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2007年5月に作成された記事

2007年5月30日 (水)

イラン旅行の印象その14 イスファハン(1)

イスファハン(ペルシャ語の発音はエスファハーン)はやはり素晴らしい街だった。
ガイドブックによれば、見所が多いから最低4日は滞在したいものだ、と書かれていた。我々は2泊したものの、実質的には市域に居たのは1日半ぐらいだったから、限られたところを駆け足で回ることになる。それで得たこの街の印象は何処まで確かであろうか?

《ザーヤンデ川~ハージュ橋~川べりの賑わい》
イスファハンに入ったのは金曜日の夕方だった。先ず目に付くのは市の南側を西から東に流れる、水の豊かなザーヤンデ川(生命の川)。この川は街の南側に連なるザクロス山脈からの雪解け水を運び、イスファハンを貫通して、砂漠を100kmほど進み、消滅してしまう。このザーヤンデ川の水でイスファハン周辺の農地は灌漑され、古くから人々に豊かな実りをもたらしてきた。
この川に架かる橋が、またとても優美である。橋の周辺は公園として整備されていて、市民の憩いの場となっている。たまたま金曜日(イスラム世界の休日)の夕方だったから、人出も多く、芝生や川縁には家族や仲間と思い思いに団欒する姿が見られた。女性の黒いチャドル姿が独特の雰囲気を醸し、木々の深い緑、満々と湛えられた川水、雪を被った不可思議な形の山...絵画の世界に入り込んだかと錯覚を覚える。
団欒の人たちに近づくと、一緒に入らないかとよく声をかけられる。ある賑やかなグループに写真を撮ってもいいですか?と聞くと、逆にこっちへ来いと言う。どうも「水タバコを一服やっていけ」とのことらしい。「ノー・サンキュー」というと、つまみをくれました。
イランでは、水タバコが団欒の重要な道具らしい。このように人が集まると、真ん中に必ず水タバコのセット(水パイプと言うのが正しい)が置いてある。どこのチャイハネ(喫茶店)にも必ず置いてある。
水パイプは中近東やインドで古くから普及しており、最も洗練されたパイプであると言われる。一度水中をくぐらせることによって冷却され,清浄化された煙が吸えるよう考案された。私も何回かチャイハネで吸ってみたが、味や匂いがとても軽やかで、頭への刺激も全く無かった。
酒が無いイランでは重要なコミュニケーション・ツールなのだろうと推察する。

S_960674s0689s豊かな水を湛えるザーヤンデ川、背景の濃い緑、不思議な形の雪山、黒いチャドルの女性たち...絵のような風景!中央はハージュ橋。右はスイ・オ・セ(33アーチ)橋。左の写真の橋の名は分からない。チュービー橋(橋上にチャイハネあり)かも?
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休日を謳歌する市民たち。


0670s
「一口吸いね~(水タバコ)」。
写真を撮らせてもらって、おまけにおつまみをもらってしまった。


《金曜日のモスク in Esfahan》
イスラム教の礼拝を行なう場所として、最初は各都市に1箇所モスクが造られたが、街が大きくなるにつれモスクの数は増えて行った。しかし、毎週金曜日正午の集団礼拝は必ず街の中心のモスクで行なわれることになっており、このため、マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)と呼ばれるようになった。そういうわけで、このツアー記録でも何度も出てくるのだが、ここは割愛するわけにはいかない。
エスファハンの金曜日モスクは、9世紀に創建されて後、火災で消失し、現在残っている建物の大部分は12世紀のものだという。しかしその後も増改築、修復が重ねられてきたことから、様々な時代の様式が見られるのが特徴である。現地ガイドの詳しい説明があったが、ここで再現するのは難しい。
しかし、とりわけこのモスクの特徴であり、かつモスク建築史上重要な事実がある。

イスラム教モスクのアーチを飾るムカルナス(鍾乳石飾り)が12世紀に大きな構造上の発展を遂げたが、その事例がここで見られるのだ。それまでは天井を支える部分にしか造れなかったムカルナスが天井全体に張り巡らすことが出来るようになった。
さらに、イスラム建築における三大発明の一つ「アーチ・ネット」と言う技法がペルシャで初めて取り入れられていることだ。アーチ・ネットというのは、アーチを交差させて天井を造る構造的工夫で、花壇に半円状の白いループを交差させながら造った簡易な柵のようなイメージである。
このムカルナスとアーチネットの二つの技術がこのモスクの天井に同時に実現されているのだ。
実は、このことは「世界のイスラーム建築(講談社現代新書)」で知った。暗くて大ボケ写真になったが、この本に出ているものと全く同じドーム天井を撮ってあったのです。撮ったということは、現地ガイドが説明したからだと思うのだが。

もう一点、漆喰作りの繊細なレリーフを施されたメフラーブ(メッカの方向を示す壁龕・・・前回の記事で説明)が存在することだ。これは本当に凄い。コーランの文句や唐草模様がびっしりと刻まれており、極上の美術品である。

1985年にサダム・フセインによって破壊されたところもあった。このモスクにはイランの長い歴史がそのまま刻まれている。

0658s0651s0650s イスファハンの「金曜日のモスク」外観 
76m×65mの広い中庭に建つと、四方に立派なエイヴァーンがある。金曜日の礼拝時にはこの広場に赤い絨毯が敷き詰められ、人々で埋め尽くされると言う。
0643s0644s0645s最も古い12世紀の建物。天井は全部で470もあるという小さなドームの連続。
左の写真にアーチネットが見られる。
中の写真は天井のムカルナス(発展途上だからまだシンプルな形態である)に留意。


0654s
漆喰造りのメフラーブ(メッカの方向を示すモスクの最も重要な施設)
その緻密な細工には驚かされる。

0656sこれは新しい建物。お祈り中の人も見られた。

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2007年5月27日 (日)

イラン旅行の印象その13 続ヤズド(カナート、金曜日のモスク、アミール・チャグマークなど)

ヤズドは2回にまたがることになったが、それだけ印象が強かったということでもある。先ず、このような乾燥地帯に緑豊かな都市があること自体が不思議な気がするのだ。

《カナート~バードギール~裏道探索》
ヤズドの存在はカナート抜きには語れない。砂漠の辺縁部にあるヤズドに水を供給するため、山岳地の伏流水を延々と地下道を掘って導く、それがカナートである。
カナートによる水供給システムは世界の乾燥地に広まっているが、起源はイランである。前8世紀にまで遡れるようだが、本格的に普及したのは、前6世紀のアケメネス王朝時代らしい。カナートとは要するに地下トンネルだから掘削には技術と人手、従って膨大なお金が掛かるが、イランではカナートの持ち主は毎年、建設費の25%の純利益が得られるがゆえに、多くのカナートが造られたという。東イランには70kmに及ぶ長大なものもあるそうだ。
ヤズドのカナートの例をマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)の中庭で見学できた。暗く長い階段を30mの深さまで下りるとカナートに到達した。小さなテラスが円形の水槽を囲むような形になっているが、これは礼拝の前に身を清めるための施設であったようだ。
なお、カナートで街中へ運ばれた水はアーブ・アンバールと呼ばれる本格的な地下貯水槽で蓄えられ、上部には大きなドームとバードギールという風採りの塔が備えられるという。これで水を冷却するのだ。(なお、現在はカナートはほとんど使われておらず、水道に置き換わっているようだ。)
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金曜日のモスクを見た後、周りの裏道を散策した。バードギールが幾つも見られた。ヤズドの街のシンボル的存在である。天然クーラー。




0608s0602s0609s「金曜日のモスク」の裏通り点景。   
中央の写真はある家の玄関扉。男女別にノッカーがついている。左が男性用。右が女性用。違った音が出るようになっている。訪問客が女性なら、中の女性は身構えなくてもよいが、男性客の場合、中の女性がキチンと身づくろいしてから扉を開けるのだそうだ。
この狭い路地にナン屋があった。夕食用だろうか、とても忙しそうだった。作り立てを試食する。

《マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)》
ササーン朝のゾロアスター教寺院の跡地に、14~15世紀に建てられたモスク。ドームはササン朝時代のもので1750年も経っている。イラン一高いという、56mもあるミナレットが特徴的。さらに、正面入り口やドーム内のタイル細工は素晴らしく美しい。イスラム建築の傑作のひとつと言われる。
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縦長写真の右端は、ミフラーブ。モスク礼拝堂の四壁のなかで,とくに聖地メッカの方向に面する側の内壁に設けられるアーチ形の壁龕(へきがん)のことである。モスクの中核施設。
とにかくタイル・ワークが素晴らしい。ドーム天井は思わず息を飲むほど。夕方のため、写真には撮りづらかった。

《タキイエ・アミール・チャグマーク》
アミール・チャグマーク広場の前に建つ、寺院とバザールほかの複合施設である。15世紀の建築。2本のミナレットを持つ建物は優美。
ミナレットの下のアーチの立派な入り口を入るとバザールになっている。建物右側に見える大きな木製の構造物はいわば御輿(みこし)のようなものでナフルと呼ばれる。この地はシーア派12エマーム、ホセイン(預言者ムハンマドの孫)の縁の地であり、彼が殉教したイスラム暦の1月には、このナフルは黒い布や鏡で覆われ、人々は彼の死を悼むのだそうだ。
建物の前の広場に眼を向けると、楽しそうに寄り添う若い男女のペアーが何組も見られた。その向こうのメインストリートには市民や車が溢れ、都市としての活気が感じられる。街路樹のボリューム感ある濃い緑を見ていると、ここが砂漠に隣接する都市だとはとても思えない。
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《キャラバン・サライ》
沈黙の塔を訪れた際に、途中でキャラバン・サライに立ち寄った。シルクロードにおいては30kmごとに設置されたという。機能としては純然たる隊商宿として商人、巡礼者、一般の旅行者を泊めるもののほか、バザールに隣接させて倉庫や事務所、商品取引所を兼ねるものもあったようだ。
ここの場合、強盗に襲われないよう、宿泊施設は城壁で囲まれていた。また、当然のことながら、水供給のためのカナートもあり、その痕跡を見ることが出来た。
バスで走行中、ピスタチオの畑を見つけ、わざわざ停車してもらい写真を撮った。こんな大きな木に生るものとは知らなかった。最終日、イスファハンで1kg購入。ビールのつまみに最高です。
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ヤズド郊外のキャラバンサライ址



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ピスタチオの木

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2007年5月25日 (金)

イラン旅行の印象その12 砂漠の都市ヤズドへ(沈黙の塔など)

今回のツアーでは最南部の都市、シーラーズからペルセポリスやパサルガダエを見ながら北上し、ヤズドへ向かった。この間、400km弱。ヤズドからは西北へ約300kmでツアー悼尾を飾る華のエスファハンへ到達する。ここで、地理的関係を確認しよう。
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シーラーズからペルセポリスあたりまでは、イラン随一の小麦地帯 。菜の花畑も多く見かけ、小麦の緑との対比が美しい。しかし、パサルガダエから北になると乾燥地帯に入り、ヤズドは典型的な砂漠の中のオアシス都市である。

0512s0513sシーラーズからバスで1~2時間ほどの間はこんな感じ。小麦畑や菜の花畑が山裾まで広がる。

0551s0560sシーラーズとヤズドの中間点あたりから乾燥地帯に入り、やがて完璧な砂漠が現れる。   
砂漠の果てはこんな岩山だ。

0537s パサルガダエを出て暫らくのところに、ガジャール朝時代の大きな氷室があった。壁の厚さ3m、直径22m。


0540s05440548s昼食をとった小さな村の小公園にある、樹齢4500年の巨大糸杉。高さ25m、幹の直径4.5m。
ここは、ちょっとした名所のようで、村人たちだろうかピクニックに来ていた。バイクのお兄さんも。




《沈黙の塔》
ヤズドはイラン中央部カビール砂漠の南,シール山(4078m)の山麓に位置する。降水量が少なく、風が吹くと砂嵐に襲われる典型的な砂漠都市である。
ヤズドに入る手前の南郊外に「沈黙の塔」がある。
大帝国を築いたアケメネス朝、ササン朝時代には国教だったゾロアスター教の聖地でもあるヤズドには、6000人以上の信徒が住んでいる。従ってヤズドには、ゾロアスター教の神殿や関連施設が多く存在する。
この「沈黙の塔」はゾロアスター教の鳥葬(または風葬)のための施設で、1953年まで実際に使用されていたという。(現在は土葬)
用途からすれば、あまり気持ちのよいものではないと思っていたが、実際にこの塔の前に立つと、その雄大で、すっきりした形に、尊厳すら感じました。
塔は大きいのと、小さいのが二つ並んでいて、我々は小さい方の頂上まで登った。そこには3mほどの高さの壁で円形に囲まれた直径50mほどのスペースがあり、真ん中には直径3mほどのくぼみが造られていた。極めてシンプル。
ガイドによると、鳥葬の手順は次のとおり。
①遺族が別れを惜しむ(家族は塔の下にある建物で儀式が終わるのを待つが、儀式は時には1週間以上かかることもある)
②遺体をきれいに洗う
③ゾロアスター教の僧が遺体を塔に運ぶ
④禿鷹が遺体を完全に食い尽くす
⑤僧が残った骨を真ん中のくぼみに入れ、石灰石の粉末をかけ、暫らく放置
⑥雨が降ると石灰石粉末と反応し骨が溶ける
塔の頂上からの眺望は素晴らしい。眼下に儀式や家族の待機のための施設が手に取るように見えるし、その向こうにはヤズドの市街が見渡せる。
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《ゾロアスター教神殿アーテシュキャデ》
ヤズドにはゾロアスター教神殿が幾つもあるが、異教徒も見学可能な「アーテシュキャデ(火の家という意味)」を訪れた。建物自体は古いものではないが、前廊の柱にはペルセポリスの様式が取り入れられているという。正面上部にゾロアスター教の神、アフラ・マズダの像が飾られている。
なお、「ナグシェ・ロスタム」の記事(前回)で、この像を「ファルバハル」として紹介したが、一般的には「アフラ・マズダ」となっている。
参考までに平凡社世界百科を引用すると次の通り。内容的にも若干異なるのですが、この差異について説明できるだけのデータを持ち合わせてはいません。

『アフラ・マズダ;ゾロアスター教の主神。〈英智(マズダー)の主(アフラ)〉の意。ゾロアスター自身の教えでは創造神,最高神であったが,ササン朝期の二元論的教義においては,悪と暗黒の邪神アフリマンAhriman と対立する善と光明の神と位置づけられるようになった(当時はオフルマズドと発音)。その神像は王冠をいただいた,飛翔する有翼の人物として表現され,ビストゥン,ペルセポリスなどにその例が見られる。』

神殿内部に入ると、博物館のようになっていて、ゾロアスターの肖像を始め各種の資料が展示されている。そしてガラス越しに見学者でも聖火を見れるようになっている。この聖火は1600年以上燃え続けているものだという。宗教の力とは言え、積み重ねた歳月の凄さに驚かざるを得ない。
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拝火神殿アーテシュキャデを前庭から見る。
右はアフラ・マズダのシンボルの部分を拡大。色も形もとても美しい。

0568s博物館のようになっている見学者受入れ用の前室の正面に 幅1.5m×高さ2mぐらいの鏡のように見えるガラス仕切りがあって、そこから奥の神殿部分にある燃え盛る聖火を見ることが出来るのだが、こちら側が明る過ぎ、またガラスの向こう側はほとんど真っ暗なので肉眼でもよく見えないし、写真も撮りずらい。ASA感度を高めたりして苦労して撮ったのがこれ。ガラス枠の左側の展示物は白トビしてしまったが、ガラスに反射するこちら側の様子と、向こう側の赤い火が同時に見える都合の良い写真が撮れた。 よく見ると、左の方に大きなカップのようなものがあり、そこから火が 出ているのが分かるでしょう。棚と重なって見える赤い部分も大きな火炉であるようだ。
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これは展示物の一つ。
拝火教のイメージを伝えるポスター?壮絶な感じを与えますね。

