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2006年7月11日 (火)

西洋中世美術史入門講座を受けて(その3)

先週末、題記講座の第3回があった。講義が始まる前の教室では、講師がテレビ出演(美の巨人たち)されたことが話題になっていました。私は残念なことに見逃してしまった。講師にその話を向けると、「ホンの短い時間ですよ」と、謙遜されるのでした。

本講座は、1千年にも及ぶ中世の美術について、いろいろな切り口から特徴を探っていくもので、今回のテーマは「物語と記憶」でした。以下はその要旨です。

1 キリスト教的な時間
・始まりから終わりに向かう直線的な時間の観念はキリスト教によってもたらされた。
   ・・・天地創造から最後の審判まで・・・これらに関する絵が実に多く描かれ、人々                  は始めと終わりがあることを常に示されながら生活していた。
・一方で繰り返す円環的な時間観念も同時に存在した
   ・・・人生の各段階がが世代を重ねて循環する様を描いた絵等が多く残っている。

2 旧約聖書と新約聖書の対応関係
      旧約の予型が新約で成就するという考え方であり、それに沿った美術が存在する。

3 アナクロニズム
アナクロニズム(時代錯誤)は、あまりいい言葉で使われないが、キリスト教の美術ではむしろ積極的に利用されている。幾つも面白い例がスライドで紹介されたが、例えば、
1317年に描かれた「パリに入る聖ドニ」は、ほとんど何もなかった筈の3世紀半ばのパリへ、最初の司教としてドニが来た時の絵であるが、シテ島には立派な聖堂がありグラン・ポン(大橋)もプチ・ポン(小橋)も描かれている。

4 イメージによる物語表現
・物語とは何か  時間的に秩序付けられた少なくとも二つの命題で語ることが必要。
中世のキリスト教に関わる絵画には、漫画のようにコマ分けして描かれるものもあるが、1枚の絵でありながら、幾つものシーンを同時に描いているものが多い。この場合、1枚の絵の中に、同じ人物が何度も描かれることになる。「異時同図法」である。
・どれほどささやかな物語であっても、それは必ず事件の時間的な連続以上のものである。物語をたどることは既に、起こっている事に対する反省的な判断行為が伴い、全体的な意味を考えることに繋がって行く。(「意味論的巨大構造」と言うのだそうだ)

ここでもいろいろな実例をスライドで見たが、名画でもあるマザッチョ「貢の銭(1425~7)」の場合をここに示しておきましょう。
この絵には、次の3つのシーンが同時に描かれている。
<シーン1> 中央では税を要求する収税吏に対し、キリストが右手で湖岸を指し示す。左側に厳しい表情のペデロが立ち、キリストに目を向けつつ右手で湖岸の方角を示す。
<シーン2> 画面左端では、ペデロが岸辺で魚の口から銀貨を取り出している。
<シーン3> 画面右端では、ペデロがその銀貨を収税吏に渡している。

Photo_48マザッチョ「貢の銭」
(サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂/フィレンツェ)


「貢の銭」は、マタイ伝の奇跡の物語である。
ユダヤでの宣教中にイエスと弟子たちがカペナウに来た時、収税吏が来て、ペテロに「あなた方の先生は税を納めないのか」、ペデロは「納めておられます」と言う。
ペデロの家に入った時、イエスが言われた。「世の王たちは税や貢を誰から取るのか?自分の子からか、他の人たちからか?」。ペデロは「他の人たちからです」。イエスは言われた「それでは、王の子たちは納めなくてもよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って釣り糸をたれなさい。最初に釣れた魚の口を開けると、銀貨が見つかるだろう。それを納めなさい。」

このような絵はどのように見ればよいのか?講師は、「時間の順に見なければならない理由は何もない。私たちが絵の内容を把握する時間と、物語の時間とは別物だ。絵は、私たちが物語についての認識を心の中に作り上げるための素材だ、と考えればよい」と言う。

5 言葉とイメージ
「言葉とイメージ」は中世美術を考える時には重要な視点である。それはキリスト教が言葉の宗教であることから来ているとも言える。・・・初めに言葉ありき・・・(ヨハネ福音書)
特に中世初期において、文字がイメージを補完したり強化したりする目的で美術に取り込まれている例が多い。時には文字自体が華麗にデザインされ、象徴性を高め、アートになっている。

6 記憶と美術
中世においては、重要な事柄をきちんと記憶させるために、適齢の子供に必要な教育体験をさせた上、川の中に投げ込んだと言う。このような一見乱暴なやりかたは、最新の研究でもその効果が裏付けられている。強烈なストレスはアドレナリンなどのホルモンを放出させ、扁桃帯が活性化して、強固な記憶を作り出すのだそうです。

トマス・アクィナスは、教会に美術つまり画像を置く理由として3つを指摘している。
①読み書きの出来ない人々の教育のため。書物によるのと同様に画像によって教育される。②人々の目に日常的に示されることにより、奇跡や聖人の範例が記憶によりよく刻み込まれる。③信仰の感情をより強く刺激する。

中世の時祷書等の書物には、記憶の表象や定着のために、文字の形や色、位置や並び方、絵の挿入、羊皮紙の彩色などに、あらゆる工夫が凝らされ、結果として美術的価値が高いものになっている。

記憶とは、コンピュータのハード・ディスクに仕舞い込むような、単なるデータではない。記憶はその都度作り出されるもので、想像的、もっと言えば創造的構築なのだ。
(この講座ではこんなところまで踏み込むんでしまう・・・)

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