カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2009年8月17日 (月)

黄花コスモスが咲いている...愛知牧場の季節の花畑迷路

数日前のNHKの天気予報のコーナー(全国版)で愛知牧場の黄花コスモスが満開だと紹介があったので、昨日、見に行ってきた。
天候不順のせいで早まったようなことを言っていたが、本来、早咲き種だから不思議ではない?...しかし、去年も愛知牧場で見た覚えがあるので、調べてみると、11月2日撮影の黄花コスモスの写真が残っていた。蒔き時にもよるけれど、やはり今年は早すぎる!

黄花コスモスは通常のコスモスとは同属異種の関係であり、交雑はしないようだ。名前は同じコスモスでも、花色、質感はまるで違う。どちらが好きかは人それぞれだろうが、私はこの重々しさが好きだ。
黄花コスモスの本来の色はどういうものか知らないが、愛知牧場で見られるのは99%、黄色というよりオレンジ色に近い。しかし、よく観察すると、〝朱色〟や〝純粋な黄色〟の花弁も混じっている。
赤の園芸品種としては〝サンセット〟、黄色は〝コスミック・イエロー(タキイ)〟という素晴らしい花があるようだ。

Photo_2コスモス畑の遠景
全て黄花コスモス。迷路になっていて、遊びながら鑑賞する趣向だ。


Photo_3Photo_4




Photo_5   
迷路の入り口(有料です)







Photo_6Photo_7左は、赤いキバナコスモス。右は黄色いキバナコスモス。




Photo_8孤独な向日葵...黄花コスモスの中に、ポツンとひとつ。




Photo_9蝶もコスモス色。風が吹いてきて、うまく撮れず。




Photo_13牧場の風景。
牛が沢山いるけれど、あまり撮る気がしなかった。


Photo_10Photo_11乗馬クラブの厩舎を覗いてみた...




Photo_12トラクターの運転は女性。よく働きます。
 



S愛知牧場のヒマワリ。7月24日撮影 




S_2ヒマワリと子供達...トンボを追いかけている。

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2009年4月25日 (土)

ノリタケの森の鯉のぼり/ミヤコワスレが咲いた

昨日、友人に誘われて名古屋駅近くの「ノリタケの森」へ鯉のぼりを撮りに行った。メディアで紹介があったようだ。
近くの小中学生などが作ったというだけあって、親しみの湧く姿の49匹の鯉のぼり。ちょっと風が弱かったが、名古屋駅前の高層ビルを背景に気持ちよさそうに泳いでいた。

Dsc_3663sS 




Dsc_3658sS_2右写真の鯉のぼりに「なごの(那古野)小」「祝100周年」「おめでとう」と書かれている。 







S_3美しいノリタケの森をバックに結婚記念の写真撮影中の二人。



昨夜来の雨で、我が家の「ミヤコワスレ」が花を開いた。水玉が付着して美しかった。目をこらすと、水玉に庭の風景が写っているの見えたが、そこまでの接写は風もあるし、困難でした。
R0015070sR0015073ssメインカメラはニコンのD300を使っているが、これはリコーGX100で撮った。これのマクロ機能はとても便利。 



ミヤコワスレと対照的な色彩のポピーです。
Dsc_3606s
最近、何処にでも雑草のごとく生えている。これは花壇のもの。



チューリップも。これは鶴舞公園の陸上競技場にて。
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S_4ところで、これは何でしょうか?
高さは1mぐらいはある。多分、花だと思うが?

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2009年4月 1日 (水)

名古屋城は三分咲き...能楽堂の庭園は満開そして本日散り初め

30日の月曜日にいつもの飲み仲間で名古屋城へ花見に行った。未だ三分咲ほどだと言うことは分かっていたけれど、仕事の都合でそうなった。この仲間は花よりも、飲んで話が出来れば、それでよいのだ。

今年は開花が異常に早かったが、その後の冷え込みで進展がこれまた異常に遅い。そして木によって進み方がマチマチなのが面白い。気の早い?いや、多分暖かい場所だからだろうが、満開に近い木もちらほら見かける。
たまたま、名古屋城でみんなに落ち合う前に、名城公園の一角にある能楽堂の庭園に行ってみると、大きな桜がものの見事に満開になっていた。ソメイヨシノだと思うが違うだろうか?庭園には噴水もあり、よく観察すると、午後の傾きかけた陽を浴びて〝虹〟も出ていた。しかし時間が無く、じっくり写真を撮っている時間が無く残念だった。
名古屋城内で一杯やった後、みんなを能楽堂の方に連れて行き、花見の口直しをしました。その頃には薄暗くなり始めて、あの華やかさがかなり失われていましたが、それでもみんなは喜んでいました。

二日後の今日、用事があり名古屋に出たが、どうしてもあの能楽堂の桜が気になり、もう一度見に行きました。何度見ても素晴らしい。残念ながら陽が翳りだし、虹は見られなかった。しかし、思いがけないものを見た。花びらが舞っている!
噴水仕掛けの一部になっているささやかな水の流れに沿って散り落ちた花びらが波模様を描いていました。それが面白いのか、幼い女の子がじっと眺めていました。

Photo能楽堂の前に「彫刻の庭」というのがあり、大きな桜が数本ある。
これは本日(4月1日)の映像



Photo_2桜の木の下に親子が寛いでいた。




Photo_3桜と噴水と虹(3月30日撮影)
背景の建物が能楽堂



Photo_4Photo_5



散り初め(4月1日撮影) 
名古屋全般としてはまだ、五~七分咲きぐらいだというのに!


PhotoPhoto_2左はこの木の花弁のアップ。ソメイヨシノのように見えるが?
右は名古屋城内で見つけたオオシマザクラ
ソメイヨシノはエドヒガン系のコマツオトメとオオシマザクラを交配したもの。

   ☆      ☆     ☆

以下は3月21日に庄内緑地公園で撮った〝菜の花〟です。
春の到来はいろんなところで感じられますね。

Photo_6土手の上と下の人の配置のおもしろさを狙いました。




Photo_7Photo_8この公園にはかなり長大なサイクリングコースがある。プロっぽい人も、普通の親子も、みんなとても楽しそうだ。

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2009年3月 1日 (日)

名古屋市農業センターの枝垂れ梅が満開...いつもよりかなり早く

名古屋市農業センターでは700本の枝垂れ梅が満開だ。今年はかなり季節の進行が早く、私が行った2月26日には完全満開、一部花びらが散り舞っていた。イベントとしての「枝垂れ梅まつり」は例年通り2月28日~15日に設定されているが、まだ見ていない人は急ぐべし。
梅はどう撮ればいいのだろうか?なかなか難しいですね。とりわけ枝垂れは見た目は美しいのだが、写真にしようと思うと、どう構図すればいいのか分からない。
とりあえず言い訳した上、何枚か掲載しましょう。

Photo_2Photo_3農業センター構内の様子
枝垂れ梅に埋まっている



Photo_4 これが今回のベストショット




Photo_5Photo_6菜の花はほんの少しだけ




Photo_7Dsc_2510 



 



Photo_13Photo_14左は〝万作〟 と〝枝垂れ梅〟の競演
右は〝蝋梅〟と〝梅〟(こんな写真ってありか?)


Photo_9Photo_10水仙の背景のピンクは枝垂れ梅 だ




Dsc_2559Photo_11梅の花の蜜を吸いにメジロがたくさん群がっていた



Photo_12メジロだけでなく飛行機も

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2009年1月 6日 (火)

明くれば丑年...今年もよろしく

年末に、馴染みの店におせち料理を仕入れに行ったら、おばさんが「1年間ありがとう」と言って、牛の置物をくれた。そうか2009年は丑年だったか。「私は丁度12年この店にいるから、十二支揃っているんですよ」と、彼女は笑った。
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牛の置物



今日(6日)のNHKトップニュースは、〝飛騨牛のルーツ「安福号」のクローン牛誕生〟だった。超良質の肉を持つ牛を安定的に造っていくことができると言う。
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愛知牧場の仔牛(クローン牛とは関係ありません)



古代エジプトには〝アピス牛〟というのが居た。聖牛としてメンフィスの神殿に一定期間飼われ、人々の信仰を集めた後、ナイルに沈められた。三日月型の角の間に満月を頂く彫像も造られて今日に残っている。
エジプトに限らず、牛の角は月に見立てられることがしばしばだった。月は満ち欠けするので、死と成長のシンボルであり、女性の月経をも象徴する→豊穣→農耕儀礼用の聖獣へ→家畜化...という説も一時となえられた...
Apis



川の中にも〝聖牛〟が居る。と言っても生き物ではなく、川の流れをコントロールする木で出来た造作物である。太い丸太で三角錐や四角錐に組み上げ、足下には大きな土石を置いて固定する。武田信玄が創案した伝統的水防工法だが、平成18年に笛吹川で新規に設置された...(画像こちら→

ピンクフロイドのファースト・アルバム〝原子心母〟のジャケットはホルスタイン牛...
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我が家にある〝カウ・パレード〟には、ネコちゃんが描かれている...
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だんだん怪しくなってきたからこれくらいで。

《今年の撮り初め》
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1月2日熱田神宮にて
三が日の初詣客は235万人


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大須招き猫広場の今年初?の大道芸



今年もよろしくお願いします。

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2008年5月 4日 (日)

ケツァルコアトルス!?...「世界最大の翼竜展」を見る

名古屋市科学館で開催されている「世界最大の翼竜展(2008/3/20~6/15)」を見た。
恐竜展はしばしば行われているが、翼竜だけ集めて展示するというのは珍しいのではないか?この企画展は、北九州市(2007/7)が皮切りで、大阪、長崎、名古屋、最後が東京である。したがって、ブログネタとしては新奇性はないけれど、一応記録しておくことにしました。

カタログによると110点あまりの出品のうち、中国のもの、個人所蔵のものが数点あるだけで、ほとんどが日本国内の博物館の所蔵品である。もっとも半数は複製品だが。
今回、認識したことの一つは、翼竜というものが随分たくさん見つかっているという事実だ。種類も、数も。
翼竜が最初に報告されたのは1781年で、その後続々発見され、現在60属を数えると言う。世界最大の翼竜〝ケツァルコアトルス〟は1971年に初めて見つかった。まだ新参者だ。

翼竜は恐竜の一部かと思っていたが、正確には恐竜と同じ祖先から進化した爬虫類なのだという。
翼竜の翼は、前脚の薬指がとてつもなく伸びて体側との間に膜が張ったものだ。コウモリでは4本の指が伸びて翼膜を支えているところが違う。薄っぺらで頼りなく見える翼膜は実際にはかなり丈夫に出来ていたらしい。

翼竜は地上では4足歩行していたという。翼を二つに畳んで歩く姿は何となくユーモラスだ。展示場にはズンガリプテルスの歩行状況が足跡も添えて再現されていた。

〝ケツァルコアトルス〟は、翼長10m、肩までの高さは2.5m。キリン並みの大きさだが、体重は軽く、70kgぐらいだったとか。飛行速度は時速50~60km。上昇気流により舞い上がり、主に滑空していた。何週間も飛び続けることが出来たかも知れないという。史上最大の飛行生物とされるが、もっと大きな翼竜が居た可能性もあるという。

翼竜は概して鳥より体重あたりの翼面積が大きく、また、翼被膜には血管と筋繊維が葉脈のように張り巡らされ、被膜を微妙に動かして飛行をコントロールしていたようだという。そのため、翼竜の脳は視覚や運動機能・バランスを司る部分が異常に発達していたことも分かっている。要するに翼竜の飛行能力は非常に高かったのだ。プテラノドンなどは、海岸から数100km離れた海洋の真っ直中の沖積層から見つかることが多く、そのことを証明している。

Photo翼竜展のカタログ表紙を飾るのが〝ケツァルコアトルス〟の飛翔姿。


Photo_2〝ケツァルコアトルス〟の地上での姿。美しいイラストだ。



Photo_3これが展示されている〝ケツァルコアトルス〟
二段重ねで、上に復元モデル、下に全身骨格。
コンパクトカメラしか持ち合わせていなく、大きくて撮影が難しかった(撮影はOKだ)。

Photo_4Photo_5 翼竜でもっとも名が知られているプテラノドン。このトサカがいい。ものものしさと、ロマンが同居している感じ。他にも特異なトサカ形状を持つものが多くいる。


Photo_6Photo_7ズンガリプテルスの歩行姿再現。足跡化石も見つかっている。



Photo_8Photo_9ランフォリンクスの全身骨格化石と復元模型。




Photo_10Photo_11左;トゥプスクアラ 薬指がとてつもなく長くなり、翼の支えとして機能していることがよく分かる。 
右;アルハングエラ


Photo_12プテロダウストロの全身骨格。




Photo_13Photo_14左;プテロダウステロの頭骨 1000以上の櫛状の歯を有し、フィルターのように使ってプランクトンを濾しとって食べた。
右;ハーパクトグナトゥスの頭骨 鋭い歯を持ち、魚を捕らえて食べていた。

会場には実にたくさんの標本が丁寧な説明と共に展示されている。ここでは、重要度などまったく無視して、うまく写真に撮れたものを主体に紹介した。
興味のある方は是非、展覧会へどうぞ。大人でも見応えがあることは保証しますよ。

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2008年4月24日 (木)

栄界隈ぶらぶら歩き...春姫道中など

暇をもてあますとぶらりと街へ出る。
名古屋は近年名古屋駅前の発展が著しいが、ゆったりと時間を過ごすには、昔も今も栄地区の方が適当だ。ファッショナブルなビルがたくさんあり、素敵な女性も多いというだけでなく、ここには久屋大通やオアシス21など公園的要素がたっぷりあるから。乗ったことはないけれど、栄交差点の一角には大きな観覧車まである。

日曜日には結構、イベントもやっていて、写真ネタにも事欠かない。
お昼過ぎ、地下鉄を降りて、地上へ出ると、栄交差点は大勢の人たちで取り囲まれていた。ちょうど「春姫道中」の行列が通過するところでした。
もう名古屋の人にはお馴染みになっているが、名古屋城開府400年(2010年)を記念して本丸御殿を復元しようと世論を盛り上げるための市民団体による示威活動ですね。
200人以上の行列参加者は公募で選ぶというのはユニークです。今年の春姫役はなかなか良かった。
この行列は、徳川義直の正室となった春姫の嫁入りの模様を再現したものだという。行列の終点の名古屋城に到着すると、春姫が「御殿は何処じゃ!」と叫ぶのです。
今年は名古屋市長が返事をした...そのやりとりが asahi.com に出ていました(→こちら参照)。
この義直と春姫が名古屋城御殿の最初の住人だったことに因むイベントなんですね。蛇足ですが、この春姫の嫁入りが名古屋の豪華な結婚式のルーツらしい。
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4月20日 
春姫道中の主役


Photo_2行列要員は、募集要項によると、男女それぞれ100人。そのほかにスタッフ100人。参加料5000円/人。




以下は、最近、栄界隈で撮ったスナップ写真です。

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3月16日、久屋大通の大噴水前にて。
オアシス21でイベントがあり、出演者がこんな所で調整しているのでした。ほとんど誰も見ていないのがおかしかった。

0304以下は4月23日撮影。
美しい女性達はファッショナブルな街並みの必須の要素。







Photo_5 こんなメインストリートにお寺があるんですね(南大津通)。 



0325_2桜通の陸橋からの眺め...舗道の色が独特。




0333
大噴水前で本を読む人、打ち合わせをする人...



0317〝猫&アンブレラ〟...人は?読書中でした(女性)。
野宿する人だろうか?みなりは小綺麗でしたが。



SPhoto_6テレビ塔北側にはシャガが 一面に咲いていました。私の好きな花の一つでもある。
アヤメ族の中ではもっとも早咲きだ。季節が確実に進行していることを実感します。

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2008年3月24日 (月)

当地(春日井)の桜も開花寸前!

22日に名古屋の開花宣言があったようだが、尾張平野の北端に位置する当地春日井市は例年通り3~4日は遅れるだろう。
今朝のウォータンの散歩は雨の中、きやつはレインコートで完璧に身を固めているからいいのだが、私は結構濡れてしまった。しかし、ちっとも冷たくはない。暖かく柔らかな雨だ。
散歩ルートのあちこちにある桜がつぼみを大きく膨らませて赤いものものぞくようになった。もう時間の問題だ。
桜を待つこの気持ち、独特のものがありますね。
まもなく、友人達から花見の日程を伝えてくるでしょう。28日は定例の写真教室の日だが、名古屋市内の庄内緑地公園に桜を撮りに行くことになっている。それから、今年は是非、京都の桜の名所を訪ねたいと思っている。忙しくなりそうだ。

これが本日の当地の桜の状態です(24日11時am)。
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肝心のつぼみにピントが合っていない。



以下は、近くの公園でのスナップです(22~23日)
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寒緋桜(カンヒザクラ)がその名の通り緋色の花を枝いっぱいに咲かせていた。


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元気いっぱいの子供達。全身濡れねずみになって水遊びする子もいた。


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木登り娘。ボールが木に引っかかった。
石をぶつけたりしたが落ちてこない。しばらくすると若者が通りかかり、木に登って二人で揺すり落としました。

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2007年10月22日 (月)

「おいらん道中」再現!...大須大道町人祭

私は名古屋近郊に住みながら、名古屋の行事にはかなり疎い。近すぎて関心が湧かなかったのが原因のひとつでしょう。
「大須大道町人祭」が今年、30回を迎えるというのにまだ一度も見ていなかった。この20、21日がそのメインの日だということを骨董市へ行った時に知った。これも何かの因縁と思い、ほかに用事もあったが少しだけ覗いてみることにした。

この祭りは一口で言えば大道芸の祭りである。今年は、二日間で50組250人もの大道芸人が全国から参加したとのこと。
「舞台の上ではなく、大須の町中の路上に芸能を散りばめ、あちこちで笑いの渦を起こし、時には見てはならぬものを見てしまったあやしげの想いを抱かせる芸人達のワザ...まさに芸人と庶民が一体となって創りあげる祭り...(ガイドブックより)」

この祭りのもう一つの呼び物は「おいらん道中」です。一般公募で選ばれた女性達が艶やかな花魁のふん装で登場し、傘持ちやお供の男衆、禿(かむろ)、新造を引き連れて街中を練り歩くのです。
花魁とは江戸時代の吉原遊郭の中の位の高い遊女のことで、客に呼び出されて遊女小屋から茶屋まで着飾って高下駄を履いてシャナリシャナリと歩いていく...何とも言えぬ優艶さを漂わせて...これが花魁道中ですね。
大須は元は寺町で、寺参りの人たちのために芝居小屋などが出来てある程度賑わっていたが、明治になって大須観音の裏に遊郭が出来たのを契機に一大繁華街になり、大正時代に遊郭が移転するまでその大賑わいは続いたとのこと。
この往事の賑わいを取り戻そうと願って、「おいらん道中」を祭りの出し物にした、とガイドブックに書かれている。

私は20日(土)のお昼過ぎ、オープニング後間もない頃に行ったのだが、もう凄い人波だった。東西に長く延びる二本のアーケード通り(万松寺通、仁王門通)の50m間隔ぐらいで大道芸人達が店開きしていて、その周りにはぎっしりと人の輪。見るだけならいいが、写真を撮るのは容易でない。各ポイントは時間刻みで芸人が変わるので、入れ替わりの休憩時間に場所取りすればよいのだが、私には時間が無い。おいらん道中の行列も見なければならないし。
そういうわけで写真は僅かしかないが、一応掲載しておくことにしましょう。

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少女達は踊る。若さに圧倒される。
このほかにもストリートダンスなどもあったようだが?

