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2006年12月に作成された記事

2006年12月30日 (土)

インド旅行の印象その17(ジャイプル市内その2・・・最終)

ジャンタル・マンタルを後にして、「風の宮殿」を見がてら、バザールへ行った。
風の宮殿はバザールの大通りに面しているのである。5階建てというのだろうか?奥行がまったく無く、薄っぺらであるが高さは高い。扇子を拡げたような感じだ。かつて宮廷の女性たちが住み、ここから街を見下ろしていたという。590室もあるようだ。いかにも風通しが良さそうだから、この名が付いた。ジャイプル旧市街の統一色ピンクが映え、とても優雅である。
1054
風の宮殿。
この色が、ジャイプル旧市街の統一色。
ピンクシティと呼ばれる所以である。

風の宮殿のすぐ脇からバザールの店がぎっしり並んでいた。集合時間を決めて自由に散策することになった。
お昼過ぎという時間帯だったが大いに賑わっていた。雑貨を売る店、道路上で野菜を売る女性、ピーナッツを売る屋台・・・またもや蛇使いがいた・・・今度は上手く写真を撮った。雑踏の中を時折、色鮮やかなサリーの女性が颯爽と歩いていく。人力のリクシャーにインド人夫婦が中睦まじく乗っている。バスを待つ女学生が大騒ぎしている。店の前で雑談を楽しむオヤジさんたち。チャーイ(インド風の香辛料入りミルクティー)屋も人でいっぱい。何かを焼いている匂いがする・・・。
庶民のエネルギーが充満していて、インドにいるんだなという実感が湧いてくる。久しぶりに開放感を味わうことが出来た。

F1022_11023F1029 ピンクシティを行く。
 



0271058コンフュージョン。




F1030F1032F1036バザールの人々。   




F1048F1059F1055どうしてもサリーの女性に目が行ってしまう。   



F1040バスを待つ女学生たち。





インド旅行記もようやく終着駅に到達したようだ。ジャイプル市内の庶民の様子を伝える次の2枚のショットで掉尾を飾ろう。(今回撮った中で、最も好きな写真です)

F1024_1ジャイプルのある街角を覗いたら、ぎっしりと人や物が詰まっていて、無意識にシャッターを切った。帰国後、スクリーンに大写しにしてみると、ジャイプルの街が眼前にぱっと広がったのでした。あの時の街の熱気と、喧騒と、匂いすら甦ってきました。

025いかにも貧しそうな父子。ジャイプルを離れるバスに乗るとき、物乞いをするでもなく、親子で手を振ってくれたので、思わずシャッターを切った。ピンボケで頭も切れているが、印象深いショットになった。
さようなら、インドの皆さん!

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2006年12月29日 (金)

インド旅行の印象その16(ジャイプル市内その1)

アンベール城からジャイプル市内へ戻り、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、風の宮殿などを見た。
ジャイプルの旧市街は、7つの門を持つ城壁に囲まれた地区である。街並みはピンク一色に統一されており、「ピンク・シティ」と呼ばれる所以である。

《シティ・パレス》は、ジャイプルの正に中心にある。1726年、時のマハラージャ、サワーイ・ジャイ・スィン2世により建てられた7階建ての美しい建物です。現マハラージャの住居でもあり、ここに滞在中は、ラジャスタン州の五色の旗の上に小さな目印の旗が翻る。この日は滞在中で、専用の立派なSUV車(トヨタのランドクルーザのようなごつい車、フロント・グリルには凄い紋章が付いていた)が駐車していた。
中庭には博物館がある。テキスタイル館には歴代のマハラージャが着た衣類が展示されていた。このほか、絵画や王家の写真があるギャラリー、武器庫などがあった。
博物館のある中庭から、狛犬のように2体の象の彫像に守られたラジェンドラ門をくぐって館に入ると、貴賓謁見の間に出るが、ここには衛兵に守られて大きな銀製の壷が二つ置かれている。1902年、エドワード2世の戴冠式に出席するための旅行用にマハラージャが持参したものという。敬虔なヒンドゥー教徒だった彼は、この壷にガンガーの水を入れて行き、毎日沐浴をしたと言われる。世界一大きい銀製品としてギネスブックに登録されている(900L)。 
01180119左はシティ・パレスの入り口。 
右は中庭から7階建ての本館方向を見る。
ラジャスタン州の五色旗の上にマハーラージャ滞在中を示す小旗が翻っている。

0124 本館への入り口、ラジェンドラ門。立派な服装の衛兵が守っている。




0121 これにガンガーの水(沐浴用)を詰めて、イギリスまで行ったという。
世界一大きい銀製品としてギネスブック入り。



《ジャンタル・マンタル》・・・インドにはとにかくいろんなものがあるのですね。驚くばかり。
ジャイプルの街を拓いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世は、天文学にも造詣が深かった。彼はペルシャやヨーロッパの書物や、中央アジアのウルグ・ベグの天文台を参考にし、ムガル皇帝の許可も取り、インド各地に天体観測儀を集めた天文台を造った。デリーが最も早く、ジャイプルは2番目で1728年であるが、規模はジャイプルが最も大きいそうだ。
狭い門をくぐって中へ入ると、広い敷地に、現代アートのオブジェと見まがう、いろいろな形をした石の構造物が並んでいる。それぞれ異なる用途を持った天体観測儀なのだ。その場で説明を受けたが、とても頭に入るものではない。ただただ、感心するばかり。
なお、ガイドブック(地球を歩くシリーズ)に詳細な説明が載っていたので、コピーを載せておきましょう。
私が特に興味を持ったのは、ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラという12体からなる観測システム。ジャイ・スィン2世の発明だそうで、12の星座の位置を正確に決めるためのもので、占星家に利用されたもの。それぞれに星座のマークがついているので、自分の「乙女座」の装置の前に立ってみた。
もうひとつサムラート・ヤントラ。高さ24.7mと、最も大きい観測儀。現地時刻、天頂距離、子午線などを測るものらしい。巨大な直角三角形部分の円空に向かう斜辺の方向は正確に北極星を指している。日時計としては2秒単位で時間を図ることができるという。
このサムラート・ヤントラには、もの凄く細くて急な階段が付いていて登ることができる。私としては当然登ることになる。敷地内の全ての観測儀が俯瞰でき、さらにはシティパレスの優雅な建物が見え、その向こうの山の上にはアンベール城まで見える。素晴らしい展望だった。
出口付近で、理科の先生という観光客の一人が、ガイドと熱心に議論をしているのが印象的だった。

Photo_126ジャンタル・マンタルを紹介するガイドブック。




0130
サムラート・ヤントラという高さ24.7mの観測儀に登ってサイトを見回したところ。

0133サムラート・ヤントラ。いろいろな機能があるが、日時計としては2秒単位で時刻を計測できる。なお、登ったのはこれと対になっているほんの少し低めの構造物の方である。これを登るには決死の覚悟がいる。誰か落ちるまでは開放されているのだろう。




0131_10132_1左の写真;高い建物がシティ・パレス 、山の上にアンベール城が見える。
右の写真;角度を変えると風の宮殿(後述)が見えた。これまた風変わりだ。

012901280126左;ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ。星座ごとの位置観測儀。12星座分ある。
中;滑り台のようなのがサグー・サムラート・ヤントラ(小型サムラート)。手前の孔になっているのはチャクラ・ヤントラ。その拡大を右の写真に示す。子午線通過時間や惑星、星の位置を測定するものというが、どういう理屈になっているのか理解不可能でした。

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2006年12月28日 (木)

インド旅行の印象その15(アンベール城)

11日目、最後の観光はジャイプルだった。
デリーの南西270kmにあるジャイプルは、ラジャスタン州の州都であり、人口は230万人。デリーからアラビア海へ抜ける交通の要衝に位置し、12世紀以降、ラージプート族の王国が抑えていたが、1600年以来ジャイプルの北方8kmのアンベールに堅固な山城を築き、首都としてきた。その後、この地が政治的に安定してきたので、サワーイ・ジャイ・スィン2世が1727年に都を平地(現在のジャイプル旧市街)に移した。したがって、旧市街も、ぐるりと城壁に囲まれている。
なお、この王国に系譜的につながるジャイプル藩王国が1949年までこの地を首都として存続してきた。

ジャイプルのホテルを出て、先ずアンベール城へ向かった。バスで20分も走ると右も左も山が迫ってくる。あちこちの尾根に城砦のような建造物が見え、やがて、アンベール城の真下に到着。我々は4輪駆動車に分乗して曲がりくねった、狭い急坂を駆け上る。高低差は100mはあろうか。4輪駆動車に乗るとき、城の方を見上げるとW字に坂が登っていくのが見え、何か赤い点のようなものが蟻のように登って行く。よく見ると「象」だった。こちらも観光客に人気があって、象待ちの人々がたむろしていた。