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2007年5月22日 (火)

イラン旅行の印象その11 パサルガダエ(世界遺産)、ナグシェ・ロスタム

《パサルガダエ》
前回の記事で触れた、ペルシャ帝国の最初の王都パサルガダエは、ペルセポリスの北東約70kmにある。
ここの特徴は、遺跡が数Kmにわたって点在しているため、あまり見栄えは良くないけれど、歴史的な意義は非常に大きく、従って世界遺産に登録されている。
ペルシャ帝国の創立者キュロス2世(前559‐前530)が造営した。この地に,大庭園,二つの宮殿(謁見宮殿と王の住居),1対の拝火壇,王墓,宝庫,方形建物などの石造建築を造った。これらの建築とそこに施された彫刻には,アケメネス朝が征服したアッシリア,メディア,バビロニア,イオニアを始め、エジプトやエラムの先進文化、様式が折衷的に取り入れられているのが特徴である。このような傾向はペルセポリスへも引き継がれ、より充実したものとなって行った。
ほとんどの遺跡が痕跡を残す程度であるが、キュロス大王の墓は往時の姿をとどめていた。大王の遺体は建物の中でも、地下でもなく、屋根の中に作られた秘密の空洞に納められたという。
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「キュロス大王謁見殿」
僅かにレリーフの痕跡が残っている。


0530s「キュロス大王の宮殿 」
大きな柱には、「私は王の中の王、キュロスだ」と、古代ペ
ルシャ語、バビロニア語、エラム語で書かれている。
遠くに見えるやぐらで保護されているのは拝火神殿の遺跡
0532s_1S_95 「門の宮殿」  ここはかつて街の入り口だった。
このレリーフは興味深い。28カ国を治めていたことを誇示するため、いろいろの国の様式、風習等をごた混ぜにして描いてある。礼拝の服はエラム式。翼はアッシリア式。冠の上の反転している魚はエジプト式...


0531s0535s0534s 「 キュロス大王の墓 」シンプルで堂々としている。
左は遠景。いろいろな施設の遺跡が広大な地域に散在しているのが、パサルガダエの特徴である。



0520s パサルガダエ遺跡の入り口付近で見かけた山羊を追う少年。
なお、パサルガダエとは、「ペルシャ人の本営」という意味だそうだ。



《ナグシェ・ロスタム》
ペルセポリスの北西6kmにあるナグシェ・ロスタムは、アケメネス朝の王達の墓がある場所である。岩山の切り立った100m近い崖に巨大な墓が4つ彫られており、壮観である。
向かって右からクセルクセス1世、ダレイオス1世、アルタクセルクセス2世、ダレイオス2世の順になっている。
クセルクセス1世とダレイオス1世の墓の間に高さ7mの大きなレリーフ「騎馬戦勝図」がある。これは後世のササーン朝時代のものだが、優れた造形とされる。
10494s10495s_1ナグシェ・ロスタム 
アケメネス王朝の王達の墓。断崖にいずれも十字形に墓が彫られている。見えているのはダレイオス1世の墓。写真下方左端に「騎馬戦勝の図」が見える。ズームアップ写真が撮ってなくて大変残念だ。
0496s0498s これは、右端にあるクセルクセス1世の墓。
レリーフが見事。「ファルバハル」と呼ばれるゾロアスター教独特の像が彫られている。


Photo_203「ファルバハル」の説明(添乗員さんが書いてくれた)


Photo_202アケメネス王朝の系図
イラン人は二度にわたってオリエント世界を統一し、大帝国を作ったが、第1回はアケメネス王朝(前559-前330)によるものである。

(二度目のイラン人によるオリエント統一はササン王朝によって行なわれた。224‐651年の約400年間続いた後、イスラムによって滅ぼされた。)

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2007年5月21日 (月)

イラン旅行の印象その10 世界遺産ペルセポリス

10日目、シーラーズから北57kmにある世界遺産ペルセポリスを訪れた。このツアーのハイライトでもある。
ペルセポリスは言わずと知れた古代ペルシャ帝国の王都である。それでは、そもそもペルシャ帝国とはどういう帝国で、ペルセポリスの位置づけは?

イラン族の祖先は騎馬遊牧の民で、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人の一部であった。イランという言葉も「アーリア」から来ているという。紀元前1000年紀に北方から南下してイラン高原に広がり、次第に農耕化により定住するようになった。
このイラン高原への流入は三つのグループに分かれて行なわれた。北西部にとどまったメディア人と南部まで深く侵入したペルシャ人(これらは西イラン族とも呼ばれる)、それにはるか東の方に進出した東イラン族である。イランの歴史・文化に大きな役割を担っているのは、西イラン族であり、とりわけオリエント世界を2度にわたって統一したペルシャ人である。
ペルシャ人によるアケメネス王朝が確立したのは、彼らがイラン高原を南下中の紀元前700年ごろのことである。キュロス2世(前559-530)になって、それまで従属していたメディア王国を打倒し、イラン族の代表の地位を確立した。
その後、キュロス2世始めアケメネス朝の各王が、リュディア、バビロニア、エジプトなどを次々と征服し、古代オリエントを統一した。しかし、エジプトなどの反乱もあり維持が難しかったが、ダレイオス1世(前522‐前486)は反乱を鎮圧し再統一すると共に、リビア、トラキア、マケドニアを従属させ、インダス地方にまで進出し、ここに領土は最大となり、大ペルシャ帝国が実現した。
ダレイオスの功績は,征服よりも組織者としての仕事にあると言われる。それは、新都ペルセポリスの造営であり、さらに様々な施策による中央集権体制の確立であった。その結果、その後2世紀にわたる安定した帝国運営が実現したのだった。

ペルセポリスの位置づけについて述べよう。
アケメネス朝の初期の政治的首都はペルセポリスの北方80kmに位置する「パサルガダエ(イスラム文献ではソロモンの母の墓と呼ばれる)」であった(これも世界遺産)。
大帝国時代になり、アケメネス朝は、ハグマダン(現在のハマダン)を夏の都、スーサ(エラムの都)を冬の都、ペルセポリスを春の都として使い分けた。
ペルセポリスは明らかに大帝国の首都を意識されて造られてはいるが、実際には政治的でも、経済的でも、軍事的でもなく、祭儀用の宮殿だった。巨大な建造物が、当時の最も重要な宗教行事、3月21日のイラン暦の新年祭「ノウ・ルーズ」のために造られている事実からも分かるという。(ファールス州文化保護局の資料による)

ペルセポリスは、遺跡の南壁の碑文によればダレイオス大王の命により紀元前518年に着工したことが分かる。その後の王達によっても使用しながら建設は続けられ、アレキサンダー大王によって燃やされる紀元前330年まで約200年間その役割を果たした。

ペルセポリスの建造物は、クーヘ・ラフマト (慈悲の山の意)西斜面の自然の岩盤に,一部,切石積みを施して,西側面455m,南側面290mのほぼ平行四辺形をなした大基壇(高さ11~18m)が造成され,その上に謁見殿(アパダーナ),ダレイオス宮殿,クセルクセス宮殿,中央殿,百柱殿,後宮(ハレム),宝蔵などが建てられた。

ペルシャ式建築の特徴は、石の土台があり、柱や門は石。壁はレンガ、屋根は木造、インテリアは世界各国の様式を取り入れていた。従ってアレキサンダーが火をつければ石の部分しか残らないのだ。なお、アレキサンダーは実質の首都スーサで得たより3倍もの財宝をペルセウスで得たとされる。