PhotoPhoto_2
「東京マッド」の体当たりパフォーマンス。






Photo_7Photo_8 
男女ペアジャグラーの「プーリィ・ウーリィ・カンパニー」と、チャップリンの即興パントマイム「チャック」
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「ちんどん通信社」は音が魅力。


Photo_15
「アルカマラーニ」のベリーダンス。カメラを高く差し上げて盲滅法シャッターを切った。


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このカウ・ボーイはなんだろう。通行人に紛れていたが?
七味唐辛子売りは口上が面白い。がまの油売りもいるはずだが、見られなかった。




Photo_28Photo_29Photo_30   
「火付盗賊」のファイア・ダンス。


Photo_31Photo_32Photo_33   
このまつりは、文句なしに子供達にも楽しめる。





以下は「おいらん道中」
Photo_18Photo_34
これが花魁(おいらん)。お供の男衆に手を預けている。


Photo_21Photo_22   

禿(かむろ=遊女見習い中)





Photo_26Photo_27 
このとおり通路は人でいっぱい。
おいらん宿と書かれたところが行列の拠点。

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2007年10月20日 (土)

大須観音骨董市で遊ぶ

名古屋の大須観音では毎月18日と28日に骨董市が立つ。そのことに意識もなく、ふらりと大須に寄ったら、門前からいろいろな店が並んでお祭りのような雰囲気。境内に入ってやっと骨董市だと気がついた。
午前中だったがもうたくさんの人たちが、掘り出し物を求めて真剣なまなざしで品定めをしている。私はちょうどいいからスナップ写真を撮ろうと人並みの中へ...しかし、面白いモノがいっぱいあるので、引き込まれて写真どころでなかった。

ところで、「骨董」とは何か?意外と定義が難しいようだ。
語源としては、平凡社の百科によれば、『明代の文人董其昌の《骨董十三説》に,骨董と呼ぶべきものとして金,玉,書画墨跡,石印,鐫刻(せんこく),窯器,漆器,琴,剣,鏡,硯(すずり)などがあげられており,日本で用いられてきた骨董の語もおおよそこの意味に沿いながら,日本的に変容されたものというべきであろう』と、ある。
日本では古来、美術品といえば茶道具であり、骨董といえば古器類を指していたようだ。その後いろいろな道具類も含められるようになった。
しかし明治以降、西洋美術が入ってきて以来、骨董の位置づけがおかしくなってきたのだ。西洋では絵画が一番上で彫刻、版画、工芸と順位が下がるのだ。
「書画骨董」という言葉も使われるようになったが、この場合、書画=美術、骨董=非美術ないし亜美術という感覚なのだ。日本の伝統から言えばこれはおかしいのではないか、と平凡社の百科は指摘している。

ちょっとくどくなったが、大須の骨董市に並べられているものを見ると、骨董という言葉の揺れが改めて確認できました。
一点36万円の歴史のありそうな「ひょっとこのお面」から、200~300円のちょっと古くなっただけの玩具までが並んでいるのです。
講釈はこれくらいにして、どんなものがあるか、写真でとくとご覧あれ!

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大須観音本殿から骨董市が行われている境内を見る。



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これは逸品だと思う。



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この九谷買おうよ!



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アクセサリーになりそうな小物を探す女性達。



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男の見るものは。



Photo_6Photo_7 
懐かしいラジオ。我が家にもあったなあ。真空管がちゃんと着いていた。
このロボットのレトロな味は堪らない!

Photo_8Photo_9左は昔の道具類。何に使うのかよく分からないものも。
右は何か由緒のあるブロック。この人達が購入したようだ。





Photo_10Photo_2雑貨のオンパレード。
こんなミニ人形も古くなれば価値が出る。






Photo_11Photo_12熱心に古銭をチェックしている人。
誰も見向きもしない鎧武者人形。



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店番はおねむです。



6チベットの秘蔵の小物。ガラス箱の中は高額品ばかり。最高60万円也。100万円以上のものは店にありますとのこと。



Photo_3私が一番欲しかったものは、この中央の「ひょっとこのお面 」 。お値段は36万円でした。



Photo_4Photo_5Photo_6カメラのブースも幾つかある。二眼レフには久しぶりにお目にかかった。独特の形がいい。

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2007年10月15日 (月)

名古屋まつりのパレードを撮る

名古屋まつりのパレードは13、14日の二日間にわたって行われた。13日の見物人は36万人とのこと。私が出かけた14日はどうだったろうか。
私としては10年ぶりぐらいだ。どんなものか予想が付くこともあって、最近は足が遠のいていたのだが、今回は写真を撮るという目的があったのです。

名古屋の人には説明不要だが、ブログは全国区だから少しばかり内容を記しておこう。
「まつり行列」は例えば、名古屋の中心、栄交差点では11:30頃から14:30ぐらいの約3時間の間に、ほとんど切れ目無く数多くの行列が続く。大きくは6種類で、①山車揃え、②神楽揃え、③子供会みこしパレード、④姉妹友好都市親善パレード、⑤フラワーカーパレード、⑥郷土英傑行列である。実際にはそれぞれにブラスバンド、鼓笛隊、踊り衆などが付随していたりするので、とても長大なものとなるのです。

最大の呼び物は「郷土英傑行列」。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がそれぞれ鎧武者や足軽隊など、総勢700人を従えて練り歩く。栄地点などでは、戦闘場面を再現したアクションを演じてくれたりする。
戦闘場面では白煙筒による煙が充満した緊迫した雰囲気の中で、鉄砲隊の一斉射撃や殺陣が繰り広げられる。戦闘員のアクションがとてもキビキビしていると思ったら、陸上自衛隊員が200人も参加していると、紹介があった。

「山車揃え」も大いに注目に値します。通常はそれぞれの祭事に使われものが、この際、一挙に見られるわけだから。参加するのは9台。このうち3台は1600年代、5台は1800年代に制作され、長い時を越えて受け継がれてきたものだ。

この二つは是非見たかったので、結局、最初から最後まで付き合うこととなった。
以下、写真を見てください。(姉妹友好都市親善パレードは昼食で見逃した)

Photo06410646 左から、紅葉狩車(1818~30)、鹿子神車(1674)、神皇車(1824)。



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Photo 山車は栄に集結。順次からくりの演技を披露した。



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見物客の様子。赤ちゃんには退屈だろうね。






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ブラスバンドのチューバに注目。バンドメンバーの写像が見える。

Photo_7Photo_8子供の鼓笛隊もある。 





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フラワーカーパレード。麗しいミスがほほえむ。



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三英傑。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。


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それぞれに奥方や、お犬様が付き添う。


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鉄砲隊。対峙して打ち合ってみせる。


 
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戦闘シーンおよび殺陣。アクションもかっこよく決まっている。


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英傑行列の合間に現れた沖縄の踊りグループはとても魅力的だった。


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あちこちの会場でいろんなイベントが行われていたが、行列が終わった後に久屋大通の会場を通りかかると、ゴスペルグループが出演していた。

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2007年10月10日 (水)

名残の夏...賞味期限が切れないうちに!

撮影済み写真が増えてどうしょうもない。
デスクトップに撮影日付が付いたファイルが30余りも並んでいる。だんだん鬱陶しくなってきた。カメラの記憶メディアから一応選抜しているので、各ファイルは20~30枚程度だ。出来の良い写真は少ないから、さらに整理できるはずだけれど、時間がもったいないし、愛着もある。
パソコンは買い換えたところだからハードディスクには十分余裕があるのだけれど、このまま行くと末恐ろしい。順次、DVDに移しているのだが、それも面倒くさいので、外付けハードディスクを導入することにした。
結構、古い写真を見たり、使用したりすることがあるから、その方が良さそうだ。最近は何でもUSB接続できるから手間暇はいらない。

一気に秋が来て、賞味期限が切れそうな写真を急いで何枚か掲載します。出不精で遠出はしないから身の回りの写真です。

PhotoUfo東谷山フルーツパークの釣り池。噴水がとても美しい。UFOのように姿を変え、釣り人の目を楽しませる。
(10月6日 NIKON D80)


Photo_3Photo_2落合公園の池で男の子達が大騒ぎしていた。橋の上から一人飛び降りてしまった。
(10月9日 Caplio GX100)






SPhoto_4Photo_5
これも落合公園。水辺は子供達の天国だ。(9月18日 Caplio GX100)

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フルーツパークでは、この日イベントがあり、大道芸人がなかなか素晴らしい技を披露していた。これは5本の火の着いたトーチでお手玉。(10月6日 NIKON D80)


Photo_8Photo_9露店のひとつに蜂蜜のコーナーがあり、ミツバチの巣箱と天敵「大スズメバチ」のサンプルが展示されていた。
「坊や!それ何の葉っぱ?」

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2007年10月 7日 (日)

「あいちのかおり」収穫中!/案山子は美人だった

高蔵寺ニュータウンの周りは家が増えたが、少し離れるとまだまだ田園が残っている。久しぶりに稲田の道を車で通過したら、あちこちで収穫が行われていました。
カメラはリコーのCaplioしかなかったが、とりあえず何枚か撮影したのでブログに載せておきましょう。
収穫作業中の農家のヒトに聞くと、「今年はできがいい」と、にっこり。品種は何ですか?と聞くと、「“あいちのかおり”じゃ、コシヒカリ、あきたこまちの次ぐらいにうまいぞ」との答え。
私の家は、もう十数年来、“あきたこまち”だった。惚れ惚れするほど見事に実った、黄金色の稲穂を眺めているうちに、何故ほかの県の米を食べるんだ、これを是非食べなくっちゃ、と思い直したことでした。

ところで愛知県ではどんな米が作られているのか?この答えは「春日井市立神屋小学校のホームページ」を見るのが早い。あいちのかおりが35%、コシヒカリが27%、祭の晴が14%...の順だそうだ。地域分布図も出ていて、とても興味深い。
PhotoPhoto_2Photo_3 
収穫作業は大変ではありましょうが、農家の人たちはみんな表情がとても明るい。
写真も気持ち良く撮らしてもらえた。





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同じ場所で、彼岸花、コスモス、すすきが見られるのは贅沢だ。
以上、すべてリコーCaplio GX100で、10月7日撮影。

この付近では本格的な案山子は少ないようだ。あまり鳥たちに効果がないからだろう。光るテープやカラスの死体を模擬したと思われる黒いビニールの切れ端は至る所で使われている。そんな中でユニークなのをひとつ見付けたので、ここに載っけておこう。
ネットを調べてみると、案山子の写真のギャラリーがあった。ちょっと古いけれど、面白いものがたくさん紹介されている。しかし、こんなのは無い。最新型だろうか?ひとつは道路をむいて立っているのは、鳥よりも我々に見てもらうことを想定している?
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この写真のみ9月6日、ニコンD80で撮影。
勝手に美人案山子と呼んでいるのだが!?

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2007年7月 4日 (水)

ルリタマアザミの色彩

久しぶりに市の植物園へ行ってみた。梅雨の晴れ間、と言ってもどんよりと曇っていてとても蒸し暑い。それでも日曜日だったから家族連れが沢山来ていた。
予想通り、花は少なかった。薔薇や菖蒲が僅かに残っていて何とか植物園の面目を保ってる。花壇もそれなりに花物が植えられている。そんな中にひときわ目立つ紫色のボールのような花を見つけた。にわかには名前が出てこない。後で調べると「ルリタマアザミ」だった。色も形も良いからしばしばドライフラワーにされる花だ。

ところで、色彩について語ることは結構、難しいことらしい。
この花にしても、私には紫と見えたが、百科事典や花の専門書などでは青、あるいは淡青色と紹介しているものが多い。
それでは「るり=瑠璃」とは?広辞苑では「青色の宝石」となっている。しかし同じ広辞苑の「瑠璃色」は「紫を帯びた紺色」となっている。
確かに遠くからこの花を見つけた時は、珍しく青い花があるぞ!という感覚だった。でも写真を撮ってみるとこの通り、紫と言う方が近い。
もっとも、色彩感覚は個人差があるから、この写真でも紫でなく青に見える人もいるかも知れない。

それからもうひとつ問題があります。パソコンの液晶モニターで見るのと、写真プリントでは色彩が大きく異なることがよくあるのです。これにはいつも悩まされる。モニターで見てこれは綺麗だと、喜んでプリントしてみると、期待はずれ、ということが多い。
概して、液晶モニター(三菱製使用)の方が綺麗だと思いますが、それもメーカーによるかな?
したがって、モニターとプリンターの色合わせをしておくべきなのですが、面倒くさいのと、合わせるとすればモニターを調整してプリンターに合わせる事になるらしいから、折角モニターが美しく見えるのにもったいない気がするのです。
(モニターの調整はアドビガンマというソフトを使う。モニター購入時に調整した覚えがある)

結局、私もそうだが大抵の人は、モニターの色、プリンターの色、現実の色・・・が三者三様になっているのです。
しかしながら、現実の色を再現すると言っても、感覚の世界だから厳密にこれだ、と言えるようなものはないというのが本当のことでしょう。だから、写真プリントでも、あまり悩むことはなく、自分の思うとおりに仕上げればいいのだ、と割り切っています。
598s
何色に見えますか?
よく見ると、てんとう虫や蜂が沢山潜り込んでいます。
一生懸命の姿が、とてもいとおしい。

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2007年5月27日 (日)

イラン旅行の印象その13 続ヤズド(カナート、金曜日のモスク、アミール・チャグマークなど)

ヤズドは2回にまたがることになったが、それだけ印象が強かったということでもある。先ず、このような乾燥地帯に緑豊かな都市があること自体が不思議な気がするのだ。

《カナート~バードギール~裏道探索》
ヤズドの存在はカナート抜きには語れない。砂漠の辺縁部にあるヤズドに水を供給するため、山岳地の伏流水を延々と地下道を掘って導く、それがカナートである。
カナートによる水供給システムは世界の乾燥地に広まっているが、起源はイランである。前8世紀にまで遡れるようだが、本格的に普及したのは、前6世紀のアケメネス王朝時代らしい。カナートとは要するに地下トンネルだから掘削には技術と人手、従って膨大なお金が掛かるが、イランではカナートの持ち主は毎年、建設費の25%の純利益が得られるがゆえに、多くのカナートが造られたという。東イランには70kmに及ぶ長大なものもあるそうだ。
ヤズドのカナートの例をマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)の中庭で見学できた。暗く長い階段を30mの深さまで下りるとカナートに到達した。小さなテラスが円形の水槽を囲むような形になっているが、これは礼拝の前に身を清めるための施設であったようだ。
なお、カナートで街中へ運ばれた水はアーブ・アンバールと呼ばれる本格的な地下貯水槽で蓄えられ、上部には大きなドームとバードギールという風採りの塔が備えられるという。これで水を冷却するのだ。(なお、現在はカナートはほとんど使われておらず、水道に置き換わっているようだ。)
0597s0596s0594s








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金曜日のモスクを見た後、周りの裏道を散策した。バードギールが幾つも見られた。ヤズドの街のシンボル的存在である。天然クーラー。




0608s0602s0609s「金曜日のモスク」の裏通り点景。   
中央の写真はある家の玄関扉。男女別にノッカーがついている。左が男性用。右が女性用。違った音が出るようになっている。訪問客が女性なら、中の女性は身構えなくてもよいが、男性客の場合、中の女性がキチンと身づくろいしてから扉を開けるのだそうだ。
この狭い路地にナン屋があった。夕食用だろうか、とても忙しそうだった。作り立てを試食する。

《マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)》
ササーン朝のゾロアスター教寺院の跡地に、14~15世紀に建てられたモスク。ドームはササン朝時代のもので1750年も経っている。イラン一高いという、56mもあるミナレットが特徴的。さらに、正面入り口やドーム内のタイル細工は素晴らしく美しい。イスラム建築の傑作のひとつと言われる。
0575s0578s0585s0583s0584s    



縦長写真の右端は、ミフラーブ。モスク礼拝堂の四壁のなかで,とくに聖地メッカの方向に面する側の内壁に設けられるアーチ形の壁龕(へきがん)のことである。モスクの中核施設。
とにかくタイル・ワークが素晴らしい。ドーム天井は思わず息を飲むほど。夕方のため、写真には撮りづらかった。

《タキイエ・アミール・チャグマーク》
アミール・チャグマーク広場の前に建つ、寺院とバザールほかの複合施設である。15世紀の建築。2本のミナレットを持つ建物は優美。
ミナレットの下のアーチの立派な入り口を入るとバザールになっている。建物右側に見える大きな木製の構造物はいわば御輿(みこし)のようなものでナフルと呼ばれる。この地はシーア派12エマーム、ホセイン(預言者ムハンマドの孫)の縁の地であり、彼が殉教したイスラム暦の1月には、このナフルは黒い布や鏡で覆われ、人々は彼の死を悼むのだそうだ。
建物の前の広場に眼を向けると、楽しそうに寄り添う若い男女のペアーが何組も見られた。その向こうのメインストリートには市民や車が溢れ、都市としての活気が感じられる。街路樹のボリューム感ある濃い緑を見ていると、ここが砂漠に隣接する都市だとはとても思えない。
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《キャラバン・サライ》
沈黙の塔を訪れた際に、途中でキャラバン・サライに立ち寄った。シルクロードにおいては30kmごとに設置されたという。機能としては純然たる隊商宿として商人、巡礼者、一般の旅行者を泊めるもののほか、バザールに隣接させて倉庫や事務所、商品取引所を兼ねるものもあったようだ。
ここの場合、強盗に襲われないよう、宿泊施設は城壁で囲まれていた。また、当然のことながら、水供給のためのカナートもあり、その痕跡を見ることが出来た。
バスで走行中、ピスタチオの畑を見つけ、わざわざ停車してもらい写真を撮った。こんな大きな木に生るものとは知らなかった。最終日、イスファハンで1kg購入。ビールのつまみに最高です。
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ヤズド郊外のキャラバンサライ址



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ピスタチオの木

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2007年5月21日 (月)

イラン旅行の印象その10 世界遺産ペルセポリス

10日目、シーラーズから北57kmにある世界遺産ペルセポリスを訪れた。このツアーのハイライトでもある。
ペルセポリスは言わずと知れた古代ペルシャ帝国の王都である。それでは、そもそもペルシャ帝国とはどういう帝国で、ペルセポリスの位置づけは?

イラン族の祖先は騎馬遊牧の民で、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人の一部であった。イランという言葉も「アーリア」から来ているという。紀元前1000年紀に北方から南下してイラン高原に広がり、次第に農耕化により定住するようになった。
このイラン高原への流入は三つのグループに分かれて行なわれた。北西部にとどまったメディア人と南部まで深く侵入したペルシャ人(これらは西イラン族とも呼ばれる)、それにはるか東の方に進出した東イラン族である。イランの歴史・文化に大きな役割を担っているのは、西イラン族であり、とりわけオリエント世界を2度にわたって統一したペルシャ人である。
ペルシャ人によるアケメネス王朝が確立したのは、彼らがイラン高原を南下中の紀元前700年ごろのことである。キュロス2世(前559-530)になって、それまで従属していたメディア王国を打倒し、イラン族の代表の地位を確立した。
その後、キュロス2世始めアケメネス朝の各王が、リュディア、バビロニア、エジプトなどを次々と征服し、古代オリエントを統一した。しかし、エジプトなどの反乱もあり維持が難しかったが、ダレイオス1世(前522‐前486)は反乱を鎮圧し再統一すると共に、リビア、トラキア、マケドニアを従属させ、インダス地方にまで進出し、ここに領土は最大となり、大ペルシャ帝国が実現した。
ダレイオスの功績は,征服よりも組織者としての仕事にあると言われる。それは、新都ペルセポリスの造営であり、さらに様々な施策による中央集権体制の確立であった。その結果、その後2世紀にわたる安定した帝国運営が実現したのだった。

ペルセポリスの位置づけについて述べよう。
アケメネス朝の初期の政治的首都はペルセポリスの北方80kmに位置する「パサルガダエ(イスラム文献ではソロモンの母の墓と呼ばれる)」であった(これも世界遺産)。
大帝国時代になり、アケメネス朝は、ハグマダン(現在のハマダン)を夏の都、スーサ(エラムの都)を冬の都、ペルセポリスを春の都として使い分けた。
ペルセポリスは明らかに大帝国の首都を意識されて造られてはいるが、実際には政治的でも、経済的でも、軍事的でもなく、祭儀用の宮殿だった。巨大な建造物が、当時の最も重要な宗教行事、3月21日のイラン暦の新年祭「ノウ・ルーズ」のために造られている事実からも分かるという。(ファールス州文化保護局の資料による)

ペルセポリスは、遺跡の南壁の碑文によればダレイオス大王の命により紀元前518年に着工したことが分かる。その後の王達によっても使用しながら建設は続けられ、アレキサンダー大王によって燃やされる紀元前330年まで約200年間その役割を果たした。

ペルセポリスの建造物は、クーヘ・ラフマト (慈悲の山の意)西斜面の自然の岩盤に,一部,切石積みを施して,西側面455m,南側面290mのほぼ平行四辺形をなした大基壇(高さ11~18m)が造成され,その上に謁見殿(アパダーナ),ダレイオス宮殿,クセルクセス宮殿,中央殿,百柱殿,後宮(ハレム),宝蔵などが建てられた。

ペルシャ式建築の特徴は、石の土台があり、柱や門は石。壁はレンガ、屋根は木造、インテリアは世界各国の様式を取り入れていた。従ってアレキサンダーが火をつければ石の部分しか残らないのだ。なお、アレキサンダーは実質の首都スーサで得たより3倍もの財宝をペルセウスで得たとされる。