ガイドが言うには、象は危ないから乗らない方がいいです、と言う。たまたま帰国して数日後の日経新聞の記事に「象との共生に全力」と言う記事が出ていて、〝インドでは毎年250人が象に襲われて死んでいる。でも危険だから処分するという結論には至りません(インド科学研究所生態学センター ラマン・スクマール教授)〟ということだそうです。この記事によると、インドには野生の象がかなりいるらしい。象の回廊が高速道路の予定地と重なるなら、計画を変更するとのこと。また、象は酒が好きで、民家に押し入り住民を踏み殺すと言う事件が相次いだ。象の回廊に重なる集落では家に大量に酒を置かないように指導している・・・・脱線してしまった。

アンベール城は世界遺産にはなっていないが、とても素敵な城だと思う。周囲の山々には万里の長城のように城砦が並ぶ。一方宮殿もなかなか美しい。水を利用した冷房システム付きの夏の宮殿、壁中に鏡をちりばめた装飾が見事な冬の宮殿・・・1本のろうそくの灯が何千もの像を作る・・・

0072アンベール城の外観。
右の方のW坂の途中に赤い点のように見えるのは象タクシー。


00880081左は城門を入るところ。 
右は象タクシーのプラットホームらしい。


0089宮殿への入り口。装飾が美しい。



010801040107城壁の回廊から見る展望。 
周りの山の尾根には城砦が点在し、万里の長城をみているようだった。

01130110勝利の間は鏡の間あるいは冬の宮殿とも呼ばれる。
鏡をちりばめた幾何学模様が独特である。
0111




00940093歓喜の間は室内を水が周る仕掛けがあり、夏も涼しく過ごせるようになっていて、夏の宮殿とも呼ばれる。 
パステルカラーの壁面モザイクと、中庭。中庭のデザインは扉のモザイク模様と同じになっている。
00970114_1左はハーレムがあった場所。
猿も住人だ。 

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2006年12月26日 (火)

インド旅行の印象その14(ファテープル・シクリ)

ファテープル・シクリ・・・
インドの言葉になれていないせいもあるが、とても不思議な響きのする言葉である。「勝利の市」を意味すると言う。アグラの南西40kmに位置する。
ムガル帝国を揺るぎ無きものにしたアクバルは、都をアグラから別のところに移すことを決意する。それは、永らく恵まれなかった世継ぎが、ある聖者の予言によって、1571年にようやく生まれたことによる。シャイフ・サリーム・チシュティーという聖者だが、名誉と感謝を捧げるために、彼が居を構えていた、アグラから少しばかり離れた、湖を見下ろす岩盤台地上の眺めの良い場所を選んで、新都を建設したのである。
建設には15年以上かかった。そして居住開始してから僅か14年で放棄されてしまった。一般的な説明としては、水の確保が困難であったことが理由とされる。
しかし、1585年のシクリからラホールへの遷都は、不安があった辺境地域に備えるためで、水が原因とばかりは言えないという説もある。なお、アクバルは1598年に首都をラホールからアグラに戻しているが、なぜシクリに戻らなかったかも謎である。

ファテープル・シクリの代表的な建物はパンチ・マハルとディーワーニ・ハースであろう。
聳え立つような近づきがたい無装飾の赤色砂岩の外壁が一連の居住用の宮殿建築を取り囲んでおり、それらは全て中庭に向かって開かれている。西インドのクジャラートによく見られる形式だという。あたかも木造のように見えるのもここの建物群の特徴である。用途は基本的にはハーレムだという。

とりわけ目立つ五層のパンチ・マハルは涼風を求める楼閣で、ここで宮廷の女性たちが、繊細な格子模様のあるスクリーンでプライバシーを守りつつ、寛いだとされる。スクリーンはほとんどが失われているが、断片があるので確かである。最下層の柱は84本、最上階は4本。上にドームが乗る。柱は全てデザインが異なる。

さらに風変わりなのは、ディーワーニ・ハース。皇帝の公的な謁見の広間と呼ばれている。実際の用途はさらに研究の余地ありということのようだ。2階建てで、頂部の四隅に背の高いチャドリー(傘型屋根をつけた小亭)を乗せているのも変わっているが、さらに驚くのは内部の構造である。中央に普通ではとても考え付かない風変わりで豪華な柱頭を持った柱がある。この柱は円形玉座を支えているのである。そして円形玉座からは橋がかけられ内部の階上席へと繋がっている。アクバルはこの中央の玉座の上に敷かれた絹のクッションに座して、階下に立つ市民の訴えを聞いたというのが、これまでの説だそうだ。研究者の中には貴石や宝石を検閲したと考えるものも居るようだ。
いずれにしても、この空中に浮遊するような玉座によって、アクバルの地位は宇宙的存在、ムガル帝国の絶対的中心であることを宣言しているという。

アグラで、タージ・マハルとアグラ城という大物をを見た後だったので、ファテープル・シクリの観光に入った時は、集中力がかなり途切れていたと思う。第1印象が「何か妙な・・・」であった事もある。そのせいで写真の枚数が少ないのである。今から思えばタージやアグラ城以上に面白い観光スポットだったのに。とても残念だ。
特に、写真を撮らなかったもので大事だったのは、ブランド・ダルワーザと呼ばれる赤色砂岩の巨大な門である。高さ54mで形もユニーク。アーチ型の開口部周辺はコーランの詩句によるカリグラフィの幅広の連続模様で縁取られている。
もうひとつ撮れていないものがある。預言者シャイフ・サリーム・チシュティーの廟である。
原因は分かった。時間があまりないせいもあり、最初に全体説明があり、即、自由時間になってしまったからだ。この地の専門のガイドが付いて、それぞれの対象物の前で説明を聞いていれば写真を撮らないはずが無いのである。

しかし、ファテープル・シクリの最後に思い掛けぬ余興が待っていた。当初から問題とされた水の確保のために大きな貯水槽があるのだが、これを見ながらガイドの説明を聞いていると、貯水槽の向こう側に点のように見えた人物が、突然大きな声をあげ、両手を広げて水面から10m近くある水槽の縁に立った。裸のようだ。そしてあっという間に飛び込み・・・浮き上がり・・・岸に泳ぎ着き・・・我々のところまで走って来た。その間ものの数十秒。見事といわざるを得ない。かなりの収入を得たようだ。インドにはパフォーマンスをやって金を稼ぐ人々が多いが、こんなのもありか。世界遺産の中でやれてしまうのもインドならでは?

0067ファテープル・シクリの入り口。
逆光で見難いが、高い塔が、ブランド・ダルワーザのようである。斜め後ろから見た形になる。


Photo_123ブランド・ダルワーザ。54m の高さがあるというのだが、何処から測るのか?写真が無いので、「インド美術」から引用。







100600605層のパンチ・マハル。ここはハーレムである。




00652層のディーワーニ・ハース。
皇帝の公的な謁見の広間



0061ディーワーニ・ハースの内部中央にある皇帝の玉座とそれを支える柱。
普通では考え付かないデザインである。この上にアクバルが座り、下に居る市民から訴えを聞いて裁いた。主要な貴族たちは王の玉座と橋で繋がった壁際の階上席に座った。





Photo_124預言者シャイフ・サリーム・チシュティーの廟。
これは見た覚えが無いのです。「インド美術」から引用。



F1012
用途不明



0063 貯水槽の中へ、いざ!

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2006年12月25日 (月)

インド旅行の印象その13(アグラ城)

アグラは、デリーからヤムナー河沿いに200km下ったところにある、人口130万人の静かな地方都市である。歴史的にも紀元前3世紀から名前が知られていたが、16世紀半ばにムガル帝国第3代皇帝アクバルがここに首都を置き、以後1世紀足らずの間、帝国の中心として繁栄した。しかし、1938年にはシャー・ジャハーンが首都をデリーに移してしまった。

アグラ城は1565年に築かれた、ムガル帝国の象徴にふさわしい堂々たる城だった。それは、堀を渡り、城内への入り口、アマル・スィン門をくぐる時に実感する。
華やかな時代があったはずなのに、アグラ城は物悲しいイメージがつきまとう。それは、タージ・マハルを造ったシャー・ジャハーンが幽閉され、失意の裡に亡くなった場所だからであろう。
城からのヤムナー河を見渡す眺めはとても素晴らしい。2~3km先にやはりヤムナー河沿いに建つタージ・マハルは、この日は靄がかかり、うすぼんやりと空中に浮くように見えた。
ヤムナー河を見下ろす城壁内の回廊を進んで行くと、シャー・ジャハーンが1日中、タージを眺めていたという空中に突き出たような形になっているテラスに出た。その後ろには彼が幽閉されていた部屋があった。元王にふさわしい華麗な装飾に満ちた素敵な部屋だった。いずれも立ち入り禁止で外側から眺める。特別の場所だからでしょう、念入りな手入城内には、宮殿のいろいろな建物があり、特に印象の残ったのは、謁見の間が面する中庭のモダンなデザインでした。

