、セゴビアのローマ水道橋を今回見ることが出来た。
スペインは世界遺産の最も多い国だそうだが、それにしても今回のツアーは随分欲張ったスケジュールであった。

スペインの生活パターンは日本とかなり差があります。まず、サマータイム。4月からもう始まっていて、表面上は1時間日本より早められているのだが、体感上は2~3時間早いように感じられる。朝6時に起きると、外はまだ真っ暗。お蔭で早朝の散歩は今回はほとんどしなかった。一方、夜は9時半頃まで明るい。(地図を見て分かったが、スペインの標準時間がロンドンより西にあるにもかかわらず、パリと同じに設定されているのだ)
スペイン人の家庭では、昼飯が1日のうち最も重いのだそうで、それも2時~3時ぐらいで、会社や店はすべて午後は4時頃まで休みになる。シエスタ(昼寝タイム)と呼ぶ。
夕食は10時頃に食べるのが普通だとの事。したがってレストランは何処も夕方は8時オープン。
このため、我々のツアーも午前の観光と昼食を2時頃に終え、一旦ホテルに帰りシエスタ・タイムを取り、夕方また観光に出て、8時ごろにレストランに入るというパターンが多かった。夕食を終えてホテルに帰ると10時。風呂へ入って。洗濯をして、明日の移動の準備をして、寝るのは大概12時。
観光は旧市街を徒歩で歩くことになり、1日に大概1万4~5千歩。しかも、シエスタ・タイムにも街へ遊びに行ったりするから、1日中動いていることになり、結構疲れてしまう。そのせいか、あんなに飲んで食べていたのに帰国後体重を測ると、1Kg減少していた。

(続く)Photo_11   

セビリアで見たジャカランタ



Photo_14
セビーリャのアルカサルの18世紀の庭園で見た
巨大なブーゲンビリア



Photo_12
アマポーラの絨毯
(車窓より)


Photo_13酒の会社の看板
高速道路脇は原則として
広告禁止
(車窓より)

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2006年5月 2日 (火)

スペインへ!

明後日4日、成田発でスペインへ行ってきます。したがって、ブログは暫らくお休み。
ユーラシア旅行社の「スペイン物語15日間」というツアーに参加します。スペインは広いので15日間あっても、今回は中央部と南部が主体で、北部はすっぽり抜けています。人は外国について、それぞれ既成概念を持っているが、スペインほど実際に行ってみると事実が異なる国はないと言う。私の場合はどうだろうか?
今の時点で期待を持っているスポットのベスト3は、
①プラド美術館②トレドの街並み③アルハンブラ宮殿
番外はコルドヴァの「パティオ祭」。今回の日程を選んだのも、これが組み込まれているからだ。
ツアーを終えた時、印象に強く残るのはどこだろうか?

外国へ行った時の楽しみの一つはその国の音楽文化を探ること。大したことは出来ないけれど、ツアーの中で、スペイン縁の音楽家の事跡に出会うかもしれないし、もちろんミュージックショップでスペインの今流行りのCDも探そう。ツアー・スケジュールではアランフェスが入っているけれど、ロドリーゴ(アランフェス狂想曲)とは出会えるだろうか?

それでは、帰ってきたら報告します。

Photo_10

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