ひとわたりガイドの説明を聞きながら、見学したが、全貌を理解することは難しかった。帰国後、資料と撮って来た写真を見比べながら、改めてその美術・造形上の素晴らしさ、歴史的な意義を認識しているところです。
もっとも印象深かったのは、入り口の大階段(これも有名なものですが)に続くクセルクセス門と、アパダーナ宮殿(謁見の間)へ登る東階段のレリーフ(23カ国の使者が貢物を持って行進する絵)、柱頭を飾る巨大なホマなどの動物像であった。
また、背後の山に少しばかり登ってみた。ペルセポリスの全景が手に取るように見えた。
以下、写真で紹介する。

0422s0424s 左;遠方よりペルセポリスの大基壇を見る
右;基壇へ登るための大階段。110段ある。保護のため板が敷いてあった。

0425s0475s0432s クセルクセス門。高さ16m。門といっても実際は控えの間だった。東西南の3方に出入り口がある。
西ゲートは牡牛像、東ゲートは人面有翼獣神像の対のレリーフ。

0439s
百柱の間南側入口にあるレリーフ。
支配28カ国の人物が最上部の玉座と王を支えている構図。






0433s0481s0459s あちこちに点在する柱頭を飾る像は4種類ある。①想像上の鳥、ホマ。幸せを象徴する。イラン航空のマークでもある。②牡牛。恵みを象徴する。③ライオン。権力。④人間。良い考え。
0467s0448s 左は山から遺跡中心部を鳥瞰したところ。手前に百柱の間が見え、奥の屋根が作ってあるところが中核のアバダーナ(謁見の間)である。
右は、アバダーナへの東側大階段に彫られたレリーフ。ライオンと牡牛の戦いの図である。
0452s0454sPhoto_201 同じくアバダーナ大階段に彫られた属国23カ国から貢物を持ってくる図が描かれている。それぞれの国の特色が人物や貢物に表れていて面白い。1カ国ごとに糸杉でセパレートしてある。
0103s0077s この3点は、テヘランの考古学博物館に展示されているものである。左は有名な「ダレイオス1世の謁見図」右は「階段のレリーフ」

0086sこの「牡牛の柱頭」は百柱の間にあったもの。いずれも保存状態がよく、素晴らしい。 


 
 

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2007年5月18日 (金)

イラン旅行の印象その9 三大詩人の霊廟を訪れる

今回のイランツアーで、思いがけなかったことのひとつに、イランでは歴史的な詩人たちが偉人として人々に尊敬され、また広く親しまれていることだった。
8日目のマシュハドから9日目のシーラーズで、三大詩人(フェルドゥーシー、ハーフェズ、サーディー)の霊廟を見、そしてそのことを肌で感じました。
まず、現地ガイド(15日間通しです)の熱の入れ方が違う、それぞれの詩人の代表的な詩をプリントしてくれ、かつペルシャ語で誦してくれるのでした。
特にハーフェズ廟はイラン人の参拝客、学生、子供たちで溢れていて、彼等の振る舞いを見ていると、いかに彼がイラン国民に愛されているかが分かるのです。ガイドの説明によると、イラン人が最初に手にする書物はコーランであり、その次はハーフェズの詩集だと言う。

(1)フェルドゥーシー
フェルドゥーシーの廟は、イスラーム教シーア派の聖地マシュハドの近郊トゥースにある。
古代ペルシャでも朝廷詩人がいたようだが、文字ではなく口承が主体で、書かれた物は残っていない。
その後、2世紀にわたりアラブ支配を受けてイランはイスラム化し、行政・宗教・文化・学術語にはアラビア語が使用されるようになった。一方で、アラブ支配の恩恵とも言えるがアラビア文字による近世ペルシャ語が9世紀までに完成した。しかし、ペルシャ語による文学活動が行なわれる余地はあまりなかった。
9世紀前半頃から、イラン東部で民族王朝が樹立されたのに伴い、ペルシャ詩人が次第に現われるようになり、やがて宮廷詩人制度も復活され、ペルシャ文芸が復活するに至った。
10世紀後半に、先駆的な詩人たちの後を継いで,イラン建国からササン朝滅亡に至る神話,伝説,歴史をテーマに作詩に着手し,30余年をかけて約6万句に及ぶ大民族叙事詩《シャー・ナーメ(王書)》を完成させたのがイラン最大の民族詩人フェルドゥーシーである。
フェルドゥーシーはイランの歴史を6万の詩の形で残すと共に、アラビア文字によるペルシャ語を確実にこの国のものとしたことで、大きな功績を残したと、イラン人に評価されているのです。

ところで、驚いたことが一つ、上記の《シャー・ナーメ(王書)》の英語版が私の手元にあるのだ。何処だったか忘れてしまったが、博物館の売店のようなところで、見つけて買ったのです。その時点では、美しい細密画を紹介した本で、フェルドゥーシーの名が入っているから良さそうだ、というぐらいでした。今回この記事を書くに際して平凡社の百科辞典をひもといたところ、シャー・ナーメ=Shahnameh(この本のタイトル)であることが分かったという次第。はからずも、とても価値がある本を手に入れてしまった、と喜んでいる。
S_85S_86S_87フェルドゥーシー廟   
碑には彼の詩が刻まれている。右はフェルドゥーシーの彫像。幼子が無心に遊んでいた。




S_88S_89知らずして手に入れた《シャー・ナーメ(王書)》の英語版。各時代の王をめぐるエピソード集であるが、美麗な細密画がたくさん挿入されている。右は「Zahhak enthroned 」


(2)ハーフェズ
ハーフェズ(1325~1389)はシーラーズで生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごした。廟は街の北東の美しい庭園の中にある。
ハーフェズはイランで最も偉大で、敬愛されている抒情詩人である。酒,恋,美女などをテーマに象徴主義手法を用いて作詩し,神秘主義思想と現実の両意に解釈できるように表現し,抒情詩を最高・完成の域に達せしめた(平凡社世界百科)。
イラン人は誰もが三つや四つ、彼の詩を知っているという。ガイドによれば、男性はハーフェズの詩をたくさん知っていなければ女性にもてないという。
どんな詩か? 彼の墓石に刻まれているのは次のようなものだ。

1 そなたと結ばれる吉報はいずこ、私は命を捧げよう
  私は天国の鳥、この世の罠から抜け出そう
2 そなたへの愛に誓って、私を自分の奴隷と呼んでくれるなら
  私は時間と空間の支配から抜け出そう
3 神よ、私が埃のように消え去る前に
  お導きの雲から慈雨を降らせたまえ
4 我が墓の傍らに酒を持ち薬師を連れて座れ
  そなたの芳香で私は墓から踊りながら起き上がろう
5 麗しい歩みの恋人よ、立って姿を見せよ
  私は踊りながら生命とこの世に別れを告げよう
6 老いたりとも一夜私をしっかり抱いてくれ
  翌朝私は若返ってそなたの傍から起き上がろう
7 死ぬ日、そなたに会う一瞬(いっとき)の猶予をくれ
  ハーフェズのように、私は生命とこの世を捧げよう
0376s0380s 
次々とイラン人が棺の回りに参拝に訪れる。これは学生のようだ。若いイラン人女性はとても美しい!
0382sS_93 




0389sこのようにこんなに小さいうちから、ハーフェズに親しむお国柄だ。

S_94
廟に併設されているチャイハネでお茶を飲む。チャイハネには必ず水タバコが置いてある。

(3)サーディー
サーディーはハーフェズより一昔前の13世紀の抒情詩人である。長く中東、北アフリカ、インドを放浪し、晩年になってシーラーズに戻り、没した。不朽の名作《薔薇園》と《果樹園》を作詩した、教訓詩の最高詩人として名高い。特に薔薇園は世界各国語に翻訳されているという。
サーディーの廟はハーフェズ廟からほど遠からぬ場所にあった。
ガイドによると、ハーフェズよりサーディーの方が詩の内容が分かりやすいという。果樹園の中から詩の紹介があったが、確かに教訓的内容だった。
S_90S_91S_92ここにもイラン人が大勢訪れていた。廟の一角には地下水槽のあるチャイハネがあった。子供たちに占領されていたが。水の中には金魚!

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2007年5月15日 (火)

イラン旅行の印象その8 キャンドヴァーン村~アンザリー潟~マースーレ村

《キャンドヴァーン村》
イランにはとても変わった村が存在する。キャンドヴァーン村は、タブリーズの南50kmのサハンド山の麓、谷への斜面に沿って密集する奇岩群の只中にある。というか、奇岩そのものをくり貫いて家としているのだ。トルコのカッパドキアに似た風景だ。カッパドキアと違って、実際に人がまとまって住み、村として存在することだ。
1400年前、アラブ人の侵入に際して、この地に逃げ込んできた人たちがそのまま住み着いたものだという。この村の特産はアーモンド、アプリコット、蜂蜜。また水が綺麗なことでも有名だという。
シャムソーラ・キアニさんの岩のお家を訪問させていただいた。くり貫いた岩の空間に大きな絨毯を敷き、家具を置いただけだが、とても暖かく安心感のある住空間に思えた。各家はくり貫いた空間を四つほど所有していて、用途を分けているようだ。
この日は金曜日(イランの休日)でもあり、ピクニックの家族連れで大いに賑わっていた。
帰りに我々のツアーの仲間の何人かが特産の蜂蜜を買った。
S_69 左の雪山は村に向かう途中、ずっと見えていた。今回のツアーで最も美しかったと思う。


S_70S_71キャンドヴァーン村の遠景。
道路は渓谷沿いに通っている。右端の売店にて何人かが蜂蜜を買った。


S_72S_73村の通路は危なっかしいところもたくさんある。村の女性が井戸端? この道は山羊も通るから当然、糞も。   
ピクニックに来たイラン人の若者たち。何処へ行っても、老いも若きも我々に感じが良いのだ!今回のツアーで最も感銘を受けたことの一つだ。
S_83村の住人キアニさんの御宅をみせてもらった。 道路も含めて岩を繰り抜いて造られている。一部レンガや漆喰で表面が整えられている。かなりの部屋数がありそうだ。







《カスピ海~バンダル・アンザリー》
6日目は、タブリーズからアルダビール(前回の記事参照)を経てカスピ海のバンダルアンザリーまで400kmほどの長距離の移動だった。しかし、道路は良く、雪の積もった山々や日本とは異なる乾燥気味の荒涼としているが魅力的な風景を眺めていると、疲れはほとんど感じない。バスの車窓からではろくな写真にならないことは分かっていても、見たことも無い風景が次々と展開し、その度に思わずシャッターを切ってしまうのでした。
アルダビールから暫らく進むと、東の地平線上に低く雲が張り付いているのが見える。あのあたりから、これまで通ってきた1300~1500mの高原が一気にカスピ海に向けて標高を下げるからだとガイドが言う。間もなく道路は一方的なしかも急な下りになり、あっという間に霧の中というか雲の中に突入してしまう。そして、あたりはにわかに木々の緑に覆われた。この劇的な変化は感動的ですらある。
カスピ海沿岸の平地に出ると、なんと水田地帯だった。ほとんど日本の田舎と同じ風景が広がっている。イラン人にとって、この水と緑に恵まれたカスピ海沿岸地帯は「天国」と映るらしく、あこがれの地だという。テヘランからカスピ海沿岸までは最も近いところでも300km近くあるが別荘を持つ人も多いと言う。
バンダル・アンザリーのホテルに入る前に、野鳥や渡り鳥の生息地帯として有名なアンザリー潟のボートツアーに行った。カスピ海に広がる450平方kmの湖沼群で、野鳥と共に、蓮の花が見事らしいが、残念ながら時期的に早すぎたようだった。なお、ここから更にカスピ海沿岸を東へ100kmほど行くと、温泉もある有名なリゾート地ラームサルがある。湿原の保存に関する国際条約「ラームサル条約」が締結された都市である。
また、写真を撮らず残念だったが、潟のカスピ海への出口のところがアンザリー港(バンダルがペルシャ語で港という意味)になっていて、停泊中の中・大型船は全てロシア船であった。そうなんだ、直接陸続きではないが、カスピ海の向こうはロシアなんだ。国際問題でイランとロシアが近い訳が、納得できたのでした。
そして、いつの間にか大変なところまで来てしまっている自分に驚くのでした。
なお、ツアー参加者でカスピ海名物キャビアを購入する人もいました。
S_84
カスピ海沿岸地帯は降雨量も多く、水田が広がっている。
バスの車窓からなので、どうしてもボケてしまう。

S0220S0224 



アンザリー潟のモーターボート・クルーズは時速50km/hで突っ走る。今、とても人気らしい。時折姿を見せる鳥たちも諦め顔?迷路のような葦の水路のどこかに、本物のビールが飲める隠れ家があるらしい。どうですかと言われたが、誰も希望しなかったのでパス。結局、このツアー15日間は完全禁酒で通しました。
F1131sS_74 これは、翌日朝のカスピ海。ホテルの庭から直接浜に出れる。昨日の小雨混じり曇天と打って変って上天気。つい、30分前までは霧でほとんど見通しがきかなかったのに。(左;6時10分ごろ 右;7時30分ごろ)


《マースーレ村》
マースーレ村は、バンダル・アンザリーから直線距離にして60kmぐらい内陸に入ったところにあるのだが、じかに行く道路がなく延々と回り道を余儀なくされる。この村が面白いのは、海抜1050mの山肌に家々が段々畑のように層を成してびっしり並んでいて、各家の屋根部分が道路として使われていることだ。遠くから見ると、あちこちの屋根の上に人が歩いたり、佇んでいて、奇妙な感覚を覚えるのです。下の方の階層はちょっとしたバザールになっているので、店を覗く楽しみもある。
村を一回りしてからバザールのチャイハネで一休み。イランのチャイの飲み方は、インド(煮込みミルクティー)とは全く異なる。お茶は必ずストレートで出て来て、先ず角砂糖を口に含んでからやおらお茶を流し込む。この角砂糖はかなり硬く容易に溶けない。お茶菓子を食べながら日本茶を飲むのに似ているが、お菓子よりはずっとすっきりしている。
この村の人口は1600人ぐらいとのことであった。
村人の生活そのものが観光資源になっている面もあり、得がたい体験だった。写真もいっぱい撮り、平和で充実した気分に満ちて、次の観光地に向かったのでした。
S_75S_76 
マースーレ村の遠景。小さなモスクもある。ちょっと見には変わった所が無いようだが?


S_79S_80下の階層の屋根が道路として使われているのが分かる。
人が屋根の上にいるように見えるが、公共の道路の上にいるのだ。
S_77S_78 従って、このような風景がいたるところで見られる。



S_81S_82左はバザールの店のオヤジが、模様替えをしているところ。両側に店のあるこのあたりは道路幅は1mぐらいしかない。その、ゴチャゴチャさが楽しい。
右は小さな村の小学校。先生と生徒がちょうど出てきたところ。例によって、にこやかに挨拶を交わした。

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2007年5月14日 (月)

イラン旅行の印象その7 シェイフ・サフィーアッディーン廟(アルダビール)

6日目、4810mのサバラーン山を見ながらアルダビールに入った。ここには、とても美しいイスラーム建築「シェイフ・サフィーアッディーン廟」があるのだ。
シェイフ・サフィーアッディーンはサファビー神秘主義教団の開祖であり、彼の子孫であるシャー・イスマイール(1世)がサファヴィー朝を開き、シーア派を宣言、国教とした。サフィーアッディーンは1393年に亡くなって、息子がこの墓を作った。
先ず外観が素晴らしい。とりわけ眼を引く、個性的な青いタイルのモザイクで飾られた円筒形のドームがサフィーアッディーンの廟である。このドームは1.5mの高さの8角形の石の基礎台の上に設置され、周囲22m高さ17.5mの規模である。この中には象牙細工の木彫りの棺が安置されていて、実際にはその地下にアッディーンは葬られている。なお、子孫のイスマイールほかも一緒に葬られているようだ。
この廟に連接したホールにはチニハネと呼ばれる陶器博物館が設けられている。ホールおよびチニハネは、天井ドームから壁面にかけて金色に燦然と輝く立体的かつ繊細な装飾がなされているし、床には素晴らしいペルシャ絨毯が敷かれていて、圧倒される。
チニハネの絨毯は24人が毎日織って7年間かかったものだそうだ。
陶器はアッバース1世が中国皇帝から贈られたもので、大部分はロシア(一部はエルミタージュにある)に流出してしまったと説明があった。
内部は照明が暗く、ノンフラッシュだから撮影がとても難しかった。ASA感度を800にして壁に体を密着させて撮ったが、ぶれて使い物にならないものが多かった。それでも撮影させてくれるだけありがたい。
(「地球の歩き方」では「Safi-od-dinサフィーオッディーン」となっているが、正確にはSafi-al-dinサフィーアッディーンである)

S_60S_61 シェイフ・サフィーアッディーン廟外観。



S_62S_63 左がアッディーン廟。何とも表現のしがたい美しさ。






S_64S_67左はエンタランスホールから廟の方(奥の暗い部分)を見る。構造が良く分からないが、全部繋がっているようだ。
右は廟の部分に安置されている棺。




S_65S_66エンタランスホールから左側には陶器博物館チニハネが連なっている。
この絨毯が凄い。






S_68廟の見学を終えてバスの駐車場へ行く途中、学校から出てきたのだろうか、少年たちが大勢居て、我々を日本人と認めて一生懸命しゃべりかけて来る。

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2007年5月12日 (土)

イラン旅行の印象その6 タブリーズ(ブルーモスク...絨毯工場...)

タブリーズはイランの最北西端、アゼルバイジャン、トルコ、イランに囲まれた比較的狭いエリアに位置する人口100万の大都市である。周りは3000m級の山に囲まれていて、街の標高は1360mあり、夏涼しく、冬はかなり寒い土地柄である。ヨーロッパとアジアを結ぶ要衝にあることから、古くから商業および宿場町として重要な役割を果たし、さらに13世紀のイル・ハン朝を始め、何度もここに首都が置かれて繁栄した。

タブリーズで報告したいのは、通称ブルーモスク「マスジェデ・キャブード」と、予定外に見学できた絨毯工場の様子である。

《ブルーモスク》
マスジェデ・キャブードは15世紀の中頃、カラ・コユンスルのスルタン、ジャハーン・シャーの時代に建てられ、この時代の建築の傑作といわれる、と、ガイドブックには紹介されている。多様なペルシャンブルーのタイルで建物全体が覆われていたことから「ブルーモスク」の名で知られている。しかし残念ながら、地震の多い地域のため、度重なる地震でタイルが半分ぐらいは剥げ落ちてしまっている。230年前の大地震のあと、180年間は放置されていて、その後ようやく修復が行なわれるようになったという。
地下にはジャハーン・シャーの墓が残っている。
モスクのサイト入り口には大きな像が建っているが、12世紀に活躍した詩人ハーガニーである。(イランの詩人については別途述べよう)
S_53
サイトの入り口。モスクの後ろ側に当たる。
こちらから見ると、ブルーの気配が全く無い。

S_54S_55
左は正面入り口。かろうじてタイルが残っている。
右は内部。





S_56Photo_200
このブルーの凄さ!
剥がれ落ちたタイルが1室に集められていた。

《絨毯工場》
いわゆるペルシャ絨毯はイラン各地で作られているが、タブリーズは絨毯製造の歴史が古いだけでなく、とりわけ美しい絨毯を産することで有名です。これは、トルコ結びでゴブラと呼ばれる独特なカギ針を使用して織ることにより、緻密な織り目と正確な文様が実現できるのだという。織られる模様はコーカサス風の幾何学模様に動植物を巧みにアレンジしたデザインが主体だという。
訪れた工場は、一般販売用のものではなく、○○王室御用達や公的目的の大型の超高級な絨毯を製造している所だった。たまたま工場は休みの日だったが、一部稼動しているところを見せてもらった。従業員は500人ぐらいらしいが、以前は1000人ぐらい居たという。ここで織っている大型のものだと、1枚織るのに例えば3人×3交代/日で数ヶ月、時には1年も2年も掛かるものがあるという。このような超労働集約型だから値段が高くなるのだが、工場としても採算が取りがたく、つぶれるところが多いそうだ。現地ガイドが真顔で言うには、「ペルシャ絨毯は近いうちに消滅するかもしれない」
写真で見られるように、ここでは図面を見ながら織っている。田舎で家内工業的にやっているところは図面無しで、頭の中のイメージで織るのだそうだ。
結び目の数が多ければ多いほど質は良くなる。ちなみにここで織られているのは、シルクで1cm×1cmあたり結び目144ラージだった。
余談だが、ここは「世界不思議発見」の撮影にも使われた、とガイドの説明があった。
S_57S_58
この絨毯は二人がかりで織っていた。
コブラと呼ばれる特殊なカギ針を使うのがタブリーズ絨毯の特徴。上に見本が掲げられている。
S_59
これは別の絨毯。作業は反対側で行なう。