00330035_1堂々とした門構えのアグラ城。アマル・スィン門(南門)より城内へ。左は内側から門を見る。 



00400041 城壁に取り付けられた回廊を行く。
ヤムナー河の湾曲部のはるか向こうにタージ・マハルがかすかに見える。右はシャー・ジャハーンが毎日、タージ
を見ていたテラスを写す。

F1003 城壁と一体となった回廊。
眺めが素晴らしい。



00510050 シャー・ジャハーンの 居室(ムサンマン・ブルジュ=囚われの塔)。装飾が美しい。噴水がトルコ絨毯のように見えるデザインが面白い。


00530057左は謁見の間がある建物が面する中庭。これもデザインの妙。
右は謁見の間の続きの建物。


0036美しい芝生が宮殿の建物を引き立てていた。




S_26
アグラ城を訪れていたインド人の子供連れ。

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2006年12月24日 (日)

インド旅行の印象その12(アグラ;タージ・マハル)

最後の3日間は、デリー⇒アグラ⇒ジャイプル⇒デリーと、1辺が230kmぐらいの三角形の移動が必要だった.この地区に素晴らしい観光スポットが集中しているのだ。
地図で見ると近いように思われるが、あまり良くない道路を、よく弾むシートのバスでそれぞれ5時間(休憩を入れて)ぐらい走るのはかなり忍耐が必要だった。

10日目はなんと世界遺産を三つも見た。アグラのタージ・マハルとアグラ城、それから40kmほど離れたファテープル・シクリである。

タージ・マハルは今回のツアーのハイライトでもあるのだが、写真や絵でさんざん見ているから新奇性は無く、淡々と見ることになるだろうと思っていた。
しかし、実際に、赤砂岩で出来た楼門をくぐり、広々とした庭園に建つ白く輝く優美な姿を見ると、身震いするほどの興奮を覚えました。タージを見るためにツアーに参加したという人も何人かいたから、きっと満足感を得たことだろう。タージ・マハルを賛美するのにいろいろな言葉があるだろうが、野暮だから止めておこう。

タージ・マハル建設の経緯についてもよく知られてはいるが、整理してみよう。
ガイドの説明。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の妻ムムターズ・マハルのために、1631年から22年かけてヤムナ河畔に建てた墓である。ムムターズは生前、皇帝に三つの願い事をしたという。
①綺麗なお墓を建てること②他の女性と結婚しないこと③息子を王にして欲しい
シャー・ジャハーンは、さらに自分のために、ヤムナ河の対岸に黒大理石で瓜二つのタージを造ることを計画していたが、3男が兄たちを殺して勝手に王になり、シャー・ジャハーンをアグラ城(ヤムナ河のタージと同じ側の2kmぐらい離れた場所にある)に幽閉してしまった。
シャー・ジャハーンはアグラ城から毎日タージを眺めながら、失意の裡に世を去った・・・
娘たちの強い意向で、シャー・ジャハーンはタージの妻ムムターズの傍らに並べて葬られることになった・・・

もう少し補足をしよう。以下は、岩波の「インド美術」を要約して引用した。
シャー・ジャハーンはムガル建築にかつて無いほどの大量の大理石を投入し、楽園のイメージに満ちたものを目指した。それは、タージ・マハル本体の入り口アーチの周囲の白大理石の帯に埋め込まれた黒大理石によるカリグラフィで記された、コーランからの一節が示している。
〝これ、静かに安らぐ魂よ、
 汝の主のみもとへ帰り行け、気に入り、気に入られて、
 さあ、わし(アッラー)の僕(しもべ)らの仲間になるがよい、
 わしの楽園にはいるがよい〟
広い庭園は4分の1づつ、四季を通じてその時々の花が咲き乱れるように計画された。カーネーション、アイリス、チューリップ、ヒアシンス、ジャスミン、蓮、マリーゴールド、水仙、百日草など。楽園に関係する花々は、大理石の彫刻や貴石の象嵌によってタージの建物に写し取られた。貴石は薄く正確にカットされて大理石に象嵌された。ヒスイ、ラピス、琥珀石、紅玉髄、碧玉、アメジスト、瑪瑙、血玉髄、緑柱石。微妙な濃淡の効果は様々な色調の石を使うことで達成された。1つの花に37個もの象嵌がなされているものもある。

最近の研究によると、タージ・マハールは「一般的な楽園」をイメージしたものではなく、最後の審判の日に現われる「天上の楽園」を想定したものだという。
タージ・マハル自体が神の玉座として造形された。おそらく四方のミナレットは玉座の天蓋を支えるもので、さらに前面の庭園の真ん中にある大理石の基壇は、預言者ムハンマドが魂の運命を定める基台を表現しているようである。建物の様々の部分に彫られた碑文の研究によると、審判の日について述べるコーランからの詩文が全て表わされていると言う。例えば、西側には〝大空の裂け割れる時、星々の追い散らされる時、四方の海、かたみにどうと注ぎ込む時、すべての墓が発かれる時・・・〟と刻まれている。
こうしたコーランの章は、目の前で世界の終わりを目撃したいと思う人々によって朗唱されるべきものなのだ。
タージ・マハルの建物の中央部分に二人の棺が置かれているが模擬棺であり、実際のものはその下の地下に安置されている。そして、イスラムの伝統によれば、もっとも神聖な場所は神の玉座の真下である。
したがって、タージは最愛の妃のための壮麗な墓所と言う目的だけで建てられたとは信じがたいのである。シャー・ジャハーンは、自身のための墓でもあると、常に考えていたに違いない。

004これまでよく写真で見ていたのと全く同じように撮れるのですね。いや、カメラが良かった所為かな。記念写真屋がいっぱい居たが、彼等の仕上がりは構図こそいいが、発色は現物から程遠かった。


Photo_120 全体像が分かりにくいので、俯瞰図を掲載した。
シンメトリーと比例の単純さによる調和を究極まで追求した設計である。高さと幅は全く同じ55m。ドームとその下のアーチ部分は同じ高さである。左右離れたところに大理石で象嵌された赤色砂岩の建物があるが、左はモスクとして使用されたが、右側は応答もしくは反響と呼ばれる建築上のレプリカであり、左右対称を維持する目的のために造られた。
手前の庭園内の基壇は、楽園に豊かな水をもたらす天国の貯水槽のレプリカであるという。しかし、本文に書いたように、タージ・マハル本体が神の玉座とすれば、この基壇は神の前にひれ伏すための場所とも考えられる。

00170017_1 正面アーチ部分
一見真っ白に見えるタージ・マハルの建物は、近寄ってみると東西南北全ての外壁が装飾で埋められているのだ。

_00190024左は西面。右は北面、遠くにシンメトリーを維持するためのレプリカの建物が見える。


Photo_121
貴石による象嵌の例(岩波「インド美術」より)


00030006タージ・マハルの庭園への入り口の楼門。
内部の素晴らしさを予告しているようだ。



0020 タージマハル基礎台から逆光で霞む楼門を見る。
庭園の様子が分かる。



Photo_122 タージ・マハルの基礎台の上から庭園を見回していると、こんな風景を目にした。インド式芝刈りはとても優雅である。

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2006年12月23日 (土)

インド旅行の印象その11(デリー市内 続き)

デリー市内でもうひとつ世界遺産を見た。クトゥブ・ミナール。

前回も書きましたが、デリーが地理的・交通的な要所にあるため、西からの外来勢力、つまりイスラーム教徒の侵入を古くから受けてきた。
10世紀にはイスラーム圏はスペインからインド周辺までの広大な地域を勢力下に治めていて、ガズナ朝などは1000年から1025年の間に17回もインドを襲撃した。兵力は主としてトルコとアフガン人であったようだ。
その1世紀半後、ムハンマドはヒンドゥー連合軍を破り、北インド全体を占領したが、1206年に暗殺されてしまった。すると、その配下の武将で、奴隷からデリーの太守に出世したクトゥブ・アッディーン・アイバクが独立宣言し「奴隷王朝」のスルタンを名乗った。その息子と2代にわたり、北インドに帝国を築いた。
生きるか死ぬかの壮絶な戦いを続けて来たイスラーム兵に対し、当時のインド兵は戦争とは君主の気晴らしであり、決められたルールにより行なわれる競技であり、日没になれば武器を捨てるという人たちであったという。
クトゥブ・アッディーン・アイバクが征服後にまず実行したのが、それまで君臨していたヒンドゥー王朝の城砦や寺院の上にイスラームのモスクを建造することであった。
クトゥブ・ミナールにおいても、すぐそばのヒンドゥー寺院を破壊し、その石材を利用して、壮大なモスクが築かれた。遺跡に残されたペルシャ語の刻印によれば、1192年から96年にかけて建造されている。