ひとわたりガイドの説明を聞きながら、見学したが、全貌を理解することは難しかった。帰国後、資料と撮って来た写真を見比べながら、改めてその美術・造形上の素晴らしさ、歴史的な意義を認識しているところです。
もっとも印象深かったのは、入り口の大階段(これも有名なものですが)に続くクセルクセス門と、アパダーナ宮殿(謁見の間)へ登る東階段のレリーフ(23カ国の使者が貢物を持って行進する絵)、柱頭を飾る巨大なホマなどの動物像であった。
また、背後の山に少しばかり登ってみた。ペルセポリスの全景が手に取るように見えた。
以下、写真で紹介する。

0422s0424s 左;遠方よりペルセポリスの大基壇を見る
右;基壇へ登るための大階段。110段ある。保護のため板が敷いてあった。

0425s0475s0432s クセルクセス門。高さ16m。門といっても実際は控えの間だった。東西南の3方に出入り口がある。
西ゲートは牡牛像、東ゲートは人面有翼獣神像の対のレリーフ。

0439s
百柱の間南側入口にあるレリーフ。
支配28カ国の人物が最上部の玉座と王を支えている構図。






0433s0481s0459s あちこちに点在する柱頭を飾る像は4種類ある。①想像上の鳥、ホマ。幸せを象徴する。イラン航空のマークでもある。②牡牛。恵みを象徴する。③ライオン。権力。④人間。良い考え。
0467s0448s 左は山から遺跡中心部を鳥瞰したところ。手前に百柱の間が見え、奥の屋根が作ってあるところが中核のアバダーナ(謁見の間)である。
右は、アバダーナへの東側大階段に彫られたレリーフ。ライオンと牡牛の戦いの図である。
0452s0454sPhoto_201 同じくアバダーナ大階段に彫られた属国23カ国から貢物を持ってくる図が描かれている。それぞれの国の特色が人物や貢物に表れていて面白い。1カ国ごとに糸杉でセパレートしてある。
0103s0077s この3点は、テヘランの考古学博物館に展示されているものである。左は有名な「ダレイオス1世の謁見図」右は「階段のレリーフ」

0086sこの「牡牛の柱頭」は百柱の間にあったもの。いずれも保存状態がよく、素晴らしい。 


 
 

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2007年5月18日 (金)

イラン旅行の印象その9 三大詩人の霊廟を訪れる

今回のイランツアーで、思いがけなかったことのひとつに、イランでは歴史的な詩人たちが偉人として人々に尊敬され、また広く親しまれていることだった。
8日目のマシュハドから9日目のシーラーズで、三大詩人(フェルドゥーシー、ハーフェズ、サーディー)の霊廟を見、そしてそのことを肌で感じました。
まず、現地ガイド(15日間通しです)の熱の入れ方が違う、それぞれの詩人の代表的な詩をプリントしてくれ、かつペルシャ語で誦してくれるのでした。
特にハーフェズ廟はイラン人の参拝客、学生、子供たちで溢れていて、彼等の振る舞いを見ていると、いかに彼がイラン国民に愛されているかが分かるのです。ガイドの説明によると、イラン人が最初に手にする書物はコーランであり、その次はハーフェズの詩集だと言う。

(1)フェルドゥーシー
フェルドゥーシーの廟は、イスラーム教シーア派の聖地マシュハドの近郊トゥースにある。
古代ペルシャでも朝廷詩人がいたようだが、文字ではなく口承が主体で、書かれた物は残っていない。
その後、2世紀にわたりアラブ支配を受けてイランはイスラム化し、行政・宗教・文化・学術語にはアラビア語が使用されるようになった。一方で、アラブ支配の恩恵とも言えるがアラビア文字による近世ペルシャ語が9世紀までに完成した。しかし、ペルシャ語による文学活動が行なわれる余地はあまりなかった。
9世紀前半頃から、イラン東部で民族王朝が樹立されたのに伴い、ペルシャ詩人が次第に現われるようになり、やがて宮廷詩人制度も復活され、ペルシャ文芸が復活するに至った。
10世紀後半に、先駆的な詩人たちの後を継いで,イラン建国からササン朝滅亡に至る神話,伝説,歴史をテーマに作詩に着手し,30余年をかけて約6万句に及ぶ大民族叙事詩《シャー・ナーメ(王書)》を完成させたのがイラン最大の民族詩人フェルドゥーシーである。
フェルドゥーシーはイランの歴史を6万の詩の形で残すと共に、アラビア文字によるペルシャ語を確実にこの国のものとしたことで、大きな功績を残したと、イラン人に評価されているのです。

ところで、驚いたことが一つ、上記の《シャー・ナーメ(王書)》の英語版が私の手元にあるのだ。何処だったか忘れてしまったが、博物館の売店のようなところで、見つけて買ったのです。その時点では、美しい細密画を紹介した本で、フェルドゥーシーの名が入っているから良さそうだ、というぐらいでした。今回この記事を書くに際して平凡社の百科辞典をひもといたところ、シャー・ナーメ=Shahnameh(この本のタイトル)であることが分かったという次第。はからずも、とても価値がある本を手に入れてしまった、と喜んでいる。
S_85S_86S_87フェルドゥーシー廟   
碑には彼の詩が刻まれている。右はフェルドゥーシーの彫像。幼子が無心に遊んでいた。




S_88S_89知らずして手に入れた《シャー・ナーメ(王書)》の英語版。各時代の王をめぐるエピソード集であるが、美麗な細密画がたくさん挿入されている。右は「Zahhak enthroned 」


(2)ハーフェズ
ハーフェズ(1325~1389)はシーラーズで生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごした。廟は街の北東の美しい庭園の中にある。
ハーフェズはイランで最も偉大で、敬愛されている抒情詩人である。酒,恋,美女などをテーマに象徴主義手法を用いて作詩し,神秘主義思想と現実の両意に解釈できるように表現し,抒情詩を最高・完成の域に達せしめた(平凡社世界百科)。
イラン人は誰もが三つや四つ、彼の詩を知っているという。ガイドによれば、男性はハーフェズの詩をたくさん知っていなければ女性にもてないという。
どんな詩か? 彼の墓石に刻まれているのは次のようなものだ。

1 そなたと結ばれる吉報はいずこ、私は命を捧げよう
  私は天国の鳥、この世の罠から抜け出そう
2 そなたへの愛に誓って、私を自分の奴隷と呼んでくれるなら
  私は時間と空間の支配から抜け出そう
3 神よ、私が埃のように消え去る前に
  お導きの雲から慈雨を降らせたまえ
4 我が墓の傍らに酒を持ち薬師を連れて座れ
  そなたの芳香で私は墓から踊りながら起き上がろう
5 麗しい歩みの恋人よ、立って姿を見せよ
  私は踊りながら生命とこの世に別れを告げよう
6 老いたりとも一夜私をしっかり抱いてくれ
  翌朝私は若返ってそなたの傍から起き上がろう
7 死ぬ日、そなたに会う一瞬(いっとき)の猶予をくれ
  ハーフェズのように、私は生命とこの世を捧げよう
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次々とイラン人が棺の回りに参拝に訪れる。これは学生のようだ。若いイラン人女性はとても美しい!
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0389sこのようにこんなに小さいうちから、ハーフェズに親しむお国柄だ。

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廟に併設されているチャイハネでお茶を飲む。チャイハネには必ず水タバコが置いてある。

(3)サーディー
サーディーはハーフェズより一昔前の13世紀の抒情詩人である。長く中東、北アフリカ、インドを放浪し、晩年になってシーラーズに戻り、没した。不朽の名作《薔薇園》と《果樹園》を作詩した、教訓詩の最高詩人として名高い。特に薔薇園は世界各国語に翻訳されているという。
サーディーの廟はハーフェズ廟からほど遠からぬ場所にあった。
ガイドによると、ハーフェズよりサーディーの方が詩の内容が分かりやすいという。果樹園の中から詩の紹介があったが、確かに教訓的内容だった。
S_90S_91S_92ここにもイラン人が大勢訪れていた。廟の一角には地下水槽のあるチャイハネがあった。子供たちに占領されていたが。水の中には金魚!