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2007年5月 9日 (水)

イラン旅行の印象その5 世界遺産タフテ・ソレイマーン

タフテ・ソレイマーンの遺跡は何処までも広がる、のびやかな高原の一角に少しだけ盛り上がった丘の上に存在する。周りには小麦畑やオリーブの林があり、ヤギの群れを追う土地の人も見える。牧歌的で心休まる空間に満ちていました。
驚かされるのは、360m×280mぐらいの楕円形に囲んだ石壁の内側にはいろいろの遺構と共に、100m×70mぐらいの青く輝く湖があることだ。この湖の存在が、今までに見たことの無い、不思議で魅惑的な景観にしています。大抵の人は一度見ると忘れることが出来なくなるでしょう。

ここはどういう所なのか?現地で購入したパンフに、このサイトについて英文の紹介があったので、簡単に翻訳してみましょう。

『タフテ・ソレイマーン(Azargoshnasb Fire Temple)の遺跡』
タフテ・ソレイマーンは西アゼルバイジャン州のTakabの北東42kmに位置する複合的遺跡である。この遺跡内には多数の遺構があり、さらに絶え間なく湧き出る泉がちょっとした湖を作っているが、これらは周りの土地より20mほどの高さの、石と湖の沈殿物によって形成されたプラットホームの上に乗っかっている。
これまでの調査によれば、宗教的定住者がここに来たのは紀元前1000年ごろのことである。そして、パルティア時代(BC3世紀~AD2世紀)の遺跡の上にAzargoshnasb Fire Templeが造られた。
ササーン朝期、特にKhosrow-Anushirvan(AD531~579)やKhosrow Ⅱ(AD590~628)の統治下には、この地の発展に特に意が注がれた。
パフラビ文字(ササーン朝のゾロアスター教の書物で使われた)では、このFire TempleはGanzakまたはGanjehと呼ばれた。ローマ人たちはGazka、アラブ人はShizだった。
AD624年、Khosrow軍がローマに敗れて後、侵入者によって略奪、破壊されて、その威信は失墜した。その後のイスラーム統治下はさらに寺院の落ち目が続いた。
モンゴル系のイル・ハン朝の時代(1256~1353)になって、建物が増改築されるようになり、特にAbaga KhanによるKhosrow’s Aivanの復活により、この地域での政治的、社会的活動が始まった。そして、17世紀までこの地は夏の首都となったが、その後は完全に放棄された。
ここで用いられている材料は、自然石、切石、レンガ、化粧漆喰、細工されたタイルである。
2003年世界遺産に登録。

パンフの説明は以上ですが、若干補足しよう。
先ず、タフテ・ソレイマーンとは、「ソレイマーンの玉座」という意味だが、全く関係のない名前なのである。本来ならAzargoshnasb Fire Templeの遺跡というべきでしょう。
要は、ここはゾロアスター教寺院の跡なのだ。従って遺構の中には、火を燃やし続ける特別な場所もある。
ゾロアスター教の歴史は古く、その祖ゾロアスターは紀元前630年ごろ(紀元前1000年より以前という説もある)生まれ、イラン北東部で拝火の宗教を提唱した。以後、イスラームに席巻される650年ごろまでイランの諸王朝によって、国教とされて来たのだった。

遺跡に残る構造物はほとんど元の形を留めず正に廃墟であるが、真ん中にある小さな青い湖と、何処までも続く朗々とした高原の景観とが一体になると、異次元の世界に迷い込んだような気分にさせる不思議な場所なのです。

Photo_197Photo_198左の2枚は本文のパンフからコピーしたもの。
全体が俯瞰できる。







Photo_199タフテ・ソレイマーン遺跡の平面図
(パンフレット)





01050107_1外壁と遺跡への入り口




0111_10113_10119_1この豊かな水は地下から湧き出たもの。
平均水深60m、最大112mとガイドブックに記されているが?右の写真は流出口。

011701160122
遺構の数々。
左は火を維持した場所だったと思う。
右写真では、僅かに装飾の痕跡が見られる。中写真はアナヒタ神殿(水を溜めた)。ゾロアスター教の時代には、古来のアナヒタなど多神教も容認された。
01060123周りの眺望。
左写真に小さく羊の群れとそれを追う人が見える 。右写真の水路には湖からの流出水が激しく流れる。

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2007年5月 7日 (月)

イラン旅行の印象その4 世界遺産ソルターニーイェ

西北部では3箇所の世界遺産を見た。①ターク・イ・ブスターン(2006年登録)②ソルターニーイェ(2005年登録)③タフテ・ソレイマーン(2003年登録)である。このうち、②、③はとても印象深かった。
先ず、ソルターニーイェを取り上げよう。ツアーでは第3日、ハマダンからザンジャンへ向かう途中のソルターニーイェの小さな村に、世界遺産の巨大な建物、ソルターニーイェ・ドームがある。
(注;ツアー催行会社ではスルタニエと呼んでいますが、ソルターニーイェの方が実際の発音に近く、かつ一般的に使用されているようだ)

ソルターニーイェとは「帝都」の意味である。現在は日干し煉瓦の家が散在する砂塵の目立つひなびた場所だが、かつてここはイランを支配したモンゴル人君主ウルジャイ(在位1306-13)による巨大帝国の首都だった。その賑わいについて、同時代にイラン北西部を通過したマルコポーロが記録に残しており確かなことである。
当時、支配者は巨大な墓を造って名を残そうとする傾向があり、ウルジャイに至って、ついに世界最大級の建物が造られた。なお、現地ガイドの説明では、当初、イマーム・アリー(シーア派の最高指導者)の墓として造っていたが反対されて自分の墓としたと言う。
ドームの高さは約50mあり、遠くからもよく見える美しい青いタイル張りだった。ドームの周りには8本のミナレットがあったようで、その痕跡が存在している。
八角形の建物は直径25mの大きな吹き抜けの空間を持つ。この空間の各辺には深い壁がんがあり、さらに上部には内部を見下せる回廊が付いている。
建物外側のドームの基部にも回廊がぐるりと取り巻いており、ここからの周辺の平原の眺めが素晴らしい。この回廊は24のヴォールトから構成され、それぞれ彫刻、着彩された漆喰により色彩豊かに装飾されていた。各ヴォールトはそれぞれ異なった幾何学文が用いられているが、同時代に存在した図案集のものと一致するので、職人がこれから着想を得たものと考えられている。この幾何学文がとても面白く、売店で文様だけを集めた絵葉書を購入した。
建物の外壁、内壁の大部分が施釉タイルで覆われていたというから、当時は素晴らしく美しい建築だったと想像される。

S0055_1 ソルターニーイェ・ドーム(Soltaniye Dome)の外観
ドームや外壁に断片的に青い施釉タイルが残っている。現在、ドームは全面的にタイル復元作業を行なっている。


S0056S0064広々とした内部空間 
八角形の各辺には大きな壁がんが設置されている。その上部は内部を見下ろせる回廊になっている。

内部壁面には幾何学文の施釉タイルが残っている。現在修復中。



1s0060S_52 内側に向けた回廊の更に上には外側に向けた回廊がある。24のヴォールトに区分されていて、着彩された漆喰で装飾されている。天井部分に各ヴォールトごとに異なるデザインの大きな模様が付されている。





Photo_196 絵葉書より。
上は、上記回廊の、あるヴォールト(右側写真)の天井に装飾された文様。これはここのシンボルでもあるようだ。
下は内部空間の壁の文様のひとつ。
いずれも、とても複雑で、かつ面白い。



S0062S0061_1 外側に向けた上部回廊からソルターニーイェの村を展望する。
黒いチャードルを付けたイラン女性たちが小さく見える。


(この記事は、岩波書店「イスラーム美術」を参考にしました)

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2007年5月 6日 (日)

イラン旅行の印象その3 西北部は山また山...シルクロードで最も美しいルート

イランでこんなに山岳美を味わえるとは全く予想していなかっただけに驚きだった。特に、ツアーの前半の北西部は圧巻だった。バスは雪を頂いた高い峰々を望みながら、緩やかにうねりつつ、幾つもの峠を越えて高原を進むのです。日本では見られないスケールの大きさに圧倒されながら。一見荒涼としているが、灰色、茶色、薄緑、そして真っ白な雪が織り成す巨大なタピストリーだ。
現地ガイドの説明では、4日目のザンジャンからタブリースに向かうルートはシルクロードとも重なり、このガイドが主催する北京~イスタンブール48日間のシルクロード踏破ツアーの参加者からイランのこの部分が最も美しいと賞賛されているのだそうだ。
前日のガイドの予告...「明日は信じられないほど景色が美しいですよ」
このツアーのベストシーズン中のベストがこの4月だというのは、この山岳ルートの美しさを最大限に満喫できるからだ、とツアーガイドは言う。遅ければ雪化粧した山は見られないし、早ければ降雪でバスも通れない。現に、添乗員の話では、2週間前の同じツアーでは雪に見舞われ通行不能で日程が変更になったと言う。

4日目、ザンジャンを出て世界遺産のタフティ・ソレイマンに向かう。新緑が広がる山々を通り、途中、銅や亜鉛を運ぶロープウエーを眺めながら高度を上げて行く。この付近で最も高いシャープラギ峠(2650m)に差し掛かった時、雪が降り始め、あたりは白一色。車のスピードも落ちて来た。あと100mほどで峠が越えれるというところで、バスが雪だまりに入り動かなくなってしまった。後から来た乗用車がバスを追い抜いたけれどやはりスリップで停止。乗用車は軽いから皆で押してやると何とか動き、峠を越えて行った。
バスの方は運転手とガイドとアシスタントの三人で、チェーンを着けようとしたが、装着不可能のようだった。さて、困った。正直、私もここで夜を越す羽目になるかと思った。現地ガイドは携帯でテヘランの会社へ救援を頼む。しかし、ここに到着するには7~8時間はかかるだろう。一方、アシスタントの17歳の少年が、何とか峠の頂上にたどり着いた乗用車に便乗してどこかへ行ってしまった。そして、じりじりと神経が擦り減る様な時間が過ぎて我慢が出来なくなりそうになった時、反対側から車が来て、少年がスコップを2丁持って飛び降りてくる。なんと、これでタイヤの前後の雪をすかしたら、あっという間にバスが動き始めたのです。乗員は思わず一斉に拍手。この間2時間。少年は一躍ヒーロー。
この1件で、少年は随分自信を持つようになり、我々とも大いに意思が通じるようになったのでした。
なお、この日のこの付近の温度はマイナス2度だったという。たまたま薄着だった私は軽い鼻風邪を引いてしまった。
(ケルマンシャー~ハマダン~ザンジャン)
S0024S_51右はアサダバード峠のレストラン横にあった作業小屋。
何処へ行ってもそうだが、ペルシャ語(アラビア文字)のロゴが格別の雰囲気をかもし出す。

(ザンジャン~タブリーズ)
S0069S0082

    


S0076Photo_192S0098_1




S0094S0096
現地ガイドとアシスタントの少年



(タブリーズ~アルダビル)
S0161S0186右はイラン有数の高峰サバラーン山(4810m) 
農夫が畑を耕していた。


S_50
西北部詳細図
○数字は宿泊順序。ただし、ケルマンシャーはテヘラン宿泊後、早朝飛行機で到着。

ケルマンシャーからバクダットまでは1本道。すぐそこだが、イラン領土内は平和そのもの。戦争の匂いはいささかもしない。



【参考】  イランの地形と自然(平凡社世界百科より)
イランの地形は三方を山脈,高地に囲まれた逆三角形の高原である。北部にアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部をなすエルブルズ山脈が東西に走り,3000m級の山峰が連なっている。最高峰はテヘランの北にそびえるダマーバンド山(5671m)である。山脈に沿った地域は造山活動のために地震が頻発する地域となっている。北西部から南東部に向かって別の数条の山脈が並走している。これをまとめてザーグロス山脈といっているが,3000m級の峰が連なり,山間の盆地にオアシスの集落が発達している。東部のアフガニスタンとの国境地帯は連続した山脈といえないが,とぎれとぎれに高地がある。イラン高原の標高は平均して700m以上,もっとも低い所は南東部の300m,高い所はエルブルズとザーグロスの両山脈が出会う北西部のアゼルバイジャン地方の1500mである。
イラン高原の気候はエルブルズ,ザーグロスの両山脈が外洋からの影響をさえぎる自然の障壁になっているため,降水量が年間を通じて少なく,極度に乾燥していることが特徴である。高原全体の平均の年降水量は250mm程度,三方の山脈,高地から離れて中央部にいくほど降水量は減少し,年間100mm以下の人の住むことが不可能なカビール砂漠,ルート 砂漠になっている。東部のバルーチスターン,シースターンの両地方はまったくの砂漠ではないが,標高の低い内陸盆地であるために乾燥が著しい。イラン高原で比較的降水量に恵まれているのは,500mm以上の雨が降る北西部のアゼルバイジャン地方で,乾燥森林と叢林ステップが見られ,天水農業が可能となっている。
 大陸性の気候を示すイラン高原は,夏と冬の気温較差が25℃以上と大きい。7月は平均気温30℃,昼間は40℃を超す暑さを記録するが,1月は中央アジア方面の高気圧帯から寒冷で乾燥した空気が流れこんでくるため,平均気温は3℃となり,寒さが厳しい。また,冬は地中海方面から移動してくる低気圧の影響で,雨がこの時期に集中して降る。高原部での生活の場は,以上のような過酷な自然と風土に制約されてかたよったものになっている。村,都市といった集落は,比較的降水量が多く水を得ることが容易なエルブルズ,ザーグロス両山脈の麓か山間の盆地に集中している。このような所は春に山からの融雪水が中小の河川となって流れ,また伏流して地下水になったものをカナート灌漑によって利用できるため,農業と生活の便に恵まれている。
 イランの大半は高原地域によって占められているが,わずかながら低地帯も存在する。その一つはエルブルズ山脈の北側,カスピ海南岸に沿って延びるギーラーン,マーザンダラーン 両地方の海岸平野とその東に続くトルクメンのステップである。この地域はカスピ海の湿潤な空気が北斜面にあたるため,年間1000mm以上の降雨があり,夏乾燥,冬多雨の地中海性気候となっている。とくに湿潤なのはギーラーン地方で,広葉樹の茂る森林と水田があり稲作が行われている。東に行くにしたがって乾燥度が強まり,カスピ海南東部のトルクメン平原ではステップ化している。ここでは遊牧のほかに綿作とタバコの栽培が行われている。
Photo_193Photo_195イラン全図とシルクロード・ルート図 

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2007年5月 2日 (水)

イラン旅行の印象その2 ローズモスク

イラン旅行の醍醐味の一つは、美しいモスク建築の鑑賞であろう。中でもシラーズのナシル・アル・モルク・モスクはひときわ華やかである。他のモスクに見られないピンク色や花柄のタイルが使われていて、別名「ローズ・モスク」とも呼ばれる。
ガジャール朝の建築家で聖職者のナシル・アル・モルクにより1887~1897年に建てられた。
建物の外観も美しいが、とりわけここが有名なのはステンドグラスである。午前中、陽が当たるとステンドグラスを通して極彩色の光が刺し込む。それが反射して礼拝堂の部屋いっぱいに広がり天国の花園のような雰囲気となる。
我々がこのモスクに到着したのは午前10時過ぎで、既に太陽は高く、やや刺し込む光が少なかったけれど、それでもとても素敵だった。
ステンドグラスに描かれているのは西洋の教会のような具象的な絵ではなく、シンプルで魅力的な幾何学模様であり、それが一層、光の透過を効果的にしているようだ。

イラン人の美意識に脱帽あるのみ。


0330Photo_189ナシル・アル・モルク・モスク
右はアーチ上部


Photo_191
礼拝堂の一角にはメッカの方向(キブラ)を示す象徴的な壁龕(へきがん)ミフラーブが設置されていた。
これは、全てのモスクに不可欠な要素の一つである。




1_5S_49Photo_1タイルのアラベスク模様
通常、偶像崇拝に繋がる具象的な絵柄は使われないのだが、ここでは珍しく自然の花、建物、動物などがやや具象的にあしらわれている。 




S0336_1
0337 礼拝堂の内部
4月24日10時過ぎの 状態。
晴れていて幸いだった。





Photo_190パンフのように部屋いっぱいになるのは太陽が低い冬の日だろうか?

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2007年4月15日 (日)

ベストシーズンのイランへ!

4月16~30日、15日間の予定でイランへ行ってきます。

イランの魅力は何か?旅行社のパンフによると、
「イランの魅力、それは豊かな色彩と造形が生み出す美の世界にあります。歴代の王の贅をこらした宮殿やモスクの美しさは秀逸です。ブルーや薔薇色を基調とした繊細で鮮やかな色使い、大小のタイルやガラス等を用いた複雑な立体。こうした意匠が隅々まで行き届き、創り上げられた完璧な空間に、訪れる者は一瞬、言葉を失うことでしょう...」

ペルシャ帝国の残照―壮大な遺跡もある。そして薔薇が咲き乱れる素晴らしい庭園が幾つもある。とりわけ、「世界の半分」と称えられた都、イスファハンはイラン人自身が美しい街と自慢するほどであるらしい。

そうした、浮世離れした視点からだけでなく、現代のイラン、世界を震撼させるこの国の内側を可能な限り見てきたい。
帰国後に感想を書く予定です。

(スケジュールとルート図)
Photo_188   Photo_187





北の方では先週、雪が降ったそうだし、南の方は連日30度まで気温が上がっている。服装の準備が大変だ。

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2007年4月12日 (木)

絵画におけるアレゴリー...例えばボッティチェリの「誹謗」

ACCも新年度入りし、カリキュラムも新しくなった。今期は旅行の計画が多いので受講講座は最小限にしておくつもりだ。
6日に、木俣先生の「ヨーロッパ絵画の図像学」の第1回があった。先ず取り上げられたのは『寓意と歴史』でした。

『歴史』の方は、特に説明は必要無い。古くから歴史上の出来事が絵画の題材とされて来た。いろいろ紹介があったが、例えば、ラファエロの「アテネの学堂」は、古代ギリシャの哲学者や思想家たち56人が、それぞれの個性を想像して描かれている。人物配置の構図はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に学んだものとなっているとのこと。
中央の二人は左がプラトン、右がアリストテレス(哲学)。この二人が目立つような仕掛けがなされている。すなわち奥行のある空間が学問の奥深さを表すようになっている。プラトンの左4人目はソクラテス(論理学・修辞学)である。下段左にはピタゴラスが居て、算術・音楽・文法のグループである。下段右はユークリッドやプトレマイオスの幾何学・天文学のグループ。
Scuoladatene



ゴヤの「1850年5月3日、プリンシオ・ピオの丘での絞殺」は昨年、プラド美術館で実際に見たが、その日の出来事があたかも見てきたような迫真力で我々に迫る。この絵の中心となっている白いシャツの農民は両手を大きく広げていて、かつ右手には穴が開いている。キリストの磔をイメージしているのだ、と言う。
Francisco_de_goya_y_lucientes_023_1 スペインの歴史におけるこの日の位置づけについてはウィキペディアの「半島戦争」の項を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E6%88%A6%E4%BA%89

『寓意=アレゴリー』とは、難しい言葉である。 ギリシャ語のallegoria〈話すこと〉から来ており、抽象的概念や思想を、人物を中心としたイメージの組み合わせで表現する手法のことである。なお、ひとつの概念を一人の人物像で表わしたものは「擬人像」と呼ぶが、寓意に含める。
アレゴリーの歴史は古く、古代に発し、ルネサンスから17世紀にかけて集大成された。西洋美術における重要な約束事になっているが、暗号のように複雑化し、専門家でもてこずることもあるらしい。そのため、17世紀には寓意図像集というハンドブックまで作られたという。
いろいろな実例について紹介があったが、ボッティチェリの「誹謗」が、典型的で、かつ、とても面白いと思った。ウフィツィ美術館へは行ったのだがこの絵はあまり覚えが無い。多分、同じボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」ばかり見ていたのだろう。
この「誹謗」を何の予備知識も無しに見れば全く理解できないであろう。
古代ギリシャにアペレスという画家が居て、嫉妬からいわれなき中傷をうけ、身の潔白を訴え真実を明らかにするために「誹謗」という絵を描いた伝えられる。その絵は失われているが、その絵を実際に見た同時代のルキアノスが絵画記述を行なっているのである。
ボッティチェリはその記述を丁寧に再絵画化したのである。
それでは、ルキアノスはどう記述しているか?