実は、このような歴史についてはほとんど知らずに、現場を見たのでした。ガイドの若干の説明はほとんど耳に残らず、ただただ、モスクの廃墟と巨大なミナレットをぼんやりと眺めていました。そのため、モスク廃墟の重要なポイント、「持ち送り式のアーケード」を見過ごしてしまい心残りである。帰ってから点検してみると、写真には遠目に写っていることは写っているのでしたが。

さて、クトゥブ・ミナール遺跡の最大の見ものは世界で最も高い石製の塔である。72.5m。元は100mあったが、飛行機事故でこの高さに縮まったという。
クトゥブ・アッディーン・アイバクは彼の建てたモスクの南側に巨大な砂岩製のミナレットを建造した。祈りを呼びかけるためと言うミナレットの本来の目的から離れ、インドにおいてイスラームが最高であることを宣言するのが目的だったろう。そのことは、最下層に幅広く、アラビア文字のカリグラフィに花葉文を散りばめた装飾帯があり、コーランの言葉や歴史的銘文が刻まれていることから分かるのです。

0328_20336_3クトゥブ・ミナールとは通常、この塔を指す。
高さ72.5m、直径14.5m。世界で最も高い石の塔。
5層のうち、下層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれている。
巨大さにただただ驚く。


 

0332_2 最下層の外壁に刻まれるコーランの装飾文字。



Photo_118S0335 ヒンドゥー教寺院を壊して造られたモスクはクッワト・アル・イスラームと名づけられた。その廃墟の中に何とか形をとどめていた持ち送り式アーケード。イスラーム圏で行なわれていた真正アーチ工法がとられている。ここでも、アラビア文字のカリグラフィと、葉状のアラベスク模様で飾られている。鉄柱は4世紀にヴィシュヌ寺院に奉納されたもので、戦勝記念としてここに移築された。(左の写真は岩波「インド美術」より。右が自分の写真)

デリー市内で見た他の観光スポットの写真を一応掲載しておこう。

0301 インド門。
第1次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊塔。高さ42m。
インド門の彼方に大統領官邸が霞んで見えた。


0300 デリー市内では歴史的なヒンドゥー教寺院は数少ない。
ラクシュミ・ナーラーヤン寺院。1932年大富豪ビルラによって建てられた。極彩色のオリッサ様式。ヴィシュヌ神とその妃ラクシュミー女神が中心的に祀られていた。

デリー市内のスナップです。
0986 デリーまで来てようやく象を見た。
有力な政治団体の集会があり、駆り出されたらしい。(車窓より)



03240325車窓から見たデリー市内。
オートリクシャーもデリーのはきれい。
道路の所々にスラムを見かける。


0990 0995
昼食のレストランは裏通り。日本食だった。 
街角にはインド式ファストフードもある。日本の屋台と変わらない?

Photo_119レストランの通りの奥の方はこんな風だった。

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2006年12月22日 (金)

インド旅行の印象その10(デリー市内)

デリーは巨大な都市である。人口は1380万人。地方=田舎からの流入がとどまることを知らない状況のようだ。とにかくデリーへ出れば何がしかの仕事がある。少なくとも生きていけるだけの食い扶持はかせげるようだ。才能があれば上昇気流に乗れるかもしれない・・・。
しかし、特にデリー市内の古い地区は、超過密でスラムもあふれているようだ。住むところの無い人のために、市当局やお金持ちの篤志家が、道路上に大きなテント小屋を提供してくれている、ということであったが、私たちも幾つかそういうテントを目撃した。デリーの夜は冷え込むから、毛布もちゃんともらえるらしい。最低限のことではあるが、思いやりが感じれれてホッとしたことでした。

今回のツアーの欠点であるが、ムンバイにしろデリーにしろ、大都会の現実をつぶさに見、都市文化を肌に感じる事ができるだけの時間がほとんど無かったのが残念である。
私たちは、実質半日でニューデリーの4箇所の観光ポイントを周っただけだった。

デリーは、地理的には広大なインダス・ガンガー(ガンジス)平原の分水帯に位置し,ベンガル湾,デカン高原,アラビア海さらには中央アジアからの交通路が集まる戦略的要地を占める。そのため,インド史上とりわけ西方からの外来諸勢力の根拠地となって来た。インドは永く小国分立の時代が続き、デリーには12世紀まではヒンドゥーの諸王が、それ以降はムスリム王権が都を置いた。ムガル帝国は何度も遷都を行なっているが、第2代皇帝のフマユーンと第5代皇帝シャー・ジャハーンはここに都を置いた。現在のオールドデリーである。1911年、英領インドの首都がカルカッタからデリーに移され、ニューデリー地区に官庁群が建設されることになって今日に至っている。したがって、古くて超過密のオールドデリーと、近代的で人口過少のニューデリーと、対照的な二つの顔を持つのです。

観光は、ラクシュミーナラヤン寺院、インド門、フマユーン廟、クトゥブミナールを見たが、後ろの二つは世界遺産だから少しく触れることにしよう。

まず、フマユーン廟。1993年世界遺産登録。
ムガル帝国は第3代アクバル皇帝によって名実共に、全インドを統治するようになったが、彼の父のフマユーン(第2代)のために壮大な廟を建造、1571年に完成させた。建築に際しては、フマユーンの王妃がイラン人の建築家ギヤースを招いたと伝えられる。
タージ・マハルにつながる、広大な庭園付き墓廟の先駆けである。

十字型の水路によって4分割された庭園の中央に墓廟は建てられた。墓廟は赤色砂岩を用いて建てられ、白大理石で象嵌されて、高い基壇の上に据えられている。廟の内部は中心に8角形の部屋があり、それが8つの連結した部屋で囲まれるように構成されている。そして、大理石で出来たハニカム状に穴が開いているスクリーンから眩しいほどの光が石棺に降り注いでいる。これは、イスラム教では、光が神のシンボルだからである。
この庭園を含む全体構成はイスラムの楽園を視覚化したものと言われる。(この部分は岩波「インド美術」を引用)

S0310赤色砂岩と白大理石のフマユーン廟




S_0308S0309S0317 左は第1の門。その内側に第2の門。一番右は廟の基壇上から見たもの。


S_25中の門の内側に、華麗なペルシャン・タイル
の痕跡が残っていた。 




S0316孔の開いたスクリーンから神の光が降り注ぐ。




長くなったので、この辺で切って、デリーの続きは次回に。

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2006年12月18日 (月)

インド旅行の印象その9(エローラ)

石窟寺院が続く。エローラ。西インド、アウランガーバードの北西25kmの、なだらかな丘陵の麓に2kmにわたって、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟が並ぶ大規模な遺跡である。全部で34窟。1~12が仏教(7~8世紀)、13~29がヒンドゥー教(6~9世紀)、30~34はジャイナ教(9世紀)である。1983年世界遺産登録。

現地ガイドはK.カーン氏だった。彼は「河童が覗いたインド」の妹尾氏も案内した大物ガイドである。「・・・でございます」が口癖だと、妹尾氏は書いているが、とても流暢な日本語になっていた。大物ぶりは、他の観光客がいなくなった隙に、現場監視員に目配せして、ガイド内でもあまり知られていない特別のポイントに我々を連れて行き、紹介してくれたりすることで分かった。
ガイドによる見学は、第10、12窟(仏教)、第16窟(ヒンドゥー教)、第32窟(ジャイナ教)だったが、何と言っても、エローラのハイライトは第16窟のカイラーサナータ寺院である。

カイラーサナータ寺院は、ラーシュトラクータ朝盛期(8~9世紀)の岩石寺院(石窟ではない)で、幅45m強、奥行85m弱にわたって岩山を削り取り、楼門、ナンディン牛堂、前殿、本殿(高さ30m)を彫りだし、しかも周囲の岸壁に回廊や付属の石窟を彫っていて、その規模の点でも彫刻の作柄の点でもほかに比類がない。寺全体が奇跡の彫刻である。(以上は、平凡社百科事典より)

カイラーサとは、ヒマラヤを意味し、シヴァ神が瞑想した聖なる山のこと。着工は奈良の大仏と同じ頃、757年だが、完成までに200年かかったと言う。今は痕跡をほとんどとどめないが、当時は極彩色に彩られていたという。

第12窟は珍しい3階建ての石窟である。僧坊として造られたものという。太い柱が建ち並ぶ様子など、建築構造的にも興味が湧く。
第32窟を見学中、テレビ番組「DISCOVERY」のクルーと出合った。ドイツ旅行中にやはりテレビ番組クルーからインタビューを受けたことがあり、一瞬、ひやりとしたが、何事も無く立ち去った。

昼食は谷を隔ててエローラ石窟群を見渡せるレストランの芝庭で摂った。何を食べたか忘れてしまったが、日なたにあるテーブル席なのに、暑くなく、むしろ風がとても気持ちよく、ビールがとてつもなく美味しかったことを鮮明に覚えている。