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2007年5月15日 (火)

イラン旅行の印象その8 キャンドヴァーン村~アンザリー潟~マースーレ村

《キャンドヴァーン村》
イランにはとても変わった村が存在する。キャンドヴァーン村は、タブリーズの南50kmのサハンド山の麓、谷への斜面に沿って密集する奇岩群の只中にある。というか、奇岩そのものをくり貫いて家としているのだ。トルコのカッパドキアに似た風景だ。カッパドキアと違って、実際に人がまとまって住み、村として存在することだ。
1400年前、アラブ人の侵入に際して、この地に逃げ込んできた人たちがそのまま住み着いたものだという。この村の特産はアーモンド、アプリコット、蜂蜜。また水が綺麗なことでも有名だという。
シャムソーラ・キアニさんの岩のお家を訪問させていただいた。くり貫いた岩の空間に大きな絨毯を敷き、家具を置いただけだが、とても暖かく安心感のある住空間に思えた。各家はくり貫いた空間を四つほど所有していて、用途を分けているようだ。
この日は金曜日(イランの休日)でもあり、ピクニックの家族連れで大いに賑わっていた。
帰りに我々のツアーの仲間の何人かが特産の蜂蜜を買った。
S_69 左の雪山は村に向かう途中、ずっと見えていた。今回のツアーで最も美しかったと思う。


S_70S_71キャンドヴァーン村の遠景。
道路は渓谷沿いに通っている。右端の売店にて何人かが蜂蜜を買った。


S_72S_73村の通路は危なっかしいところもたくさんある。村の女性が井戸端? この道は山羊も通るから当然、糞も。   
ピクニックに来たイラン人の若者たち。何処へ行っても、老いも若きも我々に感じが良いのだ!今回のツアーで最も感銘を受けたことの一つだ。
S_83村の住人キアニさんの御宅をみせてもらった。 道路も含めて岩を繰り抜いて造られている。一部レンガや漆喰で表面が整えられている。かなりの部屋数がありそうだ。







《カスピ海~バンダル・アンザリー》
6日目は、タブリーズからアルダビール(前回の記事参照)を経てカスピ海のバンダルアンザリーまで400kmほどの長距離の移動だった。しかし、道路は良く、雪の積もった山々や日本とは異なる乾燥気味の荒涼としているが魅力的な風景を眺めていると、疲れはほとんど感じない。バスの車窓からではろくな写真にならないことは分かっていても、見たことも無い風景が次々と展開し、その度に思わずシャッターを切ってしまうのでした。
アルダビールから暫らく進むと、東の地平線上に低く雲が張り付いているのが見える。あのあたりから、これまで通ってきた1300~1500mの高原が一気にカスピ海に向けて標高を下げるからだとガイドが言う。間もなく道路は一方的なしかも急な下りになり、あっという間に霧の中というか雲の中に突入してしまう。そして、あたりはにわかに木々の緑に覆われた。この劇的な変化は感動的ですらある。
カスピ海沿岸の平地に出ると、なんと水田地帯だった。ほとんど日本の田舎と同じ風景が広がっている。イラン人にとって、この水と緑に恵まれたカスピ海沿岸地帯は「天国」と映るらしく、あこがれの地だという。テヘランからカスピ海沿岸までは最も近いところでも300km近くあるが別荘を持つ人も多いと言う。
バンダル・アンザリーのホテルに入る前に、野鳥や渡り鳥の生息地帯として有名なアンザリー潟のボートツアーに行った。カスピ海に広がる450平方kmの湖沼群で、野鳥と共に、蓮の花が見事らしいが、残念ながら時期的に早すぎたようだった。なお、ここから更にカスピ海沿岸を東へ100kmほど行くと、温泉もある有名なリゾート地ラームサルがある。湿原の保存に関する国際条約「ラームサル条約」が締結された都市である。
また、写真を撮らず残念だったが、潟のカスピ海への出口のところがアンザリー港(バンダルがペルシャ語で港という意味)になっていて、停泊中の中・大型船は全てロシア船であった。そうなんだ、直接陸続きではないが、カスピ海の向こうはロシアなんだ。国際問題でイランとロシアが近い訳が、納得できたのでした。
そして、いつの間にか大変なところまで来てしまっている自分に驚くのでした。
なお、ツアー参加者でカスピ海名物キャビアを購入する人もいました。
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カスピ海沿岸地帯は降雨量も多く、水田が広がっている。
バスの車窓からなので、どうしてもボケてしまう。

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アンザリー潟のモーターボート・クルーズは時速50km/hで突っ走る。今、とても人気らしい。時折姿を見せる鳥たちも諦め顔?迷路のような葦の水路のどこかに、本物のビールが飲める隠れ家があるらしい。どうですかと言われたが、誰も希望しなかったのでパス。結局、このツアー15日間は完全禁酒で通しました。
F1131sS_74 これは、翌日朝のカスピ海。ホテルの庭から直接浜に出れる。昨日の小雨混じり曇天と打って変って上天気。つい、30分前までは霧でほとんど見通しがきかなかったのに。(左;6時10分ごろ 右;7時30分ごろ)


《マースーレ村》
マースーレ村は、バンダル・アンザリーから直線距離にして60kmぐらい内陸に入ったところにあるのだが、じかに行く道路がなく延々と回り道を余儀なくされる。この村が面白いのは、海抜1050mの山肌に家々が段々畑のように層を成してびっしり並んでいて、各家の屋根部分が道路として使われていることだ。遠くから見ると、あちこちの屋根の上に人が歩いたり、佇んでいて、奇妙な感覚を覚えるのです。下の方の階層はちょっとしたバザールになっているので、店を覗く楽しみもある。
村を一回りしてからバザールのチャイハネで一休み。イランのチャイの飲み方は、インド(煮込みミルクティー)とは全く異なる。お茶は必ずストレートで出て来て、先ず角砂糖を口に含んでからやおらお茶を流し込む。この角砂糖はかなり硬く容易に溶けない。お茶菓子を食べながら日本茶を飲むのに似ているが、お菓子よりはずっとすっきりしている。
この村の人口は1600人ぐらいとのことであった。
村人の生活そのものが観光資源になっている面もあり、得がたい体験だった。写真もいっぱい撮り、平和で充実した気分に満ちて、次の観光地に向かったのでした。
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マースーレ村の遠景。小さなモスクもある。ちょっと見には変わった所が無いようだが?


S_79S_80下の階層の屋根が道路として使われているのが分かる。
人が屋根の上にいるように見えるが、公共の道路の上にいるのだ。
S_77S_78 従って、このような風景がいたるところで見られる。



S_81S_82左はバザールの店のオヤジが、模様替えをしているところ。両側に店のあるこのあたりは道路幅は1mぐらいしかない。その、ゴチャゴチャさが楽しい。
右は小さな村の小学校。先生と生徒がちょうど出てきたところ。例によって、にこやかに挨拶を交わした。

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2007年5月14日 (月)

イラン旅行の印象その7 シェイフ・サフィーアッディーン廟(アルダビール)