☆―そこには、とても長い耳を持った1人の男がおり、その傍らに二人の女性《無知》と《猜疑》が立っている。別の側から《誹謗》が進んでくる。美しい女性の外見をしているが、その顔は狡猾さに慣れていることを表し、左手に松明を握り、もう一方の手で、両手を天に伸ばす若者の髪を引きずっている。彼女を導くのはひどく青白くて醜い、残忍な様子をした1人の男で、まさに戦闘での苦労のために憔悴しきった者にでもたとえられよう。それは《怨恨》の化身と思われる。さらに2人の女性が《誹謗》に付き添い、女主人の装いを整えている。《裏切り》と《欺瞞》である。彼女たちの後から来るのは暗い色の喪服を着た《後悔》で、自らの手で服を引き裂いている。それに続くのは、恥かし気で控えめな《真実》である。―☆
Photo_185




なお、補足すると、髪を引きずられる若者は《潔白》、長い耳の玉座の人は王ないし裁判官を表すとされている。
また、それぞれの概念の擬人化の仕方には約束があるわけで、例えば《真実》は、常に裸の若い女性なのである。

なるほど、《誹謗》などというややこしい抽象的概念も、擬人化すれば絵画表現できるのだ。アレゴリー=寓意画という手法が存在する意義がよく分かった。
同じボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」も寓意画であり、講座では詳しい説明があったが、長くなるので割愛します。
(アレゴリーの記述は、「まなざしのレッスン(三浦篤/東京大学出版会」を参考にしました。)

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2007年4月 7日 (土)

スポット測光方式で露出を決めるには?...被写体の反射率を意識しなければならない

我が家には随分昔からカメラはあったが、記念写真や旅行の記録写真に使う程度で、カメラや写真というものを突っ込んで勉強してみるなどということはついぞ無かった。
写真に対する姿勢が変化したのは、たまたま旅行で知り合ったKさんの写真を見せてもらう機会があって、自分の写真とまるで違うことに気がついたのがきっかけだった。たまたま、その頃、ニコンD80が鳴り物入りで売り出されたこともあり、早速これを購入し、カルチャーセンターの写真教室にまで入ってしまった。それから半年経って、写真というもの、カメラというものはどういうものか、また、その奥の深さが少しは見えてきたように感じているこの頃です。

そういう訳でほとんど毎日のようにカメラを使っているが、実際のところ、カメラの操作を充分に会得しているわけではない。
最近、「露出の極意/スポット測光術のすべて(鈴木一雄著 2007年)」という本を読み、改めて自分の無知を認識した次第である。
一眼レフ(でなくても一緒だが)カメラには露出を決めるために、今降り注いでいる光量を測る露出計が付いている。そしてこれを用いて露出を決める方法として、①多分割測光方式、②中央部重点測光方式、③スポット測光方式の三通りがある...それくらいのことは知っていたが、これをどう使い分けるのか皆目分かっていなかった。

①は画面全体を幾つかに分割してその各々の区画を全て測光して、後はコンピュータの演算により適正な露出(絞り値とシャッタースピードの組み合わせ)を決めるものです。
②も基本的に同じだが、中央部の露出を最優先し、外周に行くに従ってなだらかに情報を加味していくものです。コンピュータで各区画の情報を演算することは同じ。
これらに対して、③は1~3%のごく限られた部分のみ測光し、画面全体の適正露出の演算処理はしない(情報が無いから)のである。
つまり、①と②は露出は基本的にはカメラ任せでいいわけであるが、③は何を測光したのかにより、画面全体の適正露出への敷衍はカメラマンが行なわねばならない。頭を使わねばならないのだ。

そこで、前述の書籍の登場となるのです。スポット測光でどのようにして露出を決めるのか?それを知るためには露出の仕組みを知らねばならない。
被写体に降り注ぐ光の絶対量を測る事ができれば1発だが、被写体が遠くにある時はそうは行かない。従って、カメラの露出計は被写体から反射される光の量を測っているのだ。そして、露出計は『被写体の反射率が18%である』ことを前提に作られている。自然界の被写体は反射率2~3%のものから90%前後のものまで広く分布していて、その総平均がおよそ18%なのらしいのです。色で言えば緑や赤はほぼこの近辺である。
従って、緑の葉っぱの部分をスポット測光した場合は、そのまま現在の光の量とすることができるが、例えばソメイヨシノの花の部分を測光した場合は反射率が50%以上あるから18%との乖離を補正しなければならない。そのままでは露出計は光の量が50/18=2.8倍あると勘違いするのである。

こういうことになっているので、スポット測光を使って露出を決めるには被写体の反射率を把握していることが必要だ...というのがこの本の趣旨です。
そのためにはいろんなものを測光対象にして撮ってみて、どれくらいの補正をすれば適正露出になるかデータを積み重ねろ、と筆者は言う。この本には「被写体別反射率トラの巻」が付いていて、とりあえずこれを使えば、スポット測光による露出の決定はできると言う。
氷、雪は72%(補正量+2)、ソメイヨシノ48~60%(同+1・1/3~+1・2/3)、桃40%(+1・1/3)、新緑24~30%(同+1/3~+2/3)、赤いチューリップ18~24%(同±0~+1/3)、緑の葉12~24%(同-2/3~+1/3)、キキョウ7.5~12%(同-1・1/3~-2/3)といった具合である。この補正量(単位はEV)というのは、カメラの露出補正ダイアルにより、1/3刻みで簡単に設定できる。
面白いというか、当然なのだが、画面の中のどの被写体を測光対象に選んでも、補正量を正しくすれば結果は同じ仕上がり(見た目の明るさ)の写真になる。だから、筆者は得意なものを幾つか作っておけ、と示唆している。

ところでスポット測光を使うことの優位性は何か?
カメラ任せの露出決定では特に逆光ないし半逆光の時、変な写真が出来てしまい、がっかりすることがよくある。これに対し、スポット測光では、見た目の明るさをどんな場合でも確実に実現できるし、さらに意図した変更も間違いなく出来る、というわけである。

気の短い私には向かないような気がするが、面白いのでやってみている。その感想はいずれまた。
なお、こんなことは、写真を撮っている人達には常識なのだろうか?ご承知の方はすっ飛ばして下さい。
☆  ☆  ☆

ここへ来て寒さが戻ったから、当地の桜はまだ満開のまま保っている。長い時間楽しめてハッピーだ。下の写真はいずれも中央重点測光方式で撮ったもの。
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円福寺の灯篭と桜(4月4日撮影)



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団地遊園地の桜(4月4日撮影)



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名古屋城その1(4月5日撮影)



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名古屋城その2(4月5日撮影)



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名古屋駅前の超高層ツインタワーと桜
こんな所にも桜があったとは驚きです!
(4月6日撮影)

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2007年3月30日 (金)

自動バックアップ...便利になったね!

パソコンの動きが遅く、重い。多分、詰め込み過ぎなのだろう。Xpが出た直後に入れた機械だから、もう5年も経ってしまったのか。
買い換えるならVista搭載機だろう。しかし、今使っているソフトはそのまま使えるのだろうか?Vista用バージョンアップ版が揃っただろうか?もう少し待った方が良さそうだ。それなら、現行のXp機をなんとか生きながらえさせなければならない。使わぬソフトをアン・インストールし、保存データを減らし...パソコンのお掃除をするか。

保存データが最近、急に多くなったのは、写真教室に入って、写真を撮る機会が大幅に増え、なおかつ、RAWモード記録していることが原因だろう。RAWモードではJPEGではなくNEFというファイル形式で保存するが、写真1枚あたり9MB以上になるので、これが数百枚となると...かなりハードディスクを圧迫していると思われる。
こまめに、CDやDVDに写せばいいのだが面倒くさくてどうしても溜まりこんでしまう。不要な写真が山ほどあるのだが、「消去する/しない」の判断に時間が掛かるから困る。

ハードディスクが壊れたりしてデータが損なわれることへの備えとして、時折、バックアップをするのだが、これも結構、面倒くさいから、サボりがちだ。
たまたまプロバイダーの@niftyに、バックアップ・サービスがあったので、これを申し込むことにした。使ってみて、非常に便利だと感じる。
デスクトップ、マイ・ドキュメント、メール、お気に入りをバックアップ対象に指定。パソコン立ち上げ時および1時間ごとにバックアップが自動的に行なわれるように設定。
バックアップ容量2GBで525円/月。以降2GBごとに同額増える。2GBに収めるために最初に若干のデータ整理は必要だった。
最初の1回は根っ子からバックアップ(アップロード)しなければならないので、かなりの時間を要したが、それ以降は変化分のみバックアップすることになるのでほとんど時間がかからない。
私のような無精者にはピッタリのサービスだ。もっと早く利用すれば良かったのに(何時からやっていたのかなあ?他のプロバイダーでも同じサービスはあるのか?)。

さてしかし、いざハードディスクが壊れたりした時の復旧操作はどうなるのか?これは試してみるわけにもいかず、即本番ということに相成る。

Photo_182 
近くの植物園は春休みで家族連れで一杯だった。



Photo_183
植木鉢で造った人形
ロボットの埴輪をイメージしてしまう

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2007年3月27日 (火)

「パリ、ラ・クンパルシータ」...ポンピドー・センター所蔵品展から(続き)

前々回、ポンピドー・センター所蔵品展について唯我独尊的な感想を書いてしまったが、調子に乗って若干補完したい。
というのはどうしても気になる作品がもう一つあったのです。アントニ・ミラルダ、ベネ・ロッセル共同制作の「パリ、ラ・クンパルシータ(1973)」。これは、16mmカラー映像(動画、29分)作品である。
私が国立新美術館で実際にその映像を見たのは5分程度だった。銃を構えた兵士の玩具(等身大)がミニ・クーパーの屋根の上に固定されて、賑やかなパリの街を行く。貴金属店やスーパーの中からガラス越しに見え隠れするその姿をカメラが捉える。ただそれだけだが、どういうわけか強く惹きつけられるのです。
あるべきではないモノがそこにある違和感?本物の兵士でなく粘土でできた人形であることによる滑稽感?いや、やはり銃を持つ兵士であることによる緊張感が、最も大きい理由でしょう。
さらに、惹きつけられる原因のひとつは、バックに流れる音楽だ。私が見ていた時はオペラが流れていたが、タイトルのとおり、タンゴの「ラ・クンパルシータ」やポピュラー・ミュージックも流れることになっている。映像作品では音楽はとても重要な要素だ。音楽の種類によって意味づけもできるし、さらに29分は映像だけだと長いが音楽があれば楽に見続けることが出来よう。残念ながら、「ラ・クンパルシータ」が流れる部分を見ていないのだが、解説によると、『作品は滑稽でポップアート的なセンスを見せるが、戦争と平和のアイロニーに満ちている』となっている。
Photo_181
アントニ・ミラルダ、ベネ・ロッセル共同制作
「パリ、ラ・クンパルシータ(1973)」
粘土で出来た玩具の兵士をパリの街中を引き回すところを映像化

映像作品ではもうひとつ面白いのがあった。エリック・デュイケールの「カント(2000、6分)」。大学と思われる場所を背景に、教授風の格好をした作者自身が、ラップ調のリズムに乗せてカントへの下品な悪口を言い続ける映像なのだ。これでもアートなのだ。この展覧会では「マルチカルチャー」と銘打たれていた。
デュイケールは哲学、科学、美術、演劇にまたがる学際的な仕事をしてきており、この作品でも「真理といかがわしさの間で遊びに満ちた探求」をしているのだそうだ。

アートの本質は創造だから、どんなものも「あり」だろうが、どのあたりまで価値が認められているのだろうか?今回のポンピドー・センター所蔵品展はその広がりと方向を知る上で、私にはとても有意義でした。
S_42
国立新美術館ロビーに展示されている
ジャン・ティンゲリー「メタNo.3(1970-71)」
会場外に置かれているが、これもれっきとしたポンピドー・センター所蔵品展の一作品である。
錆びた鉄の構造物が音を立てる...不安や孤独の雰囲気を表現

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2007年3月23日 (金)

モローのガラティア...サロメ...

東京で全く同時期に、パリの代表的な二つの美術館(オルセー、ポンピドー)の所蔵作品の展示が行なわれるなんて美術愛好家には堪らないでしょうね。
私もその端くれとして、嬉々として上京し、2日に分けてゆったりと鑑賞しました。

今回のオルセー美術館展には、マネ、モネ、ゴーガン、ゴッホ、セザンヌ...と、ビッグ・ネームの絵がずらりと展示されていて圧倒される。それら全般について、私ごときが感想を述べてみても、ほとんど意味は無いでしょう。

私にとって、今回の展示の白眉はギュスターヴ・モローの「ガラティア」でした。
そこで、オルセー美術館展から離れてしまうことを覚悟で、モローの作品について書いてみることにした。

先ず、この絵は個人所蔵だとばかり思っていたのに何故、オルセーにあるのか?
この点については、目録の前書きを見て納得した。ゴーガンの「黄色いキリストのある自画像」、マネの「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」、モローの「ガラティア」の3点は、日本経済新聞社が組織したメセナ活動によって最近購入された、とある。
ギュスターヴ・モローについてある程度詳しくなったのは、相当の枚数を見たし、鹿島茂著「ギュスターヴ・モロー/絵の具で描かれたデカダン文学」を熱心に読んだからである。この本には大抵のモローの絵が載っているのだが、「ガラティア」は白黒写真であり、個人所蔵となっていた。だから簡単に見れない絵かなと思っていた。これからは、オルセーへ行けば見れるのだ。

私が初めてモローの絵を直に見たのはもう10年近く前になる。ルーヴルの「出現」だった。この絵は以前から何かで見て知ってはいた。サロメは踊りの褒美にヨハネの首を所望してヘロデ王に斬らせるのだが、この図は後日譚として描かれている。突然現われたヨハネの首に驚くサロメ。その姿は艶かしく、宙に浮く不気味な首と対照的である。一度見たら絶対忘れられない構図です。
Photo_175

「出現(ルーヴル美術館)」






その後、2004年10月にパリの美術館巡りのツアーに行き、オルセー美術館とギュスターヴ・モロー館で多数のモローの作品を見た。
この時、オルセーで見たのは、「オルセウスの首を持つトラキアの娘」。1870年以前ではもっとも重要なモローの作品とされるだけあって素晴らしい絵である。オルセウスは竪琴の名手であり、死に至るまでの悲しい物語があるのだが、ここでは、モローが「ひとりの若い娘が河の流れによって運ばれトラキアの岸辺に流れ着いたオルフェウスの首と竪琴を恭しく拾い上げる」というエピソードを描いたものだと言っていることに留める。ツアーの解説者から丹念過ぎるほどの説明を受けながら、かなりの時間この絵を眺め続けていた覚えがある。この時点ではオルセーには今回の「ガラティア」は見かけなかった。
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「オルセウスの首を持つトラキアの娘(オルセー美術館)」






一方、ギュスターヴ・モロー美術館はツアーに組み込まれていなかったが、モロー・フリークの人が二人居てその人たちに誘われて行ったのであった。ここはホントにすごい。モローの絵が充満していてめまいを覚えそう。他の二人は絵を描く人たちだから、数知れないスケッチまで丹念に見ていた。私は一回り見てから、最も気に入った一枚の絵の前に座って30分以上眺めていた。モロー館の中でも最も見やすい位置に置いてあり、ちょうど良いところに椅子まで用意されていた。その絵は「ヘロデ王の前で踊るサロメ」だった。モロー館はとても照明が暗い。それでもサロメの裸身は光り輝いていた。サロメはこの踊りの後に褒美として王にヨハネの首を所望するのだ。この絵は別名「入れ墨のサロメ」とも呼ばれる。実際には入れ墨でなく、またサロメがすかしの薄物を着ているのでもなく、画面全体がレースのカーテンのようにアラベスク模様で覆われているのだ。官能的な雰囲気を更に高める、モローならではの表現である。
Photo_177

「踊るサロメ=入れ墨のサロメ(ギュスターヴ・モロー美術館)」







そして今回の「ガラティア」。
主催者でもある日本経済新聞に、著名人による「オルセー美術館展 魅惑の一点」という記事が連載されたが、その第1回がこの「ガラティア」だった。作家の高木のぶ子さんが書かれていたが、パリのモロー館も見た経験から、『モローの絵は沢山だと息苦しい。ひとつだけぽつんと光っていて欲しい』と言う。今回の展示では特別扱いのように他の絵から離れて置かれていたし、照明も良かった。そのせいか、海の精ガラティアの裸身は素晴らしく明るく輝いていたし、周りの海草も色彩豊かでとても美しかった。目録の解説によると、モローが描いたなかで、最も優美な裸体のひとつだそうだ。
Photo_178

「ガラティア」
左上の顔は、一つ目の巨人ポリュフェモス。彼の絶望的な恋を暗示している。



ところで、モローの描く女性の裸身には特徴がある。素晴らしく美しいと感じるのだが、エロチックさはあまり感じない。よく見ると、スレンダーで、骨格や筋肉も感じられ、さらに乳房も小さめである。少年的なのだ。けれども、モローがホモ趣味だというのではない、と鹿島氏は言う。そうではなく「両性具有」として描かれているのだ。神話では、人間は原初には男女両性を持っていた。モローは神話に忠実だったし、多分、モロー自身が両性具有的だったろう、という。男でありながら、モロー自身の中にサロメが居た。それだからこそこんなに魅惑的なサロメが描け得たのだろう、という。

モローの絵は、同時代にあっては、画家たちより文学者たちに大きな影響を与えたという。モローの絵は当時の一般的な歴史画を大きく逸脱していたためサロンの評価をなかなか得ることができなかったのに対し、文学者たちは自分たちが文学でうまく描けなかった世界をモローが見事に絵画で表現していることに驚き、大いに賞賛した。そのきっかけになったのが、1876年に発表された、「出現」と「ヘロデ王の前で踊るサロメ」である。
モローは、これらの絵によって、背徳的悪魔的な誘惑の姿を持つ「宿命の女」としてのサロメのイメージを初めて明確に作り上げたのだった。文学者たちを大いに鼓舞し、そして文学史の流れを大きく捻じ曲げ、象徴主義、デカダンス、世紀末文学と言う風潮をもたらすことになったという。

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2007年3月18日 (日)

国立新美術館でポンピドー・センターの所蔵品を見る

国立新美術館は黒川紀章の設計ということで建物自体にとても興味があったし、皮切りのイベントがポンピドー・センターの所蔵品の展示ということで、これは是非とも行かなければと思っていた。
パリへは二度、合わせて8泊し、ルーブル、オルセー、オランジェリー、マルモッタン、中世、ピカソ、モローなど、かなりの美術館を訪れていたが、ポンピドー・センターが抜け落ちていた。同センターは国立近代美術館を擁し、フランスが所有する近・現代美術が数多く所蔵されているが、今回の企画は、「異邦人たちのパリ1900-2005」のタイトルに示されるように、パリに住んだ外国人アーティストの作品を抽出し、展示するものであった。
1900年代初頭のものではモディリアーニの「デディーの肖像」やシャガールの「エッフェル塔の新郎新婦」が良かった。画集で見慣れている画家のものはすっと入れるということもある。しかし画集で見るのと実物とでは印象が随分違う。
展示はほぼ年代順になっており、現代アートに繋がって行くのだが、その推移が一望できるのが今回の企画の特徴でしょう。カンディンスキーやミロも素敵な絵があった。このあたりまでは私も問題無くついて行けるが、それ以降のものはこれまでしっかり見たことは無かったから、新たな体験ないし発見の趣きだった。ポンピドーセンターの真骨頂はむしろ新しいものにあるのだから、そちらをしっかり見るべきだろう。そうは言っても抽象的なものが多いから簡単に理解ができない。そんな中でも印象に残ったものを数点あげてみよう。

先ず、二コラ・ド・スタールの「シドニー・ベシエの思い出」。「コンポジション」もあったが、ぱっと目に入ったのはジャズ・ミュージシャンのプレーする姿だった。そしてその美しい色彩。これを見ていると、同行してくれた友人がド・スタールについて解説してくれた。自殺してしまったことも。なおさらこの絵が脳裏に焼きついてしまった。
帰宅後、ネットで調べてみると最後の未完成の絵も「コンサート」という音楽に関わる絵だったことが分かった。
シドニー・ベシエ(Sidney Bechet)はソプラノ・サックス奏者だが、「可愛い花」の作曲でも有名だ。音楽好きの私としては何とも素敵な絵を見つけたのでした。
さらに、ド・スタールの絵が地元の愛知県に3枚もあることが分かった!
●メナード美術館 (愛知県小牧市)
黄色い背景の静物 1953 黄色い瓶の中の花 1954
●愛知県美術館
コンポジション 1948
Photo_179   
二コラ・ド・スタールの「シドニー・ベシエの思い出」