エローラを後にして、残りの時間をアウランガーバード市内の観光に費やした。アウランガーバードはムンバイから東へ350kmのデカン高原の只中にある。人口68万人。アジャンタ、エローラの観光拠点となっている。市内にも見るべきものが結構あるようだ。
そのうちの、ビービー・カ・マクバラーという妙な名のところへ行った。
これは、1678年にアウラングゼーブ帝(街の名の由来でもある)の息子アザム・シャーが母のラビア・ドゥラーンを偲んで建てた廟である。タージ・マハルをモデルにしているが、国の財政が傾いていた(タージの建設で)ため、大理石を全面的に使えず、墓標の周りと、ドームの部分だけにとどめている。後は石材の上に漆喰を塗って装飾した。
そういうわけで、形こそ似ているが、タージのような輝く白さは無く、大幅に見劣りするのです。インドの人々からは、「貧乏タージ」とか、「悪しき物まね」と、言われる始末。
庭園もタージには見劣りするが、なかなか立派だった。ふと、庭園を見ると、大きなマンゴの木に美しいサリーを来た若い女性が登っているではないか。これは絵になると、200mm望遠を向けたが、あっという間に降りてきてしまった。

ホテルに着いてから、夕食までの間、みんなで、近くのバザールへ行ってみた。がたがたで、ゴミがいっぱいあり、ごちゃごちゃした道を通って。小さなスーパーでお菓子などを買い、露店の果物屋でオレンジを買い・・・

ホテルの夕食には、初めてタンドリチキンが出た。チットモ辛くなく、なかなかうまかった。

この日も、充実した1日だった。

S0079妹尾氏の『河童が覗いたインド』に出てくるガイド、カーン氏が
我々のエローラのガイドも勤めた。
迫力満点!

 
S0048エローラ石窟群。右奥から第1窟、第2窟・・・の順。




S0049 S0046第10窟。
ストゥーパの前に仏像がある。時代が下った証拠。左右に観音菩薩と文殊菩薩を従える。天井は木造を模した作り。S0055
第12窟は3階建て。僧坊としての機能を持つ。




下は、第10窟カイラーサナータ寺院。左から、寺院のプラン図、楼門、ナンディー堂、本堂の順である。壁の文字の彫刻は叙事詩「ラーマーヤナ」。全体の平面プランは馬車の、くびき―梶棒―座席を表現していると言うのだが。入り口に馬をつけて、寺全体を引いて行くという感じ。
Photo_117S0058S0061S0059





 




S0074_1 S0075
第32窟はジャイナ教寺院。
ジャイナ教には、神、女神はおらず、24人の使徒がいる。
女性像が幾つかあるが、アーモンドの木の下は“力”、マンゴーの木の下は“富み”を表わす。




S0078_1 S_0081 ビー・ビー・マクバラー。
タージと比較するのは可哀想。



S0080見つけたときは、二人とももう一段高いところに居た。
巨木はマンゴーの木。南インドには、若い女性がマンゴーの木を揺すると、たちまち実を結ぶという言い伝えがあるそうだ。
サンチーの東塔門の「マンゴーの樹を揺するラクシュミ」を髣髴とさせる。

S0942S932アウランガーバード市内点景。
左はバザーに行く途中、路地裏で見た羊を番する女。
右は、リクシャーの群れが客待ちをする表通り。
この混沌さが面白い。

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2006年12月17日 (日)

インド旅行の印象その8(ムンバイ=ボンベイ)

まだ、半分も行っていない。ここからは、時系列的につぶして行こう。
先ず、初日のムンバイ。旧名ボンベイ。
ムンバイは、アラビア海に突き出た半島部分にある。ずっと寒村に過ぎなかったが、1534年にポルトガルが当地を抑えていたスルタンから取得してから歴史は動く。1661年には英国に(贈り物として)委譲、更には68年には東インド会社に年10ポンドで貸し出された。同社は本拠をここに移し、それから大きな発展が始まった。現在の人口は1000万人を超え、インド第二の大都市に成長した。
永らく、ポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するボンベイの名で呼ばれてきたが、1995年に、より古いインドの地名のムンバイ(パールバーティ女神の化身ムンバにちなむ)に改称された。

朝8時半に、最初の観光スポット、インド門に着く。植民地インドの象徴である。
インド門の裏は船着場で、早朝にもかかわらず、大勢の観光客が、エレファンタ島行きの船を待っていた。目指す島まで約1時間。海は濁っていたが、風がとても心地よかった。
エレファンタ島には、世界遺産(1986年登録)の石窟群がある。6~8世紀のものである。16世紀にポルトガル人が始めて上陸した時、石窟群の前に巨大な象の石彫を発見、島の名の由来となった。
200mの岩山の頂上付近にあるから、駕篭かきがいて、我々の仲間も利用していた。第1窟の一番奥まったところにある巨大なシヴァ三面上半身像はヒンドゥー教彫刻の最高傑作のひとつと言われるが、暗くてキチンと写真を撮ることが出来なかったのが残念であった。(実はニコンの操作をマスターしておらず、咄嗟にASA感度の変更が出来なかったのです)
ここに限らず、石窟の場合は照明は皆無、入り口からの自然光だけだから、芸術鑑賞と言うには程遠い。雰囲気を掴むのにはよいのだが。

エレファンタ島の観光後、ムンバイ市内に戻り、プリンス・オブ・ウェールズ博物館を訪れた。大きな椰子の木がある素晴らしい庭園を備えた、インド・サラセン調の優雅な建物を見るだけでも価値があるが、所蔵品もとてもよかった。
何よりも嬉しかったのは、この博物館が、ムガル、ラージプート両派の細密画のコレクションで有名だったことである。カルチャーセンターでインド美術の講義を受けて以来、インドの細密画に魅せられてしまい、このツアーでも期待していたからです。
ここはイヤホンによるオーディオ・ガイド・システムが導入されているので、我々のガイドの説明は無く、各自自由に見ることとなった。私は、当然の如く、制限時間の90%は細密画を見ていた。どれも優美で絵の主題も多様で実に面白く、とても有意義な時間であった。
なお、ムガル細密画は、文字通り、ムガル帝国時代にペルシャの細密画を完全に吸収し、インド独特のものにしたものである。ある出来事の中の肖像画、群像肖像画が多く、顔は必ず横向きで面貌が特に緻密に描かれる。
ラージプートの方は、ムガル細密画の影響は濃く受けているが、主題が全く異なる。こちらはヒンドゥー教の信仰に関するものが描かれ、特に画家に好まれたのは若くて美しい牛使いクリュシナの恋である。
旅行中に模造品でいいから手に入れたいと思っていたが、各地を回るうちに、ホテルのショップや、ちょっと立派な土産屋には、アンティークの細密画があることが分かってきた。
表立って並べてないのだが、あるか?と、聞くと、おもむろに奥から取り出してくるのです。
値段はピンからキリまで。絵の緻密さ、主題、汚れ具合、芸術的価値などによるらしい。1~2万円ぐらいで、と思っていたが、なかなか自分の好みに合わない。
旅も後半に入って、ようやく値段と好みに合致するものがあり、購入できた。最初の店の値段は100ドルでビタ1文(セント?)まけられないと言う。他のものを見ながら80ドルなら買うと言うが、敵は強硬。普通は10%や20%はまけるのに、珍しいことだ。粘っているところへ我々の現地ガイドがやってきて助け舟を出してくれ、90ドルで落とすことが出来た。典型的なムガル細密画である。結構汚れがあるし、裏にも読めない文字がたくさん書いてあり、アンティークであることは間違いない。絵柄もとても緻密で、これなら文句はない。

ムンバイは現代の都市としての魅力もあり、ここに数日滞在できればきっと面白いだろう。しかしこのツアーでは、博物館を見た後、すぐに空港へ。内陸のアウランガーバードに向かう国内線の飛行機に乗った。
国内線のセキュリティ・チェックはとても厳しい。液体と電池は一切、機内へ持ち込めないし、手荷物は全部開けて調べられる。身体検査も徹底している。当然の如く飛行機は大幅に遅れる。

034 00390035朝8時半のインド門。英国王ジョージ5世(つまりインド皇帝)来印記念として1911年に建立。インド門の横の建物は1903年建築の“アジアの星”タージ・マハール・ホテル。

Photo Photo_116 10898エレファンタ島の桟橋。
120段の階段は駕籠に乗って。右は第1窟の入り口。高さ6m、広さ40m四方。

S0904899左は第1窟の内部の様子。
シヴァ神の像が幾つもあるが、これはそのうちの一つ。
足や手が無残にも取れているが、これは発見当時に、ポルトガル兵が鉄砲で撃って破壊したもの。ほとんどの像がやられている。