6日目、4810mのサバラーン山を見ながらアルダビールに入った。ここには、とても美しいイスラーム建築「シェイフ・サフィーアッディーン廟」があるのだ。
シェイフ・サフィーアッディーンはサファビー神秘主義教団の開祖であり、彼の子孫であるシャー・イスマイール(1世)がサファヴィー朝を開き、シーア派を宣言、国教とした。サフィーアッディーンは1393年に亡くなって、息子がこの墓を作った。
先ず外観が素晴らしい。とりわけ眼を引く、個性的な青いタイルのモザイクで飾られた円筒形のドームがサフィーアッディーンの廟である。このドームは1.5mの高さの8角形の石の基礎台の上に設置され、周囲22m高さ17.5mの規模である。この中には象牙細工の木彫りの棺が安置されていて、実際にはその地下にアッディーンは葬られている。なお、子孫のイスマイールほかも一緒に葬られているようだ。
この廟に連接したホールにはチニハネと呼ばれる陶器博物館が設けられている。ホールおよびチニハネは、天井ドームから壁面にかけて金色に燦然と輝く立体的かつ繊細な装飾がなされているし、床には素晴らしいペルシャ絨毯が敷かれていて、圧倒される。
チニハネの絨毯は24人が毎日織って7年間かかったものだそうだ。
陶器はアッバース1世が中国皇帝から贈られたもので、大部分はロシア(一部はエルミタージュにある)に流出してしまったと説明があった。
内部は照明が暗く、ノンフラッシュだから撮影がとても難しかった。ASA感度を800にして壁に体を密着させて撮ったが、ぶれて使い物にならないものが多かった。それでも撮影させてくれるだけありがたい。
(「地球の歩き方」では「Safi-od-dinサフィーオッディーン」となっているが、正確にはSafi-al-dinサフィーアッディーンである)

S_60S_61 シェイフ・サフィーアッディーン廟外観。



S_62S_63 左がアッディーン廟。何とも表現のしがたい美しさ。






S_64S_67左はエンタランスホールから廟の方(奥の暗い部分)を見る。構造が良く分からないが、全部繋がっているようだ。
右は廟の部分に安置されている棺。




S_65S_66エンタランスホールから左側には陶器博物館チニハネが連なっている。
この絨毯が凄い。






S_68廟の見学を終えてバスの駐車場へ行く途中、学校から出てきたのだろうか、少年たちが大勢居て、我々を日本人と認めて一生懸命しゃべりかけて来る。

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2007年5月12日 (土)

イラン旅行の印象その6 タブリーズ(ブルーモスク...絨毯工場...)

タブリーズはイランの最北西端、アゼルバイジャン、トルコ、イランに囲まれた比較的狭いエリアに位置する人口100万の大都市である。周りは3000m級の山に囲まれていて、街の標高は1360mあり、夏涼しく、冬はかなり寒い土地柄である。ヨーロッパとアジアを結ぶ要衝にあることから、古くから商業および宿場町として重要な役割を果たし、さらに13世紀のイル・ハン朝を始め、何度もここに首都が置かれて繁栄した。

タブリーズで報告したいのは、通称ブルーモスク「マスジェデ・キャブード」と、予定外に見学できた絨毯工場の様子である。

《ブルーモスク》
マスジェデ・キャブードは15世紀の中頃、カラ・コユンスルのスルタン、ジャハーン・シャーの時代に建てられ、この時代の建築の傑作といわれる、と、ガイドブックには紹介されている。多様なペルシャンブルーのタイルで建物全体が覆われていたことから「ブルーモスク」の名で知られている。しかし残念ながら、地震の多い地域のため、度重なる地震でタイルが半分ぐらいは剥げ落ちてしまっている。230年前の大地震のあと、180年間は放置されていて、その後ようやく修復が行なわれるようになったという。
地下にはジャハーン・シャーの墓が残っている。
モスクのサイト入り口には大きな像が建っているが、12世紀に活躍した詩人ハーガニーである。(イランの詩人については別途述べよう)
S_53
サイトの入り口。モスクの後ろ側に当たる。
こちらから見ると、ブルーの気配が全く無い。

S_54S_55
左は正面入り口。かろうじてタイルが残っている。
右は内部。





S_56Photo_200
このブルーの凄さ!
剥がれ落ちたタイルが1室に集められていた。

《絨毯工場》
いわゆるペルシャ絨毯はイラン各地で作られているが、タブリーズは絨毯製造の歴史が古いだけでなく、とりわけ美しい絨毯を産することで有名です。これは、トルコ結びでゴブラと呼ばれる独特なカギ針を使用して織ることにより、緻密な織り目と正確な文様が実現できるのだという。織られる模様はコーカサス風の幾何学模様に動植物を巧みにアレンジしたデザインが主体だという。
訪れた工場は、一般販売用のものではなく、○○王室御用達や公的目的の大型の超高級な絨毯を製造している所だった。たまたま工場は休みの日だったが、一部稼動しているところを見せてもらった。従業員は500人ぐらいらしいが、以前は1000人ぐらい居たという。ここで織っている大型のものだと、1枚織るのに例えば3人×3交代/日で数ヶ月、時には1年も2年も掛かるものがあるという。このような超労働集約型だから値段が高くなるのだが、工場としても採算が取りがたく、つぶれるところが多いそうだ。現地ガイドが真顔で言うには、「ペルシャ絨毯は近いうちに消滅するかもしれない」
写真で見られるように、ここでは図面を見ながら織っている。田舎で家内工業的にやっているところは図面無しで、頭の中のイメージで織るのだそうだ。
結び目の数が多ければ多いほど質は良くなる。ちなみにここで織られているのは、シルクで1cm×1cmあたり結び目144ラージだった。
余談だが、ここは「世界不思議発見」の撮影にも使われた、とガイドの説明があった。
S_57S_58
この絨毯は二人がかりで織っていた。
コブラと呼ばれる特殊なカギ針を使うのがタブリーズ絨毯の特徴。上に見本が掲げられている。
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これは別の絨毯。作業は反対側で行なう。

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2007年5月 9日 (水)

イラン旅行の印象その5 世界遺産タフテ・ソレイマーン

タフテ・ソレイマーンの遺跡は何処までも広がる、のびやかな高原の一角に少しだけ盛り上がった丘の上に存在する。周りには小麦畑やオリーブの林があり、ヤギの群れを追う土地の人も見える。牧歌的で心休まる空間に満ちていました。
驚かされるのは、360m×280mぐらいの楕円形に囲んだ石壁の内側にはいろいろの遺構と共に、100m×70mぐらいの青く輝く湖があることだ。この湖の存在が、今までに見たことの無い、不思議で魅惑的な景観にしています。大抵の人は一度見ると忘れることが出来なくなるでしょう。

ここはどういう所なのか?現地で購入したパンフに、このサイトについて英文の紹介があったので、簡単に翻訳してみましょう。

『タフテ・ソレイマーン(Azargoshnasb Fire Temple)の遺跡』
タフテ・ソレイマーンは西アゼルバイジャン州のTakabの北東42kmに位置する複合的遺跡である。この遺跡内には多数の遺構があり、さらに絶え間なく湧き出る泉がちょっとした湖を作っているが、これらは周りの土地より20mほどの高さの、石と湖の沈殿物によって形成されたプラットホームの上に乗っかっている。
これまでの調査によれば、宗教的定住者がここに来たのは紀元前1000年ごろのことである。そして、パルティア時代(BC3世紀~AD2世紀)の遺跡の上にAzargoshnasb Fire Templeが造られた。
ササーン朝期、特にKhosrow-Anushirvan(AD531~579)やKhosrow Ⅱ(AD590~628)の統治下には、この地の発展に特に意が注がれた。
パフラビ文字(ササーン朝のゾロアスター教の書物で使われた)では、このFire TempleはGanzakまたはGanjehと呼ばれた。ローマ人たちはGazka、アラブ人はShizだった。
AD624年、Khosrow軍がローマに敗れて後、侵入者によって略奪、破壊されて、その威信は失墜した。その後のイスラーム統治下はさらに寺院の落ち目が続いた。
モンゴル系のイル・ハン朝の時代(1256~1353)になって、建物が増改築されるようになり、特にAbaga KhanによるKhosrow’s Aivanの復活により、この地域での政治的、社会的活動が始まった。そして、17世紀までこの地は夏の首都となったが、その後は完全に放棄された。
ここで用いられている材料は、自然石、切石、レンガ、化粧漆喰、細工されたタイルである。
2003年世界遺産に登録。