Photo_172
二コラ・ド・スタールの未完成作品「コンサート」
(これは今回の展示にはありません)


絵画でもう一つ挙げるなら、ヴィクトール・ヴァザルリの「夢/Vボグラー」。この絵は理解しようと努力する必要はないと感じた。ただただ、美しいし、眼の錯覚効果で凹凸が見えたりするのが楽しい。○と□だけで構成されているにもかかわらず、色彩の使い方でこんな効果が生まれようだ。土産ショップにこの絵をあしらったペーパーホルダーがあったので購入した。
695
ヴィクトール・ヴァザルリの「夢」



他にも面白い絵が幾つかあった。例えば、エロ(アイスランド人)の「サン・マルコの毛沢東」。これは、ベニスのサンマルコ広場に何故か毛沢東が現れると言う奇想天外なもの。
更には、ポップアートにも面白いものがあった。
絵画以外ではジャコメッティの特徴ある彫刻が数点あったし、写真も見るべきものが多数あった。
マン・レイの有名なファッション写真「黒と白」を実際に見ることが出来て良かった。ただ、写真は小さいし、色彩が無いこともあり、絵画と一緒に並べるとどうしても見劣りするように思ったが、いかがなものか。

そんな中で、ひときわ大きな、素晴らしい写真があった。オノデラユキの「古着のポートレート」。パリの曇に満ちた空を背景に画面いっぱいに1枚の古着が浮かんでいる。52点の連作のうちのひとつである。
オーディオガイドの説明を聴くと...この古着は、1993年に開催されたボルタンスキーの「離散 / dispersion」 でインスタレーションに使われたもので、世界中から集められた古着を会場に山のように積み上げて、当時10フラン払えば幾らでも持ち帰ってよいということだった。それを使ってこの写真を撮ったと言う。
ボルタンスキーの古着の山はナチの大虐殺をイメージするものなのです。そういう解説を聞きながら写真を見ていると、格別の味わいがあります。
Photo_180
オノデラユキ「古着のポートレートNo.1」





きりが無いのでこれくらいにしておこう。

黒川紀章の建築はこうした現代的な作品の展示にはピッタリのようです。建物の写真も合わせて掲げておきましょう。
Photo_173
国立新美術館の外観
ガラスで覆われた外面はゆるやかに湾曲していて美しい。
この日は曇りで空の色が冴えない。

Photo_174
内部のロビー...大型の水力発電所と見紛う
逆円錐の上は喫茶「VOGUE」
ここのコーヒーと菓子は美味しい。

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2007年3月13日 (火)

日経の日興上場廃止記事について

東証の判断は上場継続だった。日経の報道は極めて断定的だったから、上場廃止を前提に動いた株主や顧客が多かったと推測される。
顧客(吹けば飛ぶような)の一人としてどうすべきか大分あれこれ考えていた。「分別保管で顧客資産は守られています」というパンフが送られてきたりすると、逆に心配になったりする。以前に自己廃業した山一の時はどうだったか、などと思い起こしてみる。もっとも、日興は山一の受け皿としてできたようなものだから、山一の顧客がそのまま日興に居るケースが多いらしい。
信用力が低下して思うように業務が出来ないようなら、顧客としても妙味は無い。しかし、シティ・グループの支援話が浮上して、なんとか最悪は免れそうだし、逆に顧客サービスが多様化して面白いかもしれない、と考え得る状況になった。

上場廃止必至から上場継続に、状況は反転。シティ支援の話しはどうなるのだろうか?日興株を大量に買い占めた外国のファンドの動向は?顧客としてはどう考えればよいか?
そもそも、日経の報道が早すぎたのではないか?その後の内外の大きな動きで、東証が判断を変えた可能性もある。いずれにしても、日経は誤報のそしりを免れないだろう。今日の紙面で言い訳が出ていた。東証幹部は廃止の方向を確実に示唆していたと言うのだが。大げさに言えば日経の報道は歴史を変えたかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先週、名古屋市農業センターの「しだれ梅まつり」に行って来た。月始めに行った人たちから既に満開だったと聞いていたから覚悟はしていたが、「落花盛ん」という看板を眼にするとさすがに気勢がそがれた。それでも700本もしだれ梅があるから、まだしぶとく花を残しているものもあり、なんとか写真に納めることが出来た。
それにしても、しだれ梅はどこにピントを合わせればいいのか?
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2007年3月 7日 (水)

きねこさ祭り...今年は豊作&大吉

尾張三大奇祭のひとつ、「きねこさ祭り」が行なわれる七所社は、名古屋市の西端、中村区岩塚にある。そんなに規模は大きくないが、千年以上の歴史がある由緒ある神社である。日本武尊が東征の途中、渡船を待つ間、暫し腰掛けたという「日本武尊腰掛岩」が社殿の東に鎮座している。応永32年(1425年)に社殿を改造し、同時に熱田7社を祀って社号を七社とし、これが「七所社」の名の由来となった。

きねこさ祭りは、毎年旧暦1月17日に、厄除け、子孫繁栄、天下泰平、五穀豊穣を祈念して行なわれる祭礼である。「きねこさ」とは、祭りに使用する祭具の「きね(たて杵)」と「こさ(杵からこすり落とした餅の意)」のことであるという。祭礼時の衣装・祭具の形状が鎌倉時代の特徴を残しているので、この頃には既に現在とほぼ同じ形で祭礼が行なわれていただろうと、社の案内には書かれている。

きねこさ祭りの当日、3月6日は、前日までの異常なほどの暖かさと打って変って冷たい北風が吹きすさぶ寒い1日となった。昼少し前に写真の仲間と神社に到着すると、既に境内は大勢の人で賑やかだった。お参りを済ませると早速、お目当ての「川祭り」の撮影ポイントに移動することにした。
神社のすぐ横に庄内川が流れているが、河口に近いこともあり、川幅は100m以上はありそうだ。残念なことに、高速道路が神社脇を通り、河を横断しているし、送電鉄塔もあり、景観的には良いとは言えない。
「川祭り」の行事は、神社のすぐ横の庄内川で行なわれる。後厄(42歳)の男性10名と厄年の子供2名の12名が祭礼の中心で役者と呼ばれているようだ。彼らは3日間の潔斎を経て当日を迎える。12時半、大きな笹竹を持って庄内川に向かい、川の中ほどで、これを立て、一人が登り、竹が折れ倒れる方角でその年の吉兆を占うのである。
神社側の岸辺は見物人が多く、撮影が難しいから対岸へ行こうと、写真仲間のリーダーから提案があり、猛烈な風に吹き飛ばされそうになりながら、橋を渡る。土手の上は見晴らしが良いが風が強くて30分待つと凍りつきそうなので、川原に降り、枯れ葦を掻き分けて、水際まで進出した。葦の陰で少しは風が防げ、我慢できそうだった。
昨日の雨もあり、川の流れは滔滔として、怖いくらいの勢い。こんなところへ入るのは危険ではないかと言うと、リーダーからは見かけとは違って浅いから大丈夫と言う返事。岸辺にはゴムボートも持ち込まれ、消防団のような格好の人たちが来て、水中を点検し始める。なるほど岸辺こそ深いところもあるが、中程は意外に浅いようだ。目印のポールを2本立てた。安全対策も怠りない。
急速に人が集まり始め、黒い礼服を着た人たちも数人出てきた。やがて白装束の役者たちが現われ裸になり、ワッショ、ワッショと気合をかけながらみんなで笹竹を抱えて水の中へ。たちまち川の中ほどに到達。2重2段の円になって笹竹を立てて支えると、ひとりが登り出す。登るにしたがって笹竹は大きくしなる。あっと思った瞬間に笹竹は折れて、役者は水中へ。大きな水しぶき。笹竹の折れ具合をみんなで高らかに声をあげて岸辺の衆に指し示した。とてもスピーディーに事が運んだ。
神社に戻ると、彼らは本殿に並んで報告をする。神社前の大きな看板に、「本日の庄内川川祭り/竹は南東に折れました/今年は豊作(大吉)となるでしょう」と出ていた。
祭りの方は、この後、14時古式行列、15時本祭り(祝詞奏上、舞い奉納)、15時半~厄除け(役者の持った祭具に触れると厄除けが出来る)と続く。
我々は川祭りの写真が目的だったので、社を後にして、近くの中華料理屋へ行き、熱い五目ラーメンを食べながら団欒した。

小振りではあるがとてもユニークな祭りであることが確認できました。

Photo_160Photo_158七所社本殿と祭具の陳列 




Photo_166川祭りが行われる庄内川の全景。橋は万場大橋。 
対岸から見たところ。神社は土手の向こうに見える森の辺り。
12時時点ではほとんど人がいない。
かなり遠いので100~400mmの望遠ズームを使うこととした。
Photo_16712時15分。安全確認が始まる。
続々と人々が神社境内から移動してくる。



S_40Jpg_3 
役者登場→いざ突入



Photo_159
笹竿を立ててひとりの役者が登り始める 



笹竹は大きくしなり→折れて役者は落ちる
→折れた方角をみんなに示す


Photo_161Photo_162Photo_163




Photo_165Photo_164本殿に戻って来た役者たちは報告する。
この時点では「豊作」となっているが、後ほど太い字で「大吉」に改められていた。

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2007年3月 5日 (月)

尾張三大奇祭って?

尾張には奇妙なお祭りが幾つもあるようだ。
3月2日には国府宮のはだか祭りが行われたが、私も友人たちと厄払いのお参りに出かけた。本番のはだか男たちがもみ合う四時半ごろは混み合って大変だから2時間ほど前にお参りをした。既に境内と参道はぎっしりと人の壁。町内ごとのはだか男の小集団が練り歩くのを見ていた。後にニュースで見ると最終的には人出は15万人、はだか男は9500人だったとのこと。

はだか祭りは御馴染みだったが、変わったお祭りは他に幾つもあって、「尾張三大奇祭」という言い方もあるようだ。ネットで調べたところでは、諸説あるが、次の三つが大勢か?

1 稲沢市(国府宮)の尾張大国霊神社の「はだか祭り」
 正式には「儺追(なおい)神事」と呼ばれ、千二百年以上の歴史がある。尾張大国霊神社(国府宮)で、下帯一枚の裸男達が神男(しんおとこ)に触れて厄を落とそうと、勇壮なもみ合いを繰り広げる。旧暦の1月13日に行なわれる。

2 中村区岩塚町七所社(ひちしょしゃ)の「きねこさ祭」
 千年以上前から伝わる厄よけと豊作を祈願する祭りで、名古屋市無形民俗文化財にも指定されている。『川祭り』『古式行列』『本祭り』『厄払いの神事』の行事があるが、『川祭り』は、神社の傍の庄内川の中で後厄の12人の役者が笹竹を立て、役者の一人がよじ登り竹の折れた方向で今年の運を占うもので、これが奇祭とされる所以である。旧暦の1月17日に行なわれる。

3 熱田神宮の「歩射神事」
 朝廷で行われた新春の歩射の神事にならい、豊作と除災とを祈る特殊神事。裏に「鬼」と墨書きされた美濃紙でできた直系1.8mの的を神楽殿前に設置し、6人の神職が的めがけて白羽の矢を2本ずつ3回放つ。魔よけの的の中央には木片「千木(ちぎ)」が取り付けられており、千木や的の切れ端はお守りになる。毎年1月15日に行なわれる。

そのほかに、下記を入れる場合があるようだ。
4 犬山市の尾張冨士大宮浅間神社の「石上(いしあげ)祭」
 毎年8月の第1日曜日に、犬山市域、近郊各地から人々が集まって尾張冨士に石を献ずる祭り。昔、尾張冨士が隣の本宮山より低いことを嘆いた御祭神(木花開耶姫命)の神慮にこたえようと村人達が大石を山頂に積み上げたのが始まりといわれている。山頂に石を積む「石上げ」は朝から行われ、夜は火をつけた松明を振り回しながら山頂から麓まで降りる「火振り」が行われる。祭りの起源は近世末期と推定され、詳細は不明だが、石上げは大正時代に盛んになったこと、火振りは寛永時代には行われていたことなどがわかっている。
(上記祭りの説明はネットからの引用です)

世の、三大・・・、五大・・・は異説が付き物。こだわることことはないでしょう。いずれも甲乙つけがたい奇祭であるということでしょう。この眼で確かめるのが一番。明日は2の「きねこさ祭り」の日だ。カメラを持って出かけるぞ!

S_39これは本番の2時間ほど前の状況。
町内ごとの小集団が練り歩き気勢を上げる。


はだか男たちのもみ合いの様子を伝える新聞記事;
http://www.chunichi.co.jp/flash/2007030201000607.html

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2007年2月28日 (水)

「横尾忠則70歳のY字路」を見て

2月23日のNHK「にんげんドキュメント」で、『老人宣言~横尾忠則70歳のY字路』が放映された。自ら老人宣言した上で新しい生き方、創作活動を模索して奮闘する氏の姿を捉えたドキュメントである。
私にとって横尾忠則はずっと、気になるアーティストだったから、この番組もとても興味深く見、70歳を超えても創作への意欲が全く衰えない姿に感動した。
私が横尾忠則の名を初めて知ったのは、サンタナのレコードのジャケットからだった。彼はサンタナのために2枚のレコードジャケットを製作している。「ロータスの伝説(1974)」と「アミーゴ(1976)」である。この時期のサンタナの演奏は「興奮と官能」という言葉が当てはまるが、ジャケットも見事なまでにその感覚を表現していた。

それ以来、時々本屋で彼の画集を覗いたりする様になったが、美しいし、面白いが、おどろおどろしたところもあり、時にはたじろぐこともあった。
そんな中で特に強烈なインパクトを受けたのは、「アンリ・ルソー《眠るジプシー》より(1967)」だ。ジプシー女をライオンが食べてしまうという禁断のモチーフである。1月17日付けのブログに書いたが、名古屋で開催されたルソー展で横尾忠則のこの絵に対面でき、改めて横尾というアーティストへの関心が湧いてきたところだった。
しかし、気にしながらも積極的にフォローはしていなかったので、ここ数年「Y字路」をモチーフとした創作に打ち込んでいることは知らなかった。「Y字路」とは!...なるほどピッタリかもしれない。

Y字路というのは、私自身のイメージでも特異なものです。同じ分岐点でも十字路はあっけらかんとして何も感じないが、Y字路は二股の先は何処へ行くのか妙に気になる。一寸した角度の差しかないから、どちらを選んでも良さそうだが、実際に何度も経験しているが、それぞれとんでもないところへ行ってしまう。そしてその分岐点の角にある建物は例外なく不思議な形をしていて、Y字路ごとの特徴を作り出している。全体に「得体の知れなさ」を感じさせます。

横尾忠則氏はY字路を作品にとりあげるに至った経緯について、次のように言っている。
『子供の頃よく通っていた郷里の模型店をある夜訪ねた。この店はY字路の鋭角部分にあったが、すでに壊されてまるで見知らぬ場所のように見えた。とりあえずその場所を写真に収めた。(中略)私物化していた想い出の場所はどこにでもあるただのY字路に変容してしまっていた。その時ぼくは「これだ」と思った。従来の作品はあまりにも私意識が強すぎた。個人的であり過ぎたのである。もっと普遍的な個であるべきだとこの時悟った。それ以後Y字路はぼくの重要な主題になった。 』

Y字路は彼に無限の想像力を湧き出させるようで、既に実に多くの「Y字路」のバリエーションを描いている。老人宣言をした今、楽しみながら創作に打ち込める格好のテーマのようだ。放送の中で見た製作中の大作には、Y字路の背後に昔懐かしい「怪人二十面相」の巨大な姿が描かれていた。このテーマに向き合うと童心に帰る事ができるのでしょう。

新しいY字路のモチーフを見つけるために全国津々浦々を回り、これからは外国も回るという。まだまだとんでもないバリエーションを我々も楽しめそうだ。

Y字路の絵とはどんなものかは、次のホームページで見ることが出来ます。
http://www.1101.com/yokoo_tamori/y_joro.html

Photo_156 SANTANA/AMIGOS(1976)のジャケット
「ロータスの伝説」の方は、最近、紙ジャケの復刻版が出たようなのでそのうち手に入れようと思っている。

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2007年2月24日 (土)

トンチン年金...長生きリスクの対応

あるエコノミストが「トンチン年金」のような保険があってもいいと提案していた(2/19 日経新聞)。
トンチン年金そのものは、平凡社の百科辞典によると、
『17~18世紀のヨーロッパで広く行なわれたもののようだ。Lorenzo Tonti がフランス財政改善のために建策した年金制度だった。
国庫に資金を提供するものに対し、元利の支払いに代えて年金を与えるもので、出資者を年齢群ごとの集団に分け、集団の応募総額を元として利息額に相当する分をメンバーに年金として与える。集団構成員が死亡すると生存者にその分が分配される...集団の元金総額は変わらないから生存者は年々年金が増え...最後に残った一人は年金を独り占めできる!...その集団の全員が死亡した時点で出資金は国家のものとなる』

リタイアした老齢者にとって最大のリスクは、突然死ぬことでも、大病を患うことでもなく、思いがけずに健康で長生きしてしまうことなのだ。
早めに突然死ぬことは遺族に財産を多目に残す可能性が大ということであり、最も好ましいことかもしれない。病気にしたって、あるだけの貯金で対応するしかないのだ。高額の治療費をかけて1日でも長生きしたいとは思わないのではないか。医療保険に加入するのもあまり意味がないように思う。貯金を右から左に動かすようなものだ。
それに対して、思いがけずに長生きするかもしれないリスクは深刻だ。先ず計画が立ちにくい。70で死ぬのか、はたまた90まで生きるのか。さすれば、蓄えは温存せざるを得ない。その結果、元気なうちにやっておきたいことにも資金は回せない。

トンチン年金的な保険がもしできれば、少ない資金で長生きリスクに対応できそうに思える。早く死ぬ人はお金を寄付してくれるようなものだから。
そうすれば思い切ってお金を使っていろいろのことができるだろう。

ここまで書いたところで、今朝の日経にまた、トンチン年金のことが載っているのに気がついた。経済産業事務次官が大手保険会社に声をかけて回っているという。案外早く実現するかもしれない。

このような長生きリスクの問題と共に、日本の高齢者層には、死ぬ時にはできるだけ多くの資産を残すと言う考え方...これを「王朝仮説」というのだそうだ...が根付いていると言われる。いずれにしても、先の事務次官の動きは、滞っている高齢者の資産(タンス預金だけで20兆円ある)を経済活性化のために解き放ちたいがためのようだ。

S_38植物園の舟池。
春のような暖かい午後の陽射しの中で、屈託の無い鴨たちを眺めていると平和な気分になった。

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2007年2月18日 (日)

「見立て三酸図」...美人画ですよ

前回の続き。
講演で取り上げられた鳥文斎栄之の浮世絵「見立て三酸図」について、解説してみよう。

先ず、水墨画の世界には古くから、「三酸図」という良く知られたテーマがある。3人の聖人が桃花酸をなめて眉をひそめる図である。聖人として、儒の蘇軾、道教の黄庭堅、僧の仏印が描かれる場合と、孔子、老子、釈尊が描かれる場合があるようだ。
どういう意味があるか?以下はあるホームページから引用させてもらった。
『三人の聖人、すなわち釈迦と孔子と老子が、缸に入った酢の味見をしている画で、釈迦はそれを「苦い」と言い、孔子は「酸っぱい」と言い、老子は「甘い」と言うのです。それぞれの聖人の人生観を酢の味に喩えているのですが、この世を苦しみに満ちた世界と観る釈迦、神や死後を説かなかった実際的な孔子、自然に則った耽美主義的な老子、とそれらは解釈されています。体調によって酢の味が変わることがあるように、この喩えはとても面白いものだと思います。中でも老子の人生観は藝術的で、文人の生き方に適ったものでありましょう。この世を甘美で幸福に満ちた場所と肯定的に捉え、長寿を全うし人生を享楽して行こうという姿勢です。』

次に「見立て」である。江戸時代の芸術創作上の趣向のひとつである。江戸文芸全般に及んでいるが、とりわけ歌舞伎にはこの手法がよく用いられる(説明省略)。
浮世絵における「見立て」の意味は、歴史上の人物など、周知の姿の特徴を、そのまま当代の美人や若衆などに置き換えて描く手法である。歌舞伎の有名な場面を見立てた浮世絵も多い。(なお、役者が実際には上演していない役を上演したものに見立てて,その似顔を用いて描く手法もある...空想舞台の趣向)

さて、本題の鳥文斎栄之の浮世絵「見立て三酸図」である。
美人画絵師栄之の真骨頂。この絵には、楊貴妃、小野小町、当代美人(花魁)の3人が登場する。そして、3聖人よろしく桃花酸をなめるのである。天下の美女にすっぱい顔をさせて、楽しむ趣向だが、バックグラウンドに周知の3聖人の崇高な姿が重なり、さらに面白味が増すというわけである。この絵では勿論、当代美人が最も美しく描かれ、着物も豪華(牡丹の絵柄)である。
この絵が載っている本を探してみたけれど見つからなかった。しかし、下記ブログに載っていますので、ご覧になってください。
http://d.hatena.ne.jp/eco1/searchdiary?word=*%5BArt%5D

・・・・・・・・・・・

講演では、昨年開催されたボストン美術館所蔵の浮世絵による展覧会「江戸の誘惑」に展示された浮世絵の中に描かれた植物がとりあげられた。
重要な道具立てとして、背景として、あるいは着物の柄として実に多くの花、草、木が描かれているのです。
講演ではたくさんの浮世絵をスライドで写し、絵の意味と描かれている植物が何かを克明に解説して頂いた。本題は植物のはずですが、結果として浮世絵鑑賞会の趣で、私にとっては浮世絵再発見の機会になりました。講師に感謝したい。

S_37 ある椿展の逸品です。

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2007年2月15日 (木)

ハシリドコロ...シーボルト事件

東山植物園長による「人と植物、その深いかかわり―絵画表現を中心に」という、とてもユニークな講演を聴いた。
浮世絵を中心にした日本絵画に見られる草木花の表現から何が読み取れるかを、講師の鋭い洞察力と博学によって解説して頂くものである。
数多くの事例について紹介頂いたが、その中で特に印象に残った2点について、書いてみよう。今回のブログはその1.