0906S0926ムンバイ市内は30度を軽く越していた。樹木の茂り方は異常なほど。ほぼ熱帯に位置するから当然か。
右はプリンス・オブ・ウエールズ博物館。
インド・サラセン調の建築も、大きな椰子の木がある庭園も共に素晴らしい。

S0909F0910インドが誇る細密画。この2点は名品中の名品。
左はMeeting of  Rama & Parashurama。
右はNahr Singh in Zenana。

S0912S_23 優美かつ面白い作品が目白押し。興味が尽きない。
全てガラスケースの中にあるので、写真が上手く撮れないのが残念だった。



S_24 
これは私が購入したムガル細密画。
典型的な肖像画スタイル。
20cm×12.5cm。当然ながら博物館のものよりかなり小振りである。





細密画以外にも名品多数。

Matrikas0924S0907左はMatrika(Mother Goddess)from a set of Astmarika
右は博物館のエンタランスの最も近くに置いてあるガネーシャ像。この神は障害を除去し、福をもたらすとされ、ヒンズー教徒に最も篤く信仰される。以後、至るところでお目にかかることになる。

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2006年12月15日 (金)

インド旅行の印象その7(ビンベトカ)

ビンベトカは今回のツアーの驚きの一つだった。こんなものまでインドにはあるのか!
考えて見れば歴史の古い国だから、当然なのだが。
約1万年前に描かれた洞窟壁画群。2003年世界遺産登録。

ボパールの南47km、ビンディエンチャル山中の自然の洞窟に、当時の人々は外敵から身を守るために棲みつき、牛、馬、鹿、象などの動物、狩りの場面、踊りの場面などを生き生きと描いた。
1957年にワカンカ教授によって発見された。
顔料は、白が動物の皮膚、赤はリクリという植物、黒は石炭であるという。リクリは辺りに今でも生えている。ガイドに教えてもらって、葉を手で揉みつぶすと手が赤くなった。
洞窟と言っても、そこらじゅうにある火山性の大岩の自然に庇の形(大抵1段高いところにある)になった部分である。3~5m凹んでいるだけで、一見頼りなげに見えるが、気の遠くなるような年数を経ても彼らが描いた壁画が残っていると言うことは、方角や風向きの面から最適な場所だったのだろう。逆説的にそう言える。
世界遺産になったと言うのに、シェルターだとかの保護や養生は全くなされていないが、それでいいのかも。破壊するとすれば観光客だろう。これは配慮すべきだ。
ガイドブック「地球を歩くシリーズ」にも正式には取り上げていないくらいだから、ここまで来る観光客はまだ少ないようだ。入り口には管理小屋とか、切符売り場とか、そういったものは何も無い、叔父さんが独り待っていただけだった。
(そういう環境だからトイレも青空。女性も含めて数人が・・・)
絵が描かれた時期は、1万年~7千年前、7千年~5千年前、5千年~3千年前の3つに区分される。当然のことながら、初期ほどプリミティブ(幼稚)で、後期になると狩りや踊りの場面なども現われて複雑になる。これらの絵をじっと見ていると、いつの間にか心は原始時代へ飛び、一生懸命生きたであろう洞窟の住人がとてもいとおしくなるのでした。

0131ビンベトカの入り口
ほとんど無人に近い。
この案内板にガイドが間違いを見つけた。100000年前となっていた。


Binnbetoka_doukutu_kannkyou_20156 0157
最もダイナミック、かつ見やすい洞窟
右は離れて洞窟全景をみたところ


0134 0132 これは別の洞窟
プリミティブな描き方である。



0136 0142_1 右は狩りの絵。実に生き生きとしている。




0152 このように山中、大岩だらけ。
ここで、リクリの葉を取り、赤い汁が出るのを確かめた。



★インド旅行の印象その2(ベナレス)の写真を4枚追加しました。
  ガンガーの岸辺遠景、ガンガーに漂う、ベナレス(バラナシ)の路地など


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2006年12月13日 (水)

インド旅行の印象その6(カジュラホ)

時系列的ではなく、印象の強かったところから書いて来た結果、たまたま仏教関係が続いた。ここらでヒンドゥー教の華麗な中世寺院があるカジュラホを取り上げよう。

カジュラホは、中部インドのチャンデッラ王朝の古都である。9世紀末~12世紀のヒンドゥー教を主体とした寺院が20ほど現存する。当時はこのそう広くもないエリアに85も寺院があったと言う。
寺院はいずれも高い基壇の上に建ち、平面は双十字形、屋根は小尖塔を多数積み重ねた高塔(シカラと言う)となっている。山のようなこの屋根が魅力的である。
内外の壁面を埋め尽くす神々、アプサラス(天女)、ミトゥナ(抱擁する男女)のおびただしい彫像は、ほっそりとして軽快で、その姿態は変化に富み、明るい官能性を持っている。
11世紀第四半期のカンダーリア・マハーデーヴァ寺院が最も壮大(高さ30.5m)で、外壁の彫像群も圧巻である。

その他の寺院では、デーヴィ・ジャクダンヘ寺院、ラクシュマナ寺院、ヴィシュワナータ寺院に見事な浮き彫りがある。
ガイドの説明はカンダーリア・マハーデーヴァ寺院のみで、後は自由見学となる。
ほとんど同じだとのガイドのコメントに、あまり真剣に見なかったが、現地で購入したインド考古学会(仮訳 Archaeological Survey of India/Goverment of India)発行の冊子を見ると、カンダーリアの作品紹介は少なく、むしろ、ラクシュマナ、ヴィシュワナータ寺院の作品紹介が多いのである。
カンダーリアには性行為に直結した、エロチック度の高いものが多く、観光客が喜ぶとでも思っているのだろうか?後で分かったことだが、芸術的にも価値のあるものを見逃したようで残念でならない。そういう意味ではしっかりした冊子は必ず購入すべきだと再認識した。

ここで、妹尾氏の「河童が覗いたインド」から引用をしよう。

《僕がカジュラホへ行ってきた、と聞いただけでニヤニヤ笑った人がいた・・・カジュラホを世界的に有名にしたエロチックな男女の合歓のミトゥナ像だが、実物を目の前にすると、乾いた美しさに先ず感動して、卑猥さなど全く感じない・・・ミトゥナ像はぎらぎらした太陽の光を浴び、青く澄み切った空を背景に、実にアッケラカンと、「性の歓喜」を謳いあげていた。》

全く同感です。

(参考)
インド共和国の現在の宗教別人口は、ヒンドゥー教徒81.3%、イスラーム教徒12%、キリスト教徒2.3%、スイク教徒1.9%、仏教徒・ジャイナ教徒ほか2.5%である。
多数の宗教が概して平和に混在しつつ、しかもそれぞれの文化や伝統をしっかり守っている・・・それがインドの多様さ、混沌感を生み出している要素かもしれない。

S_13 カンダーリア・マハーデーヴァ寺院




S0216_1S0217S0229S0237



これらは、カンダーリア・マハーデーヴァ寺院の外壁の彫像の一部である。右から2番目のものなど、日本では超有名であるが、考古学会発行の冊子には載っていないのですぞ!学術的、芸術的には価値ゼロ?(一番右の写真の右側の女性はアイシャドウを塗っているのが面白い)
考古学会冊子に載っているのは次のような写真。官能的ということで言えば、その埒外ではないが、美しさ=芸術を感じますよね。
Photo_111 Photo_112 Photo_113Photo_114











Photo_115 この冊子には屋根を構成するシカラ(Sikhara)の変遷も示している。4番目が最も複雑に発展したカンダーリャ寺院である。


S0227S0230ライオンとも違う得たいの知れない野獣
強烈なアクセント。
これも考古学会のには載っている。
 

S_20 カジュラホはヨーロッパからの観光客も多く、
空港もあるし、リゾート的雰囲気である。
こんなサリーの女性は実に健康的である。


S0196 カジュラホの夜は、インド舞踊を見に行った。
専用の劇場があり、イタリア人やフランス人の
グループと一緒になった。
マハーラーシュトラ州、パンジャブ州、ラジャスタン州などの民族舞踊が演じられた。手や体の動かし方が独特で優雅ではあるが、一方、動きがとても早い。想像していた踊りとはまるで違っていた。タブラーなどの打楽器とハーモニア、歌が入り、踊りを盛り上げていました。

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2006年12月10日 (日)

インド旅行の印象その5(アジャンタ)

4日目、21日は今回のツアーの最大の目玉、アジャンタへ行った。
アウランガーバードから北東へ約100kmの山間、ワーグラー渓谷の断崖中腹に仏教寺院群が刻み込まれていた。しかもそこには、人類の宝とも言うべき素晴らしい壁画があった・・・