パンフの説明は以上ですが、若干補足しよう。
先ず、タフテ・ソレイマーンとは、「ソレイマーンの玉座」という意味だが、全く関係のない名前なのである。本来ならAzargoshnasb Fire Templeの遺跡というべきでしょう。
要は、ここはゾロアスター教寺院の跡なのだ。従って遺構の中には、火を燃やし続ける特別な場所もある。
ゾロアスター教の歴史は古く、その祖ゾロアスターは紀元前630年ごろ(紀元前1000年より以前という説もある)生まれ、イラン北東部で拝火の宗教を提唱した。以後、イスラームに席巻される650年ごろまでイランの諸王朝によって、国教とされて来たのだった。

遺跡に残る構造物はほとんど元の形を留めず正に廃墟であるが、真ん中にある小さな青い湖と、何処までも続く朗々とした高原の景観とが一体になると、異次元の世界に迷い込んだような気分にさせる不思議な場所なのです。

Photo_197Photo_198左の2枚は本文のパンフからコピーしたもの。
全体が俯瞰できる。







Photo_199タフテ・ソレイマーン遺跡の平面図
(パンフレット)





01050107_1外壁と遺跡への入り口




0111_10113_10119_1この豊かな水は地下から湧き出たもの。
平均水深60m、最大112mとガイドブックに記されているが?右の写真は流出口。

011701160122
遺構の数々。
左は火を維持した場所だったと思う。
右写真では、僅かに装飾の痕跡が見られる。中写真はアナヒタ神殿(水を溜めた)。ゾロアスター教の時代には、古来のアナヒタなど多神教も容認された。
01060123周りの眺望。
左写真に小さく羊の群れとそれを追う人が見える 。右写真の水路には湖からの流出水が激しく流れる。

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2007年5月 7日 (月)

イラン旅行の印象その4 世界遺産ソルターニーイェ

西北部では3箇所の世界遺産を見た。①ターク・イ・ブスターン(2006年登録)②ソルターニーイェ(2005年登録)③タフテ・ソレイマーン(2003年登録)である。このうち、②、③はとても印象深かった。
先ず、ソルターニーイェを取り上げよう。ツアーでは第3日、ハマダンからザンジャンへ向かう途中のソルターニーイェの小さな村に、世界遺産の巨大な建物、ソルターニーイェ・ドームがある。
(注;ツアー催行会社ではスルタニエと呼んでいますが、ソルターニーイェの方が実際の発音に近く、かつ一般的に使用されているようだ)

ソルターニーイェとは「帝都」の意味である。現在は日干し煉瓦の家が散在する砂塵の目立つひなびた場所だが、かつてここはイランを支配したモンゴル人君主ウルジャイ(在位1306-13)による巨大帝国の首都だった。その賑わいについて、同時代にイラン北西部を通過したマルコポーロが記録に残しており確かなことである。
当時、支配者は巨大な墓を造って名を残そうとする傾向があり、ウルジャイに至って、ついに世界最大級の建物が造られた。なお、現地ガイドの説明では、当初、イマーム・アリー(シーア派の最高指導者)の墓として造っていたが反対されて自分の墓としたと言う。
ドームの高さは約50mあり、遠くからもよく見える美しい青いタイル張りだった。ドームの周りには8本のミナレットがあったようで、その痕跡が存在している。
八角形の建物は直径25mの大きな吹き抜けの空間を持つ。この空間の各辺には深い壁がんがあり、さらに上部には内部を見下せる回廊が付いている。
建物外側のドームの基部にも回廊がぐるりと取り巻いており、ここからの周辺の平原の眺めが素晴らしい。この回廊は24のヴォールトから構成され、それぞれ彫刻、着彩された漆喰により色彩豊かに装飾されていた。各ヴォールトはそれぞれ異なった幾何学文が用いられているが、同時代に存在した図案集のものと一致するので、職人がこれから着想を得たものと考えられている。この幾何学文がとても面白く、売店で文様だけを集めた絵葉書を購入した。
建物の外壁、内壁の大部分が施釉タイルで覆われていたというから、当時は素晴らしく美しい建築だったと想像される。

S0055_1 ソルターニーイェ・ドーム(Soltaniye Dome)の外観
ドームや外壁に断片的に青い施釉タイルが残っている。現在、ドームは全面的にタイル復元作業を行なっている。


S0056S0064広々とした内部空間 
八角形の各辺には大きな壁がんが設置されている。その上部は内部を見下ろせる回廊になっている。

内部壁面には幾何学文の施釉タイルが残っている。現在修復中。



1s0060S_52 内側に向けた回廊の更に上には外側に向けた回廊がある。24のヴォールトに区分されていて、着彩された漆喰で装飾されている。天井部分に各ヴォールトごとに異なるデザインの大きな模様が付されている。





Photo_196 絵葉書より。
上は、上記回廊の、あるヴォールト(右側写真)の天井に装飾された文様。これはここのシンボルでもあるようだ。
下は内部空間の壁の文様のひとつ。
いずれも、とても複雑で、かつ面白い。



S0062S0061_1 外側に向けた上部回廊からソルターニーイェの村を展望する。
黒いチャードルを付けたイラン女性たちが小さく見える。


(この記事は、岩波書店「イスラーム美術」を参考にしました)

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2007年5月 6日 (日)

イラン旅行の印象その3 西北部は山また山...シルクロードで最も美しいルート

イランでこんなに山岳美を味わえるとは全く予想していなかっただけに驚きだった。特に、ツアーの前半の北西部は圧巻だった。バスは雪を頂いた高い峰々を望みながら、緩やかにうねりつつ、幾つもの峠を越えて高原を進むのです。日本では見られないスケールの大きさに圧倒されながら。一見荒涼としているが、灰色、茶色、薄緑、そして真っ白な雪が織り成す巨大なタピストリーだ。
現地ガイドの説明では、4日目のザンジャンからタブリースに向かうルートはシルクロードとも重なり、このガイドが主催する北京~イスタンブール48日間のシルクロード踏破ツアーの参加者からイランのこの部分が最も美しいと賞賛されているのだそうだ。
前日のガイドの予告...「明日は信じられないほど景色が美しいですよ」
このツアーのベストシーズン中のベストがこの4月だというのは、この山岳ルートの美しさを最大限に満喫できるからだ、とツアーガイドは言う。遅ければ雪化粧した山は見られないし、早ければ降雪でバスも通れない。現に、添乗員の話では、2週間前の同じツアーでは雪に見舞われ通行不能で日程が変更になったと言う。

4日目、ザンジャンを出て世界遺産のタフティ・ソレイマンに向かう。新緑が広がる山々を通り、途中、銅や亜鉛を運ぶロープウエーを眺めながら高度を上げて行く。この付近で最も高いシャープラギ峠(2650m)に差し掛かった時、雪が降り始め、あたりは白一色。車のスピードも落ちて来た。あと100mほどで峠が越えれるというところで、バスが雪だまりに入り動かなくなってしまった。後から来た乗用車がバスを追い抜いたけれどやはりスリップで停止。乗用車は軽いから皆で押してやると何とか動き、峠を越えて行った。
バスの方は運転手とガイドとアシスタントの三人で、チェーンを着けようとしたが、装着不可能のようだった。さて、困った。正直、私もここで夜を越す羽目になるかと思った。現地ガイドは携帯でテヘランの会社へ救援を頼む。しかし、ここに到着するには7~8時間はかかるだろう。一方、アシスタントの17歳の少年が、何とか峠の頂上にたどり着いた乗用車に便乗してどこかへ行ってしまった。そして、じりじりと神経が擦り減る様な時間が過ぎて我慢が出来なくなりそうになった時、反対側から車が来て、少年がスコップを2丁持って飛び降りてくる。なんと、これでタイヤの前後の雪をすかしたら、あっという間にバスが動き始めたのです。乗員は思わず一斉に拍手。この間2時間。少年は一躍ヒーロー。
この1件で、少年は随分自信を持つようになり、我々とも大いに意思が通じるようになったのでした。
なお、この日のこの付近の温度はマイナス2度だったという。たまたま薄着だった私は軽い鼻風邪を引いてしまった。
(ケルマンシャー~ハマダン~ザンジャン)
S0024S_51右はアサダバード峠のレストラン横にあった作業小屋。
何処へ行ってもそうだが、ペルシャ語(アラビア文字)のロゴが格別の雰囲気をかもし出す。