ハシリドコロという奇妙な名前の植物がある。これがシーボルト事件(1828年)と関係があるのである。
次の絵は、シーボルトと交流があった、水谷豊文(1779~1833)という尾張藩士で博学家が描いた「ハシリドコロ図」である。
百科事典によると、ヒヨス、ベラドンナと並ぶ著名なナス科の有毒植物。根茎はロート根という生薬となる(ロート製薬の名の由来でもある)。有毒成分は複数のアルカロイド。
Photo_153




土生玄碩(はぶげんせき)という安芸国の眼科医は杉田玄白塾を出入りしているうちに名が知られるようになり、幕医として抜擢された。玄碩は、江戸長崎屋に逗留中のシーボルトを訪ね瞳孔を散大させる薬を所望したところ、最初は快く分与してくれたが、次回は断られた。窮余の策として葵の紋服と交換で所望したところ、日本にもあることを教えてくれた。それがハシリドコロであった。シーベルトが持参していたのは西洋で古来から知られていたベラドンナであった。しかし、勘違いしたハシリドコロにも同じ効能があったのである。
この経緯の中で水谷豊文の絵が直接登場したのかどうかは説明がなかったが、多分そうだろう。1828年、シーボルト事件すなわち洋学者弾圧事件が起こる。日本地図を提供した高橋景保は死罪。葵の紋服を渡した土生玄碩は改易の処分および家財没収。シーボルトは国外追放となった。

土生玄碩は罪を犯したが、日本の医学界にハシリドコロの効能を知らしめ、大きな貢献をしたとも言える。
Photo_154
こちらはベラドンナ。同じナス科だからよく似ている。
ベラドンナは古くから「悪魔の草」として、その強い毒性が怖れられていた。悪魔や魔女はことのほかこの毒草を愛で、これを使って人を殺め、体に塗って空を飛んだと、言い伝えられている。
ベラドンナはイタリア語の「美しい淑女」の意。ベネチアの女性たちは汁を点眼し眼を美しく見せるのに使用したからだ。ボルジア家の時代に毒殺に何度も使用されたことでも有名。(平凡社百科事典より)

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2007年2月12日 (月)

見えてきた暗黒宇宙...ACC講座より

ACCの講座「見えてきた暗黒宇宙」は大盛況だった。テーマの所為か受講者は大半が男性でした。講師、名古屋大学杉山教授の講演は明快でユーモアもあり、2時間があっという間に過ぎた。とても難しい内容にもかかわらず、エンターテインメントに接したような楽しい気分が残った。スライドにアインシュタインの写真が登場するのは当然だが、何故かダーク・ベーダーの姿が出てきたり...
宇宙論は中学生の頃、叔父からもらったジョージ・ガモフの本を読んで以来、大好きで、ある程度知っているつもりだったが、最新の知見に触れ、改めてその謎の深さ、面白さを感じたことでした。
講座はタイトルの暗黒部分の話だけでなく、イントロとして見える部分も含め、全般的に話しがあった。

現時点で分かっている宇宙の全体の構成は、
  ダークエネルギー;74%
  ダークマター;22%
  元素;4%(その内、輝いているのは僅か1%)
だそうだ。要するに、宇宙には見えない物がいっぱい詰まっているのだ。(相対性理論では「エネルギー=物質」であることを思い出してください)

ダークエネルギーというのはとても理解が難しい。「反重力として働く、真空のエネルギー」であると、もらった資料には書いてある。それはさて置いて、宇宙が膨張していることは周知のことだが、最近それが加速していることが分かった。重力(引力)だけなら減速膨張のはずで(やがて停止することになる)、加速しているということは斥力(これをダークエネルギーと言う)が湧き出ていることになる。加速の度合から74%という数字が出てくるらしい。
それでは、どうやって膨張の加速が分かったか?星が爆発する時に生じる強い輝き=超新星を標準ランプとして使うのだという。それぞれの銀河はどのくらいの距離にあるかは分かっているので、ある銀河で生じた超新星の明るさが、一定速度で膨張している時にその距離で想定される明るさより明るいか暗いかを観測すれば分かるのだ。
これ以上ここで説明するのは不可能だ。杉山教授は壇上で加速と減速をご自分の体を動かすことで説明してくれました。加速というのは、始めはゆっくりで最近急に早くなったということを。

ダークマターというのも見えないものなのだが、こちらは物質のようなのだ。元素ではない別の新粒子かもしれないという。これも観測によって存在が確かめられている。
例えば銀河は回転のために渦巻状に見えるが、この回転を仔細に調べることで銀河の中にはダークマターが詰まっていることが分かるのである。
もし見える星やガスだけで構成されているなら、惑星系のように外側部分ほどゆっくり回っているはずであるが、実際は外側に行ってもあまり遅くならないのだそうだ。密度が濃いほど剛体の回転に近い運動をするから、見える星やガスだけでなく、何かがぎっしり詰まっている証拠なのだ。

さわりの部分だけ要約してみたが、これを読んでも多分分からないでしょう。
私自身、とても理解したとは言えないが、ただ、タイトルの「見えてきた暗黒宇宙」と言うとおり、観測によって、本来見えないものの存在が確実に立証されつつあると言うことは分かったし、またそれをやり遂げる最近の宇宙研究者たちは凄い、と改めて感心しました。

なお、講座の中で、宇宙の構造を可視化するソフト「mitaka」の紹介があり、早速ダウンロードしてみた。結構遊べそうです。
   フリーソフトmitaka  国立天文台、4次元デジタル宇宙プロジェクト提供
   http://4d2u.nao.ac.jp/t/index.php

Mitaka1
「離陸」と指示すると、地表から飛び立ち連続的に俯瞰できるようになる。
星の位置や数は全て実際に合わせてあるのが凄い。
地球→太陽系→銀河→銀河宇宙と、どこどこまでも行ける。
Mitaka2

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2007年2月 2日 (金)

ニューヨークの摩天楼に想いを馳せる...テレビ塔のスカイバルコニーにて

ACC講座までの時間調整で、名古屋のテレビ塔に登ってみた。勤め先がすぐ近くだったから、毎日のように眺めていたが、登ったことはただの1度だけ。それも30年ほど前のことである。

資料によると、1954年6月に日本最初の電波集約塔として建てられた。高さは180m、地上90mに展望台、100mにスカイバルコニーがある。設計者は内藤多仲で、赤白に塗ることに法律で決まっていたが、強く反対して銀色で押し通した経緯がある。
2011年にはアナログ放送が終了し、電波塔としての役割を終えるが、久屋大通公園を中心とした街の活性化のため、昨年リニューアルされた。

この日は気持ちよく晴れた暖かい日であったが、遠くの方は霞んで若干見通しが悪く、御岳はおぼろに、何とか確認できた。
当然の如く、先ず名古屋駅の高層ビル群を写真に撮る。もう見慣れているはずだが、ここから見ると、その高さが際立ちます。もう2~3棟あれば、凄いだろうな、などと想像をめぐらす。
眺めているうちに、俄然ニューヨークの摩天楼を見に行きたくなって来た。米国はワシントン、サンフランシスコ等へは仕事で行ったが、ニューヨークはまだ見ていない。昨年11月のインド旅行の時、機内で読むために「錯乱のニューヨーク(レム・コールハース)」という本を持って行ったのは、次かその次はニューヨークと思っていたからだ。
この本は、マンハッタンの超過密文化がいかにして、摩天楼を生み出し、発展させて行ったかを豊富な図版と共にエキサイティングに描いたものです。
解説によると、20世紀において建築に関わる本で最も影響の大きかったのは、ル・コルビュジェの「建築をめざして」だと言われてきたが、「錯乱のニューヨーク」はそれに次ぐものと言ってよいのではないか、と言う。
この本の内容...つまりマンハッタンの摩天楼を生み出すエネルギーは何なのか?...をシンボリックに示す絵が表紙に掲げられています。
Photo_148
決して読みやすくはないが、史料価値の高さは無頼。絵を見ているだけでも楽しい。






100mの高みから下を見下ろすと、オアシス21の「水の宇宙船」と呼ばれる大屋根が眼に飛び込んで来た。水が満たされた大屋根の明るいブルーと、地下公園の深海のような暗い青の対比が素晴らしく美しい。早速カメラを向けると、その水の大屋根の上の若い二人がこちらにカメラを向けている。期せずしてシンクロナイズしてしまった。
S_31




2101s




2102s

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2007年1月31日 (水)

海外旅行の定(停)年は何歳か?

私は2004年6月に63歳直前で退職した。まだ、働けないことはなかったが、折角得た自由だし、何よりも老化に伴って感受性が失せてしまうのが怖かったから、やりたいことを今の内にやっておこうと思った。
そして70歳まで、年2回、海外へ旅行しようと決めた。

何故70歳か?漠然と、体力的にその辺が限界だろうと考えたのです。
年2回というのは、資金的なこともありますし、犬を飼っているからあまりしょっちゅうでは可哀想だからというのも大きな理由です。
実績はどうかというと、2004/10「パリ8日間」→2005/8「ドイツ北東部15日間」→2006/5「スペイン15日間」→2006/11「インド13日間」→2007/4「?」。
これらのツアーを通じて分かったことは、70歳を超えても病気さえなければ大丈夫そうだということでした。
これらのツアー参加者の最高齢は、
パリ;72歳(男)ドイツ;82歳(女)スペイン;70歳(男)インド;79歳(男) 特に、インドはこの外に75歳が4名ほど居て、私など正に青二歳。

ドイツ旅行の記録をひもといてみると、次のように書いてあります。

『最年長は82歳のIお婆さん。腰は少し曲がっているしホントに大丈夫なの?と思ったけれど、全行程ちゃんとこなしましたよ。山の上の城にも行きましたし。さすがに最後のベルリンの自由時間はホテルに帰りましたが。去年から娘と二人で旅行しているけれど、それまでは一人旅だったらしい。

60歳から海外旅行を始めたというからもう22年のベテランです。冷戦時代に東欧を回り苦労した話しなどを聞いていると、尊敬してしまいます。

『インド旅行の最高齢者Wさんも尊敬に値します。79歳にして全くかくしゃくとしています。それが肉体だけでなく、頭の方も。ビデオが大好きで、旅行中は全部ビデオで撮影。こまめに音声で説明を入れますし、途中でインド伝統音楽のCDを購入、バックグラウンドに入れるとのこと。文字を入れたり、合成したり、帰ってからの編集が大変なのですよ、1ヶ月は楽しめる…とおっしゃっていたのが印象的でした。私の撮った写真を少し送ってほしいということでしたが、それもビデオに取り込むらしいのです。』

また、70歳代の方たちの嬉々として旅行を楽しむ様子を見ていると、年をとると感受性が失われていく、などということは全く心配は要らない。
そういうわけで、海外旅行に定(停)年は無い、と思うようになりました。

こんな話を書いたのは、梅田望夫さんが、年末に書かれた「サバティカルの決意」を読んだこともあります。
イチローが言っているらしいのですが、『スポーツ界において「環境や設備」が大きな進化を遂げているのに、選手寿命が同じというのは退化しているのに等しい。僕ら現役選手は壁を乗り越えねばならない。選手寿命が40歳から50歳に延びるということに何ら不思議は無い』...多分、イチローは50歳200本安打を目標に据えているだろう。
そして、梅田さんが言うには、イチローが「50歳」なら、私たち「知的生産のプロ」は「90歳」と目標設定すべきではないかとあるとき考えた...

《梅田さんは、それまで持っていたアーリー・リタイアメントという考え方に代えて、5年以内にサバティカル(=研究のための長期休暇)を取ることを宣言された。その後のことはサバティカルで考えたことによって決めるとのこと。そして、そう決意したことで、再びエネルギーが湧いてきたという。》

年齢が嵩むことで萎縮することは止めよう。目標設定は前向きに!そしてそれに向かって突き進もう!

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2007年1月28日 (日)

川鵜はなかなか“お洒落”

何か良い被写体がないか、探索がてら森林公園へ行ってみた。併設のゴルフ場の方はよく訪れたが、車で10分の至近距離にありながら、公園を散策したことはなかったのです。ウォータンの散歩に連れてくることも想定して。
この時期だから花は期待できないので、野鳥でも撮ろうと思ったが、あまり収穫が無かった。渓流風に造られた水生園でカワセミだろうか、鮮やかな青い鳥を見つけてカメラを向けたが遠すぎて点にしか捉えられなかった。近づくとすっと逃げてしまうし。400mmの望遠を今度持ってきて再チャレンジしよう。
岩本池の奥の方に行くと、とてもにぎやかな声がする。ナンだろうと思っていくと、川鵜がコロニーを作っているのでした。池の向こう側の大きな樹木に巣がいっぱい架かっている。樹木は葉が落ちて丸裸。後で、管理人のオバサンに聞くと、糞で枯れてしまったのですよ、とのこと。
Wikipediaを参照すると、次のような記事が載っていた。

《分布拡大による問題点》
川鵜の糞には多量のリン酸が含まれており、富栄養状態となったコロニーの樹木を枯死させ、採餌場所の水質の悪化を招く。琵琶湖の竹生島などでは、川鵜の糞害による環境破壊が大きな問題となっている。近年では河川の上流にも進出し、漁協などによって人為的に放流された鮎やアマゴなどの漁業被害も深刻である。
一方、愛知県知多郡では古くに糞が農業肥料用に重用され、町の財源を潤した。その代価で小学校が建設されたこともあり、現在でもカワウは町のシンボルである。美浜町の繁殖地「鵜の山」は国の天然記念物。

そうだったな、川鵜も嫌われ者になって来たか。コロニーを作っているところは写真では見たことがあったが、実際に見たのは初めてだった。60~70m離れているので、糞などは眼に入らないから、そんなに汚い感じはなかった。それより壮観というべき。大きな樹木が3~4本、彼らに占領され、枝には巣が鈴なり。時折、巣から飛び立ち、水面上を悠々と飛び回る。野鳥観察用の穴あき塀から、随分長く見とれていた。

そう言えば、ここ1ヶ月の内に、3箇所で川鵜の写真を撮ってしまった。意識したわけではない。何処へ行っても居るという事なのです。
以下に、その3点を示しましょう。自慢ではないが、三者三様の写真です。
なんだか、川鵜に愛着すら覚えます。

Finals_11月15日落合公園にて撮影。
20mほどの至近距離で撮影できたので、色や形が鮮明である。
結構、お洒落なことが分かった。


S_291月16日堀川運河で撮影。
極彩色の船を撮ったらたまたま手前に川鵜が写っていた。
期せずして絵画的な写真になった。


S_301月24日森林公園岩本池にて撮影。
落ち着いた緑の中に数本だけ鵜が咲いた木がある。

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2007年1月25日 (木)

Windows Vista をどう考えるか?

NHKのクローズアップ現代で、Windows Vista の話題をとり上げていた。30日が日本の発売開始だが、順調に売れるだろうか?

NHKの視点は、寡占化された状態で、企業(マイクロソフト)側の論理で一方的にバージョンアップすることの波紋である。
最も影響が大きいのは旧バージョンOSのサポート(ウィルス対策など)がなくなることである。Xpも2年後にはサポートを打ち切ると、マイクロソフトは当初言っていて、それならイヤでも Vista に切換えなければならなくなる。
ところが、機能が大幅に高度化されているため、ハードの方の要求も高くなり、現在使っているパソコンにVista をインストールすことはほとんど不可能なのだ。
このことはNHKでも確認し、マイクロソフトの責任者にインタビューすると、事も無げに「パソコンは同時に買い換えてください」と言う。これではいかにも『消費者不在』である。

NHKの取材の中に出てきた岐阜県の学校では、Windows Meを未だに使っているそうだ。相当の台数を一括購入したものと思う。
サポートはとっくに無くなっているから、インターネット接続や、メール送受信にはいろいろ制約を課して生徒に使わせていて、かなり不便そうだし、かわいそうに感じた。
一方、リナックスを導入した自治体もあるが、国等の公文書類はウィンドウズ・ベースで作られているからリナックス・マシンでは読み込めなかったりするらしい。ウインドウズから逃れることもままならない。

一方、個人ユーザーを中心に、「パソコンは1~2年で買い換えるもの」から「壊れるまで使うもの」に意識が変わりつつある、とNHKは報じていた。言わばパソコンも家電化して来たのである。これは性能が充分にアップしたことの裏返しでもある。

このような情勢をマイクロソフトも察知したのでしょう、番組の中でマイクロソフトはXpのサポートを2年後以降も継続するとコメントしたのである。今回のインタビューの成果だと、NHKは強調していた。

我が家のパソコンはXpの最初期のもので、どうしようか考えていたところだったが、Xpのサポートが延長されるなら、慌てることはないと、安心した次第。
今の状態ではほとんど問題は無いが、前回の記事のCapture NXはとても重いソフトで動きが悪いのが気になるので、メモリーを増強するくらいなら買い換えた方がいいかな、と思っている。
ところで、NTTの方からセキュリティ対策ツールのWindows Vista 対応は遅れるとの通知があった。まだまだ、世の中は Vista 対応が出来ていないようだ。

一方、証券会社では、「エルピーダメモリ」の買いを推奨している。Vista 移行により、パソコンのメモリー需要が大幅に増えると言う連想らしいが、実際のところはどうなのだろうか?

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2007年1月23日 (火)

写真が面白くなってきた...RAWモードを使おう!

デジタル一眼レフカメラ(ニコンD80)を使い出してから4ヶ月目になる。ようやく操作方法が分かってきた段階である。
以前は何でもオートで撮っていたが、最近は、「絞り優先」にして被写界深度(ピントの合う範囲)を考えながら絞り値を決める撮り方が基本になって来た。
また、被写体により露出補正も行なうようになった。ニコンD80は普通に撮ると、露出オーバー気味になることが多いことが分かってきたから、アンダー補正して階調豊かな表現を目指したりする。測光方式も画面全体で露出を決める「マルチパターン測光」から、メインの被写体にピンポイントで露出を合わせることができる「中央重点測光」にしてみたり...

さらについ最近になって、RAWモード記録方式を利用することも始めた。面倒くさいと思っていたが、どっちみちパソコンで調整するのだからこの方が良いわけです。
通常のJPEGで記録する場合は、撮像素子が捉えた光の信号を、カメラの中で、勝手に色彩のデータ(RGB)に変換し、かつ調整加工して適当な映像にして(この過程は現像処理という)、圧縮して(JPEGで)記録する。したがって、勝手に作られた映像を、レタッチ・ソフトで事後に修正しようとしても元データは既に失われているのだから、誤魔化し程度である。
これに対して、RAWモードでは文字通りカメラの撮像素子が捉えた生データをそのまま記録する。そして、このデータをパソコンに移して、自分で現像ソフトを使って調整しながら映像を作る(現像する)ことになり、自由度が高いのである。
現像ソフトとしては、ニコンのCapture NXを使っているが、カメラが持っている全てのパラメータが現像時点で変更できる。極端に言えば、撮影時はフレーミングとシャッター・チャンスのみに専念し、現像時に絵作りをすればいいのだ。

しかし、ここからが問題だ。しからばどういう仕上がりを目指せばいいのか?裸眼で見た記憶どおりを目指すのがよいのか、それとも被写体に何かメッセージを託すならそれに合った仕上がりを目指すのか?そうか、それが作品作りというものなんだな。
銀塩写真(フィルム)の場合もプロは暗室で同じことをやるのだろう。しかし、デジタルの方が圧倒的に可変であり、有利ということが言えそうだ。

勿論、写真の作品としての価値の大部分は被写体を選び、カメラの枠に捉える瞬間で決まるのだけれど、現像処理の過程で価値を高める、場合によっては価値を創出することも出来そうだ。

ところで、写真展などの応募条件では、デジタルの制約はどうなっているのだろうか?あまり制限は無いように思われるがそれでいいのだろうか?
詰まらぬことを心配しているのかも知れない。

RAWモードを使うようになって、写真の作品とは何かを、より真面目に考えるようになったし、「写真」が面白くなってきた。
それにしても、何かを写さねば何も始まらない。寒いけれど、明日も出かけようか!