電池で走るシャトルバスを降り、徒歩で石段のアプローチを歩いて行くと、突然湾曲したワーグラ渓谷とその崖に多数の石窟が並んでいるのが眼に飛び込んでくる。とてもダイナミックな素晴らしい眺めだ。
石窟は全部で30あり、真ん中あたりの5窟が紀元前1世紀頃の「小乗仏教期」、それ以外が紀元5世紀の「大乗仏教期」のものであるという。小乗仏教期のものは仏像表現の無い時代であるから作りが簡素で、ストゥーパを礼拝の対象とするスタイルである。アジャンタを有名にした素晴らしい壁画のあるのは5世紀の第1窟である。
期待に胸膨らませ、『蓮華手菩薩』の壁画の前へ!しかしとても暗い。眼がなれていないせいもあり、細部は分からなかった。観光客も多く、とてもじっくり観ておれない。ちょっと人が切れたのを見計らって写真を撮ったが、案の定とても見れる様なモノにならなかった。正直言って、『蓮華手菩薩』に関しては満足感は得られなかった。

しかしながら、これだけの石窟が並んでいるのは圧巻である。ガイドは第1窟、第2窟、第10窟、第17窟を案内してくれ、自由時間となる。思い思いに石窟を覗いて歩いた。
ところで、何故こんな大変なところに造られたのか?
ガイドブックによれば、仏教僧たちが、インドの過酷な雨季にも雨を避け、落ち着いて修行が出来るように、ということだった。
石窟は通常、ヴィハーラ(僧院;僧の住居)とチャイティア(塔院;礼拝するところ)が対になっている。

このアジャンタの遺跡は仏教の衰えと共に、永く忘れ去られていたが、世に出るようになった経緯がとても興味深い。
『1819年、虎狩りをしていたイギリス人将校ジョン・スミスが虎を追ってこの付近まで来た。銃を撃つも外れる。虎は渓谷を降り、川を越え、ツタに覆われた崖に姿を消した。スミスは双眼鏡で一見何も無い崖を眺めているうちに装飾のある石の建造物の端がチラリと見えた・・・』
この時のスミスの気持ちはどんなだったろうか?ロマンを感じますね。

妹尾氏が「河童が覗いたインド」で、やはりこの発見譚に強い関心を示し、スミスが虎を追ってきたルート図まで描いている。また、対岸の虎を撃った地点も訪れている。
(実はこのツアーは妹尾氏と若干の繋がりがありました。それは別途)
虎が入って行ったのは第10窟だと言われる。ここには、Jhon Smithのサインが残っていました。

Photo_107 アジャンタ石窟群の見取り図
右下が電池シャトルバス発着場。
中州のようなところにある見晴らし小屋付近で
スミスが虎を撃った

Photo_97 ワーグラー渓谷の崖に石窟が並ぶ・・・大パノラマ



S0093 上り下りがあるので、駕篭かきもいる。
1,2,10,17窟は必見。



S_14 法隆寺金堂の菩薩像のルーツとして
あまりにも有名な「蓮華手菩薩」
現場は本当に暗い。写真はASA1600でも怪しい。
ボぼけた写真しか撮れなかったので、現地で買った
冊子をピーした。



Photo_106

Photo_105 第1窟の天井と壁面の装飾
入り口に近いところは撮影できた。



S_15S_16第17窟は第1窟に次いで壁画の保存状態が
良い。しかし写真は撮れない。
入り口の壁面と天井の装飾を撮った。


Photo_108

Photo_109Photo_110ストゥーパを持つ石窟。
第9,19,26窟。
年代が進むにつれて、
形や装飾が複雑で華麗
になるのが分かる。
木造を模した天井。



S_17
最後まで開窟作業が行なわれていた
第26窟には涅槃像がある。


S_18S_19

上左は「河童が覗いたインド」から引用。
右はその状況がよく分かる写真。右の山の上から虎を撃ったようだ。

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2006年12月 8日 (金)

インド旅行の印象その4(サールナート)

サールナートは四大仏跡のひとつだ。今回、ここを訪れることができ、とても感激した。
四大仏跡とは、①生誕の地ルンビニ(ネパール)、②大悟(さとり)の地ブッダガヤ、③初転法輪(初めて説法をしたところ)の地サールナート④入滅の地クシーナガル である。

25日午後、ホテルを出てバラナシ(ベナレス)の北東10Kmにあるサールナートに向かった。サールナートの遺跡はのどかな田園ないし原野に囲まれた静かな村の中にあった。ここには見るべきものが3つある。

先ず、ムールガンダ・クティー寺院に入った。1936年にスリランカの仏教教会が建設、日本人画家野生司香雪が、釈迦の生涯を壁画に画いた。ガイドからその内容を聞く。

村の道路を歩いていくと、木々の緑と芝生が美しい広大な敷地と、その中に建つ巨大なダメーク・ストゥーパが見えてきた。この敷地では、紀元前3世紀のアショーカ王の時代から12世紀までのいろいろな遺跡が出土した。「ダールマージカ塔と根本精舎を中心に、グブタ時代に最も栄えた」と、資料にはある。ダメーク・ストゥーパは6世紀に作られたもので、高さ42m、基部の直径27m。グプタ様式の貴重な例とされる。この地で釈迦が始めて説法を行なったのです。

ブッダガヤ(バラナシの南東に位置する)で悟りを開いた釈迦が、それを胸に秘めつつ長い道を歩き、当時多くの宗教者が集まっていたバラナシを目指した。そして市の郊外の、鹿野苑(現在のサールナート)についた後、かつて共に修行していた5人の修行者に会い、悟った真理を初めて語った。耳を傾けたのはこの5人と、森に住む鹿たち。だが、ここで初めて「言葉」になった教えは、その後世界に広まり、人々の心にしみ込んで行く・・・(ガイドブックより)

遺跡敷地の一角には、かつて多くの僧が修行していた僧院の跡も残っている。また、アショーカ王の建てた石柱の基部も残っていた。

ストゥーパ遺跡に隣接してサールナート考古学博物館があった。こにある転法輪印坐像は円満かつ静寂の境地を具現し、インドで最も美しいと、称えられるものとのこと。5世紀の作。撮影禁止であるのが残念。

サールナートは世界遺産でもなく、そんなに見るべき対象があるわけでもないが、心にしっかり残ったのは、やはり仏教の聖地だという意識のなせる業だろう。

S_7ムールガンダ・クティー寺院
野生司香雪による釈迦の生涯の壁画がある。



S_8 寺院の傍らに初転法輪(初めての説法)の模様をを再現してあった。バックの大きな木は菩提樹である。



S_9 ダメーク・ストゥーパと遺跡群




S_11 ストゥーパの前の芝生に、僧が一人、座して礼拝していた。




S_10 先生と生徒。何を教わっているのだろう?
右後ろに犬が寝ている。安穏な空気が満ち満ちていた。

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2006年12月 7日 (木)

インド旅行の印象その3(サーンチー)

22日午後は待望のサーンチーだった。
私がこのツアーに参加したのは、サーンチーの大ストゥーパを見たかったからと言っても過言ではない。2年ほど前に、カルチャーセンターで「インド美術」を学んだ時、初めてサーンチーの存在を知った。ストゥーパの東西南北の塔門にびっしりと刻まれた仏教説話の彫刻はインド古代美術の頂点を極めるとも言われるものです。私自身はあきれるほど、仏教のことは知らなかったが、この彫刻の写真を見ながら説話を聞き、仏教の起源に強い興味を感じたものです。そして機会があったら是非実物を見たいと思っていました。

このストゥーパは紀元前3世紀に仏教に帰依したアショーカ王が建設を始め、前2~1世紀に完成した。その後仏教が衰え、永らく忘れ去られていたが、1818年にテーラー将軍によって廃墟が発見された。ジャングルのような木々によって覆われ、ストゥーパのお椀の部分は崩壊していた。しかし、芸術の塊である4つの塔門は奇跡的に無傷だった。全体の補修や保存が行なわれるようになったのは1881年以降である。1989年世界遺産登録。

ストゥーパは標高100mの丘の上の最も高い部分に置かれていた。直径36m、高さ16mの大きなお椀を伏せた形をサイトの入り口で見つけた時、思わず大きいな、と思ったことでした。
ストゥーパとは日本語「卒塔婆」の語源でもある。釈迦の遺灰が埋納される施設。近くの第3ストゥーパでは、仏陀の高弟SariputraとMahamogaiianaの遺骨が発見されている。毎年11月末(今年は26日)にこれが公開される、チャーティヤーギリ・ヴィハーラ祭が行なわれるという。

早速、4つの塔門を順に見る。緻密な彫刻が、上から下まで、表も裏も、びっしりと埋め尽くしている様は圧巻である。素晴らしいの一言。ガイドの、描かれている説話の解説も耳に入らず、夢中で写真を撮り、また仔細に眺めた。
時刻は5時を回り、日が傾きかけていたので、方角によっては少々暗かったが、代わりに夕方特有の赤みを帯びた光で幻想的に見えるのでした。サイトは綺麗な芝生に覆われ、ブーゲンビレアが咲き乱れ、遠くのベンチには色鮮やかなサリーの女性が寛ぐ・・・楽園のような雰囲気。とても去りがたかった。