(ザンジャン~タブリーズ)
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S0094S0096
現地ガイドとアシスタントの少年



(タブリーズ~アルダビル)
S0161S0186右はイラン有数の高峰サバラーン山(4810m) 
農夫が畑を耕していた。


S_50
西北部詳細図
○数字は宿泊順序。ただし、ケルマンシャーはテヘラン宿泊後、早朝飛行機で到着。

ケルマンシャーからバクダットまでは1本道。すぐそこだが、イラン領土内は平和そのもの。戦争の匂いはいささかもしない。



【参考】  イランの地形と自然(平凡社世界百科より)
イランの地形は三方を山脈,高地に囲まれた逆三角形の高原である。北部にアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部をなすエルブルズ山脈が東西に走り,3000m級の山峰が連なっている。最高峰はテヘランの北にそびえるダマーバンド山(5671m)である。山脈に沿った地域は造山活動のために地震が頻発する地域となっている。北西部から南東部に向かって別の数条の山脈が並走している。これをまとめてザーグロス山脈といっているが,3000m級の峰が連なり,山間の盆地にオアシスの集落が発達している。東部のアフガニスタンとの国境地帯は連続した山脈といえないが,とぎれとぎれに高地がある。イラン高原の標高は平均して700m以上,もっとも低い所は南東部の300m,高い所はエルブルズとザーグロスの両山脈が出会う北西部のアゼルバイジャン地方の1500mである。
イラン高原の気候はエルブルズ,ザーグロスの両山脈が外洋からの影響をさえぎる自然の障壁になっているため,降水量が年間を通じて少なく,極度に乾燥していることが特徴である。高原全体の平均の年降水量は250mm程度,三方の山脈,高地から離れて中央部にいくほど降水量は減少し,年間100mm以下の人の住むことが不可能なカビール砂漠,ルート 砂漠になっている。東部のバルーチスターン,シースターンの両地方はまったくの砂漠ではないが,標高の低い内陸盆地であるために乾燥が著しい。イラン高原で比較的降水量に恵まれているのは,500mm以上の雨が降る北西部のアゼルバイジャン地方で,乾燥森林と叢林ステップが見られ,天水農業が可能となっている。
 大陸性の気候を示すイラン高原は,夏と冬の気温較差が25℃以上と大きい。7月は平均気温30℃,昼間は40℃を超す暑さを記録するが,1月は中央アジア方面の高気圧帯から寒冷で乾燥した空気が流れこんでくるため,平均気温は3℃となり,寒さが厳しい。また,冬は地中海方面から移動してくる低気圧の影響で,雨がこの時期に集中して降る。高原部での生活の場は,以上のような過酷な自然と風土に制約されてかたよったものになっている。村,都市といった集落は,比較的降水量が多く水を得ることが容易なエルブルズ,ザーグロス両山脈の麓か山間の盆地に集中している。このような所は春に山からの融雪水が中小の河川となって流れ,また伏流して地下水になったものをカナート灌漑によって利用できるため,農業と生活の便に恵まれている。
 イランの大半は高原地域によって占められているが,わずかながら低地帯も存在する。その一つはエルブルズ山脈の北側,カスピ海南岸に沿って延びるギーラーン,マーザンダラーン 両地方の海岸平野とその東に続くトルクメンのステップである。この地域はカスピ海の湿潤な空気が北斜面にあたるため,年間1000mm以上の降雨があり,夏乾燥,冬多雨の地中海性気候となっている。とくに湿潤なのはギーラーン地方で,広葉樹の茂る森林と水田があり稲作が行われている。東に行くにしたがって乾燥度が強まり,カスピ海南東部のトルクメン平原ではステップ化している。ここでは遊牧のほかに綿作とタバコの栽培が行われている。
Photo_193Photo_195イラン全図とシルクロード・ルート図 

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2007年5月 2日 (水)

イラン旅行の印象その2 ローズモスク

イラン旅行の醍醐味の一つは、美しいモスク建築の鑑賞であろう。中でもシラーズのナシル・アル・モルク・モスクはひときわ華やかである。他のモスクに見られないピンク色や花柄のタイルが使われていて、別名「ローズ・モスク」とも呼ばれる。
ガジャール朝の建築家で聖職者のナシル・アル・モルクにより1887~1897年に建てられた。
建物の外観も美しいが、とりわけここが有名なのはステンドグラスである。午前中、陽が当たるとステンドグラスを通して極彩色の光が刺し込む。それが反射して礼拝堂の部屋いっぱいに広がり天国の花園のような雰囲気となる。
我々がこのモスクに到着したのは午前10時過ぎで、既に太陽は高く、やや刺し込む光が少なかったけれど、それでもとても素敵だった。
ステンドグラスに描かれているのは西洋の教会のような具象的な絵ではなく、シンプルで魅力的な幾何学模様であり、それが一層、光の透過を効果的にしているようだ。

イラン人の美意識に脱帽あるのみ。


0330Photo_189ナシル・アル・モルク・モスク
右はアーチ上部


Photo_191
礼拝堂の一角にはメッカの方向(キブラ)を示す象徴的な壁龕(へきがん)ミフラーブが設置されていた。
これは、全てのモスクに不可欠な要素の一つである。




1_5S_49Photo_1タイルのアラベスク模様
通常、偶像崇拝に繋がる具象的な絵柄は使われないのだが、ここでは珍しく自然の花、建物、動物などがやや具象的にあしらわれている。 




S0336_1
0337 礼拝堂の内部
4月24日10時過ぎの 状態。
晴れていて幸いだった。





Photo_190パンフのように部屋いっぱいになるのは太陽が低い冬の日だろうか?

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イラン旅行の印象その1

イラン航空の帰国便は5時間遅れてテヘランを発ち、自宅に帰ったのは30日23時だった。しかし疲れをあまり感じないのは何故だろうか?
多分とても気分の良い旅が出来たせいだろう。自然の景観や世界遺産、それにモスク建築...いずれも素晴らしかった。しかしそれだけならば、他の幾つかの国でも似たような経験はできるでしょう。
イランならではの経験、それはイラン人の日本人に対する驚くほどの好意がひしひしと感じられることなのです。どの街へ行っても、田舎へ行っても、大人も子供も、我々を日本人だと素早く見究めをつけ、積極的にしかもにこやかに挨拶してくれるのです。
我々日本人は大概イラン人のことは何も知らないから、いわば「片思い」のこの現象に大いに戸惑い、こそばゆい感じをいだかざるをえない。
イランでは子供のうちから学校で日本のことを学び、ベースがあるところへ、連続TV小説「おしん」がイランで放映され、ほとんど全国民が見たことが原因のようだ。そういう訳で、行く先々で自然とコミュニケーションが弾み、また我々が歓迎されていることをひしひしと感じるのだから、楽しい旅にならないはずがないのです。
旅を終えた今、強く感じるのは、イラン人の我々に対する好意を片思いに終わらせてはならないということです。どうしたらよいのか?少なくともできるだけ多くの人たちがイランを訪れ、肌で感じて欲しいと思うのです。

S_47 メフラーバード国際空港からテヘランの市街の方を見ると3000m級の雪を頂いた山々が目に飛び込んでくる。イランは山の国でもあるのだ。


S_48
テヘランの北郊に位置するメッラット宮殿(白い宮殿)前で子供たちに写真を撮れとせがまれる。
パフラヴィー2世の7mに及ぶ巨大な銅像が建っていたが、イスラム革命時に破壊され、足だけが残された。子供たちは全く屈託が無く、元気一杯だ。

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