なお、ここで発掘されたもののいくつかはサーンチー考古学博物館にあった。特に重要なものは、「アショーカ王石柱」と、「マンゴーの木を揺するラクシュミ」。前者は4頭の吠えるライオンをかたどったもので、ストゥーパの外側に立っていたもの。これはインドの国章となっている。後者は、若い女性がマンゴの実を願って揺すると、たちまち木は花を咲かせ実を結ぶ、と南インドで言い伝えられているという。なお、このモチーフはストゥーパの東塔門にも刻まれており、サーンチーのシンボル的存在でもある。以前の記事で、美術書のコピーを添付しましたが、今回はしっかり写真にとって来ました。
また、ほとんどのレリーフの解説が載っている考古学博物館発行の解説書を購入することが出来、嬉しかった。

S_5 サーンチー遺跡の見取り図



Photo_96 最も大きい第1塔の全景



Jpg_2最も華麗な北塔門全景
トーラナ(塔門)は鳥居の語源でもある。







Photo_98 北塔門ピラーのレリーフ
上から2番目のパネルは「王の行進」、その下のパネルの菩提樹は釈迦ののシンボル。各塔門のピラーにいろいろな説話が描かれている。




Photo_99 釈迦の足跡。車輪も釈迦のシンボル。








Photo_100 北塔門を裏から見る。



Photo_104 西塔門の見事なレリーフ。
上段右側は釈迦の死をストゥーパで表わす。
下段右側はサルナートで初めて説法を行なった時のシーン。車輪が釈迦を表わす。
Photo_101 東塔門



Photo_102「マンゴーの樹を揺するラクシュミ」の部分を
アップで撮った。
逆光で暗く写っている。







S_6
第1塔ストゥーパの南塔門の前に、アショーカ王が建てた石柱は、中ほどで折れ、頭部は考古学博物館に保管展示されている。写真撮影不可の為、購入した冊子のコピーを載せた。
「4頭の吠えるライオン」の実物はとても立派である。これはインドの国章にもなっている。また、その上部の車輪(一部欠損)も一緒に保管されていたが、その大きさに驚いた。



                                                                  
                                                                                                                                                       
Photo_103 サリーの女性が寛ぐ。緑の芝生と赤い花も映え、楽園の雰囲気。




この記事が遅れたのは、ニフティのメンテナンスが行なわれていたためです。
下書きしてアップロードしようとしたら、切れてしまい、元の木阿弥。
今時、3日間も止めるなんてどうかと思いますよ。

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2006年12月 3日 (日)

インド旅行の印象その2(ベナレス)

11月24日夜はベナレス泊。5時にモーニングコールで起こされ、ガンジスに向かう。薄明の河畔に着き、中心的な存在であるダシャーシュワメード・ガートから船に乗る。ガンジスは思っていたよりずっと大きな河だった。水も意外ときれいである。30~50m離れた岸辺を見ると、立派な寺院や館がずらりと建ち並び、それぞれから階段が水辺まで降りている。沐浴が出来、見晴らしの良いところにインドの諸侯が競って建てたものと言う。このような階段付きの堤をガートと言い、60くらいあるようだ。火葬場になっているところもある。
沐浴の風景は写真でよく眼にしていたが、実際の環境は初めて理解できた。
夜が明け始めて、岸辺の様子がはっきりと見えるようになってきた。この日はそんなに多くはなかったけれど、沐浴の人々が見える。中には岸から離れて水面に漂っている人もいた。やがて、太陽が昇り始め、水面に光の影を映す。ガンジスの最も美しい瞬間だ。この日は地平上に若干の雲があったが、それでも充分にその荘厳な美しさを味わうことが出来た。こんな環境なら、私でも沐浴してもいいな、と言う気になる。そっと、水に手を漬けてみた。少し冷たかったが、気分は悪くない。

船を後にして、ガートから路地裏を通ってヴィシュワナート寺院に向かった。迷路のような狭い路地は牛の糞やゴミが散乱していて、注意深く歩かねばならなかった。不思議な匂いも充満している。ごちゃごちゃした建物も興味深いし、いろいろな店もあったが見る余裕はあまりなかった。
ヴィシュワナート寺院はベナレスの信仰上の中心、シヴァ信仰の中心でもある。驚いたことに、周りは厳重な柵で囲われ、観光客はセキュリティーチェックがなされる。カメラは全くダメ。カービン銃(?)を持った兵士が大勢、警護している。
この寺院はイスラーム教モスクの一角にあるという不思議な構造になっている。元はヒンズー教の寺院だったのが、12世紀にイスラーム教徒が破壊し、モスクに改造されてしまったが、18世紀になってその一角にヒンズー教の寺院が復活されたものと言う。
何年か前に騒動があり、多数の人が殺された事件があり、このように警備が厳しいのだ。
そんな環境の中で、ヴィシュワナート寺院は金箔に覆われ、燦然と輝いていた。
インドでは幾つもの宗教が平和に共存していると、聞いていたが、やはりそうでもない部分があるということを知ったのです。

なお、日本ではベナレス、ガンジスで通っているが、現地の実際の発音は、バラナシ(ワラナシと聞こえる)、ガンガーであることを言い添えます。

248 沐浴風景。シャッターのタイミングはグッドだが、いかんせん暗いので手ぶれが出てしまう。



0251 ガートに集まってきた人々。階段は水面下まである。



S0263 S0270 ガンガーの岸辺の風景
インドの諸侯が競って別荘を建てた。
寺院も多い。ボートはほとんど観光客用。


S_21 ガンガーに漂う。




0268 ガンジスの日の出




S_22 ベナレス(バラナシ)の典型的な路地。
ゴミだらけで、牛がいて・・・当然糞も多い。
匂いも凄い。朝食が食べれなくなった人もいた。

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2006年12月 2日 (土)

インド旅行の印象その1

13日間のインドの旅は長かったようにも、また、あっという間に過ぎ去ったようにも感じられる。悠久の歴史的遺跡や、多分大昔からあまり変わらぬ人々の生活ぶりを眺めていると、インドの時間はゆったり流れているように思える。しかし、見るもの全てが驚異で、脳髄がしっかり受け留める暇がないくらいの情報の洪水のうちに、ツアーの日程は終わってしまった。

撮った写真をざっと見てみたところ、街や村の人々を撮ったものが非常に多かったのに気がついた。世界遺産の写真ももちろん多数撮ったが、この辺りが他の地域での旅行と違うところですね。観光の対象と言うべきではないかもしれけれど、見るべきものが2倍あるという感じでした。

「混沌の世界」だとは聞いていたが、現地へ行ってみて初めてそれがどういうことか認識できた。混沌感を生み出す最大の原因は、10億を超える人間が、異なる言葉や宗教を抱えながら一緒に暮らしていることでしょう。正に「人間のるつぼ」。

都市の一部を除いて、インフラストラクチャーも最低限にしか行き渡っておらず、大昔からの生活と変わらぬ人々が大半のように見える。

主要都市間の道路はハイウエーと呼ばれているが、片道一車線の舗装道路とは名ばかりのがたがた道である。この道は人々の生活の手段でもあるから、いろんなものが通る。車は乗用車は少なく、トラックやバス、農作業車が多い。どの車もトコトン使い古して年季が入っている。時折、人を満載したバスやトラックが通る。屋根の上にも何人か乗っているし、荷台から溢れ外側にも何人かがしがみついていたりする。
歩行者、自転車もいるし、これがインドの特徴だと思うけれど牛車やらくだ車が頻繁に通るのです。道路脇に住んでいる人々は大概牛や羊を飼っており、これらがしょっちゅう、道路を横断し、交通を妨げる。しかし、牛も運転手も慣れっこだから、事故もあまり無いようです。

牛、水牛、羊が多く飼われているのは、ミルクを採るためで人々はミルクが大好きだと言う。水牛はとても濃厚なミルクを産するという。牛は4~5万円、羊は7~8千円で買える。牛はとても利口で放し飼いにしていても飼い主以外には絶対についていかない。水牛はそうでないので必ず見張りが要る・・・こんなインド人ガイドの説明が印象に残った。

人が多いといってもインドの国土は広いから、都市間の道路を走ると無人の野が広がっています。人々は集落にぎっしりと詰め込まれたようにして生活しているのです。
したがって、道路から一歩離れた野ッパラは乾燥期でもあり、とてもきれいで寝っころがりたいくらい。遠くの地平線を見ながらの青空トイレは最高によい気分でした。

Photo_95 ハイウェーを行く牛の隊列



S_4 交差点横断中。ゆっくりゆっくり、真っ直ぐに進みます。



012sjpg インド式芝刈り(タージマハール庭園にて)

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