(参考)
RAWモードについての技術的な解説は次のホームページに詳しく、かつ分かり易く載っています。
http://plusd.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0412/16/news048.html

S_28 作品には程遠いが、数日前に名古屋の堀川で撮ったものを2点。
脇の公園の方に居たら突然、船のエンジン音が聞こえたので走って行ってともかく4枚ほど撮ったうちの1枚。現像で色彩を濃くした。


Finals カモメかウミネコか分かりませんが、とても可愛かったので写してみた。バックの水の色がこんなに綺麗だったとは、現像処理するまで気がつかなかった。

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2007年1月21日 (日)

「シェナンドー」は船乗りが作った歌!

最近購入したCDで気に入ってよく聴くものに、ダロール・アンガーの「ヘリティッジ」がある。新星堂のコメント入りお奨めCDであった。そうでもないと出会うことは無かったろう。ジャンルがカントリーと来れば、嫌いではないけれど積極的に聴かないから、こんなアーティストは全然知らなかった。
ダロール・アンガーはカントリーとブルーグラスを中心に活躍しているヴァイオリニストなのです。古い伝承歌に積極的に取り組み、それを素材に彼独自の音楽を構築してきた...と、ライナー・ノーツにはある。アメリカでは人気は高いようである。
Heritage(ヘリテッジ)は遺産のことであり、このCDもまた、伝統音楽、民俗音楽をとりあげているのです。

アメリカの音楽には、二つの源流がある。そのひとつが、アイルランドから渡って来たケルト音楽でこれが発展したのがカントリーやブルーグラスである。もうひとつの源流がアフリカ系アメリカ人が発展させたもの(ブルース、ジャズetc)である。
後者はよく承知しているが、カントリーはそういうことだったか、と今頃認識した次第です。

このCDでは、ダロール・アンガーはヴァイオリンは勿論、フィドル、チェロ、ブズーキ、オクターブ・マンドリン、シターン、ギター、胡弓!まで演奏している。また、女性シンガー・ソングライター、ジェーン・シベリーのヴォーカルが清冽さに満ちていてとても素晴らしい。ダロール・アンガーの演奏も現代的にアレンジされていて、何度聴いても新鮮な感じがする。

CDの最初と、中間と、最後の三回、お馴染みの「シェナンドー」が出てくる。
最後のは、ジェーン・シベリーのヴォーカルに幼い女の子がたどたどしく付いてきて、余韻じょうじょう、曲を終えるのだが、これがなんとも堪らない!

Oh Shenandoah...I love your waters
Far away, you rolling river
Oh Shenandoah, the shephard's daughter
Away - I'm bound away
'Cross the wide Missouri

Sail Away...sail on out
'Cross the wide Missouri
(以下省略)

Photo_145シャガールの絵のようなジャケット。 それにふさわしいロマンチックな演奏である。「シックス・ディグリー」レーベルには良質なタイトルが多い。

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2007年1月17日 (水)

ルソーが楽しませてくれた1時間

愛知県美術館で開催中の「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」を見てきた。
世田谷美術館開館20周年記念の企画のようで、東京では既に終了、その後に名古屋に周ってきたものでした。
NHKが主催者になっていることもあり、テレビでも紹介され、どんな展覧会かは承知されている方も多いと思うが、ルソーの絵自体は日本国内に存在するものが中心に集められていて、それに加えて、ルソーの影響を受けた内外の画家たちの作品も同時に展示されると言うものです。何故こんな形になったかと言うと、同時期に、大々的なルソーの展覧会がロンドン、パリ、ワシントンを周って開催中で、著名な作品は全部そちらに行ってしまっていたからのようだ。

しかしながら、この企画は成功していると思う。ルソーだけでなく、ルソーの影響を受けた作品を多く展示することで、ルソーの特徴・独創性が何処にあるかが、私のようなごく平均的な美術鑑賞者をも何となく分かった気にしてくれるのです。

一見稚拙にも見える表現から来る素朴な味わい...ここではフランスの素朴派と呼ばれた作家たちの絵を並べることで、ルソーの特徴の一つを明確にする。まったく知らない画家達だったが、印象に残る絵も多かった。
一方、今回の展覧会の眼目であったと思われるのは、ルソーに影響された日本人画家達の作品の展示であろう。わが国において、ルソーの影響がこんなにも大きかったことに驚きました。藤田嗣治、坂東敏雄、上山二郎、松本俊介...等の洋画家は勿論、日本画家も少なからず影響を受けた。積極的にルソーの画風を取り込んだ人も居れば、知らず内に作品に反映されている場合もあるようだ。大きな風景の中に極端に小さな人間を配する構成...静謐感漂う風景画。逆に小さく描かれた風景の中に巨人のように立つ人物...肖像画。
また、絵画のほかに、写真も展示されていて、いわゆる「芸術写真(大正末期~昭和初期)」においても、ルソーを意識した作品が多く作られたことを知った。絵画的な写真作りとはどういうものか、初めて実物を見ることが出来とても興味深かった。

さらに、日本の現代の作家も大きな影響を受けている。嬉しかったのは横尾忠則のルソー・シリーズの絵が5点展示されていたことだ。
例の「アンリ・ルソー《眠るジプシー》より」は、やはり凄い。解説書によると、このようなエログロへの転換は、単に横尾のイマジネーションが作り出したものと言うより、ルソーの異常性を、素朴の中に潜むこうした不穏な感情を、明らかにしたもので、横尾の鋭さに驚かされる、とあった。誠に納得。
同じく横尾の「アンリ・ルソー《フットボールをする人々》より」はドキッとするが、思わず笑ってしまう。まったく横尾も天才ですね。
その他の画家では、有本利夫の「一人の夜」など、演劇的ないし虚構的背景にたたずむ女性を描いた絵がとても印象に残った。
会場の出口付近には、青木世一のROUSSEAU-KIT「フットボールをする人々」も展示されていて、最後までとても楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

Photo_134 アンリ・ルソー「サン・ニコラ河岸から見たサン・ルイ島」
今回のルソー自身の絵の中ではこれが好きだ。
ルーブル美術館の裏のセーヌ川北岸から、シテ島の方を見た風景。
右側の尖塔はノートルダム寺院とサント・シャペルだそうだ。


Photo_135 フランス素朴派の一人、カミーュ・ボンボワの「活気のある風景」
右側にサーカス小屋があり、活気を象徴している。






Photo_141Photo_136 左はアンリ・ルソー「私自身、肖像=風景」
(今回出品なし)
右は松本俊介「立てる像」






Photo_137 横尾忠則「アンリ・ルソー《眠るジプシー》より」




Photo_144Photo_138 左端はアンリ・ルソーの原画「フットボールをする人々」(今回出品なし)
右は横尾忠則「アンリ・ルソー《フットボールをする人々》より」 





Photo_143青木世一「ROUSSEAU-KIT《フットボールをする人々》」
三次元の二次元化である絵画を、再び三次元に戻すことで生まれるギャップが面白い。実物は巨大で、作品空間への参加を誘う狙いもある。

Photo_139
有本利夫「一人の夜」

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2007年1月14日 (日)

リアーチェの戦士...ACC講座より

昨年から受けているACCの講座「地中海ブロンズの謎」の第4回目を先週、聴講した。第1回はブログで書きましたが、インド旅行の関係で2、3回目の報告が出来なかった。というより、報告が難しいのです。真っ暗の中でスライドで説明があるので、メモがほとんど取れません。また、肝心のブロンズ像をブログで示すことも出来ない。
しかし前回の「リアーチェの戦士」は、私個人所有の美術書にとても綺麗な写真が載っていたので、この写真を使って講座の内容を少しばかりお伝えしよう。

Photo_132

リアーチェの戦士はA(左)、B(右)2体ある。
古代ギリシャ美術の代表的なものと評価されています。
(写真はTHE STORY OF ART/E.H.Gombrichより)




Photo_133 この迫力!この精緻さ!
目、唇、歯などは別の合金で作られている。




1972年8月16日、南イタリアの先端に近いリアーチェ村沖で、あるアマチュア・ダイバーが魚を追って潜っていたところ、海底にBの髭の部分が見えた。探索の結果、2体のブロンズ彫刻が確認された。これらは引き上げられて、、現在、レッジョ・カラブーリア国立博物館に収蔵されている。最初に見つけたこの人には、評価額の1/4相当、5億リラが与えられたそうだ。(密輸されてしまうのを防ぐための報酬制度がある)

その後の研究結果から、この2体は、同時に見つかったが、当初から組作品として造られたものではないことが分かっている。
それは、ブロンズ各部の組成を調べると、AとBでは異なる点が多いからである。例えば、Aの主要部品の合金には常に銀が含まれるが、Bには含まれておらず、このことから、別の鉱山に由来する銅が使われている。また、鋳造土の組成から、当時の鋳造所まで推定できるのである。

それではこれらは、何時、いかなる目的で造られたか。以下は地中海ブロンズ研究の第一人者である講師の推定である。

Aは、前460年頃、アテーナイでアッティカの彫刻家によって、また、Bは、Aとは関係なく、前450~440年頃、コリントスで、ポリュクレイトスないしその周辺の彫刻家によって、それぞれ「戦場に赴く戦士(との別れ)」として、製作され、神域に奉納・展示されたと見られる。
Aは、右手に長い槍を、左手にはアルゴス式の楯を持ち、アッティカ式の兜も被っていた。また、Bは当初はコリントス式の兜を着け、右手にはフィアーレを持っていたと考えられる。(当時の陶磁器には戦士との別れの儀式の絵が多く描かれていて、どんな格好をしていたかが分かる)
これらは具体的にはトロイアー戦争の特定の英雄を意図しているであろう。

これらは、前146~86年頃、略奪によって、ローマに輸送され、そこで組み作品として展示された。なお、Bの両腕はローマ時代に作り直されている。

紀元330年ごろ、都がコンスタンティノポリスに移されたとき、ローマから船で新都に運搬中、リアーチェ沖で遭難したと考えられる。

数奇な運命をたどったが、とにかく現在、安全な博物館に収まっていることを、神に感謝しなければならない。

今回の講座で、このような素晴らしいブロンズ彫刻が存在することを知ることができ、とても有意義だった。是非、本物を見たいものです。

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2007年1月12日 (金)

「群集の叡智(Wisdom of Crowds)」ということ

「ウェブ進化論」の梅田望夫さんの新年最初のブログに書かれていることは、やはり注目しなければならないでしょう。

『ウェブ上から集めた膨大な数の読書感想文や書評を読みながら、改めて「群集の叡智(Wisdom of Crowds)」とはとてつもないものだ、そしてまだ何も始まっていないのだ、と思う。
これまで脳と言う物理的な制約の中に閉じ込められていた個人の経験や思考が、これからは他の人たちと緩やかに結びついて行くだろう。その初期の道具としてのSNSやブログはこのままで終わるはずがない。ただ、イノベーションには踊り場がつきものだから、そのタイミングを予想することは出来ないが、次の10年間の最重要キー・ワードは相変わらず「群集の叡智(Wisdom of Crowds)」である。』

ところで、Wisdom of Crowdsと言う言葉は簡単ではないようです。Web2.0用語としては「集合知」と訳されることが多く、さらにこれは「みんなの言うことは案外正しい」の意味だとされる。みんなで作る百科辞典Wikipediaあたりを想定しての訳語であり、解説であろう。
しかし、梅田さんがここで言っている「群集の叡智」は、もっと高次元の話しでしょう。群衆の中には優れた個人がたくさん居ると言うことが原点になっている。そこを起点に、ウェブの次なる展開がなければならない...
具体的にどんなことがあるのだろう?初夢のように考えてみると面白いかも。
能が無いから思いつかないが、とりあえずは、個人の優れた思想や経験が速やかにみんなの眼に触れるような仕組みができないものか?
それから先は、何か目的を設定して組織化して行く?...ありきたりですね。

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2007年1月10日 (水)

Google Earthは広告メディア?

Google Earth と言えば、こんな記事が月刊ASCIIに載っていました。
ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)がネバダ州の砂漠の中に巨大なロゴマークを描いた。あの太っちょの叔父さんの絵である(50周年を記念して11月にロゴを変更したのだそうです)。1辺の長さが70mある。ナスカの地上絵ばりですね。
同社としては、UFO向けだというようなことをアナウンスしている様だが、クチコミの宣伝効果を期待していることは間違いないだろう。まだ撤去されていないので、そのうちGoogle Earth にも写るはずだ、とこの記事は述べている(更新のインターバルはかなり長い)。
一般の人が、何も無い砂漠を見るだろうか、などという懸念は必要ないようだ。これが置かれた地域「エリア51」は特殊な所らしい。UFO目撃で有名だし、さらに秘密の軍事基地があって、これがGoogle Earth で見られてしまい話題になったのだ。

ASCIIによれば、今後、Google Earth を使った広告が一般化するかもしれないという。なにしろ、全世界に1億人ものGoogle Earth ユーザーが居るから。

面白い世の中になってきたものだ。しかし、Google Earth で地球を見たら広告だらけというのは、考えただけで気持ちが悪くなると思いませんか?一種の環境破壊とも言えなくも無い。
なお、地上絵というのは、ナスカ以外にもいろいろ見つかっているらしい。イギリスには綺麗な白馬の絵があったり...
どうせなら壮大なアートをやってくれればいい。場所を限定して、見飽きた頃に、美術館のように掛け替えるのです。スポンサーが問題ですね。

Photo_131KFCのロゴ。どういう風に変わったのでしょう?
しょっちゅう通るのに覚えていない。

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2007年1月 8日 (月)

匿名と言うこと、コメント、検索

前々回に、「ウェブ人間論」をとりあげたが、その中でブログの匿名性についてかなりのスペースがとられているのが印象的だった。
私自身のも、匿名のブログだが、最初からリアルな人格に則したブログで行こうと方針を決めていたから、比較的楽に続けることが出来た。それでも、どの辺で妥協するか、ということが常に気になる。地名とか、いろいろな固有名詞も結構、リアルに出してきたが、例えばカルチャーセンターの講座の話で、先生の名まで出していいだろうか?といつも迷うのです。(もし、ご迷惑がかかっていたらお許し下さい。その方が迫力があるし、講座はそもそも、先生のお名前で受講生が集まるのですから)
しかし、もし、完全架空の人格を通そうと思ったら大変だろうなと思う。以前のブログでとりあげた「未来人ジョン・タイター」は、4ヶ月間、タイム・トラベラーとして通してしまったわけだが、大変な才覚だと思う。ちょっと極端な例だが。

ところで、インド旅行記の最後にコメントを頂きました。それがなんと、同じツアーの参加者の方でした。私がブログを書いていることなど伝えていないし、お互いに住所なども知らないにもかかわらず、このブログにたどり着いたようです。コメントの方も匿名ですから、実際にはどの方か確認でないのですが、インターネットを常時使われている人でしょうね。もしかして、グーグル・アースの地図を持参しておられた方でしょうか?
写真に後姿が写っていることについて、ここで、お詫びを申し上げます。できるだけ、人物が写っていない写真を掲載したのですが、どうしても適切な写真が無いこともあり、やむを得なかったのです。それから、拙い旅行記を読んで頂きありがとうございました。

そういうわけで、インターネットの検索機能の凄さを改めて認識した次第です。吹けば飛ぶような私のサイトまで来ていただいたのですから。
Googleで実際に試してみると、「インド旅行の印象」と、インプットするとすぐに出て来ますが、このタイトルを思いつく人はあまり居ないかもしれない。
「インド旅行」や「インド旅行記」では、多分、星の数ほどあるから、どこかにあるはずだが容易に見つかりません。
一方、「ファテープル・シクリ」とか「ビンベトカ」といった比較的マイナーな(世界遺産ですけどね)観光スポットの名をインプットすると、検索結果の2ページ目にこの『がらくた日記』がリストアップされていました...ふーむ、大したものだ...責任重大だな。

蛇足ですが、「Google Earth」は、世界中の場所の詳細な衛星写真が見られるサービスです。それこそ自宅でも見れます。今回のツアーで、各観光ポイントのサイトの衛星写真を持ってこられた方がいて驚きました。
旅行の楽しみ方も多角化してきました。

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2007年1月 7日 (日)

屋根雪がドスーン...ウォータンを脅かす

当地に今冬初めての雪が降った。午前中はかなりの密度で降り、あっという間に銀世界になったが、午後には止み陽射しさえ出てきた。気温も6度ぐらいだったから、ただでさえ柔らかい湿った雪は急速に溶け出した。屋根に積もった雪もドスーンと大きな音を立てて落ち始めた。ぬくぬくと室内で寝ていたウォータンはその度に飛び上がる。
夕方の散歩は、道路がぐちゃぐちゃだから私は長靴姿。ウォータンはとにかく嬉しい。芝生の上など新雪部分を飛び跳ねて進む。

そういえばウォータンからも新年の挨拶をさせなくては。2歳と4ヶ月になりました。まだまだ知らないことがいっぱい。生きることが楽しくてしょうがない。このブログにも時折顔を出すのでよろしく。
いつもは私と二人だけだが、正月は東京のお兄ちゃんが帰って来て、とても楽しく過ごすことが出来たんですよ。

Photo_128 近くの公園。ここでいつもチビ犬どもと遊ぶのだが、誰も居ない!




Photo_129 自宅の庭




Photo_130 横断歩道橋。ここでいつもおやつをもらう。

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2007年1月 2日 (火)

今年もよろしく...インド旅行記の補足

おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
インド旅行記は何とか年末で終了させたつもりでしたが、若干補足したくなりましたので、もう少しお付き合い下さい。
先ず、旅行のルート図を遅まきながら付けさせて頂きます。読んで頂いた方から、出てくる地名がどの辺なのか分からなかった、とご指摘がありました。私自身今回初めて知った地名も多かったくらいですから、配慮が必要だったですね。
Photo_125








次に食べ物の印象について。
第1にインドの料理は思ったほど辛くなかった。それよりもいろいろなスパイスの香りがするのが特徴である。それも私にはとても魅力的だった。
第2に野菜料理が多種多様に揃っていることに感心した。野菜そのものが料理名になっているくらいなのだ。一見カレーのように見えるが、野菜を炒めて蒸し煮したものが入っている。したがって、インド料理を食べていれば野菜不足はまったく心配ないし、これだけで充分栄養は取れる。これはインドでは6割以上がベジタリアンで肉を食べないことによるようだ。
スパイスは数限りなくあり、種や実、葉や根っ子、花などを、そのまま使ったり、粉に挽いたりしたものが使われる。必ず数種類組合わせて、そのレストランなり、家庭の独自の味や香りが作り出される。料理人の腕とオリジナリティ発揮の場でもある。
そういうわけで、カレー料理の延長か?という当初の思い込みがまったく外れ、大好きになってしまった。
1076インドの定食ターリー
(ターリーとは大皿の意味。南インドではバナナの大きな葉が皿代わりになる。)


もうひとつ。インドの紅茶がうまかった。ヒマラヤ山麓のダージリンは高級紅茶として有名だが、これはストレート・ティー用。インドでは専ら濃厚なアッサム・ティー等を使うミルク・ティーが飲まれている。中でもマサーラー・チャーイが好まれ、街中にもチャーイ屋がたくさんある。これはスパイス入りのミルク・ティーである。
お土産に差し上げた方によく説明しなかったが、正式の入れ方は次のとおりです。
『鍋にマサーラー(スパイスのこと、紅茶を買うと添付されてくる)とミルク、水またはお湯を入れて沸騰させ、お茶の葉をくわえて煮出し、さらに砂糖を入れてストレーナーで漉(こ)して飲む。』
年末に、名古屋駅前(旅券センターのあるところ)のインド料理屋で久しぶりにマサーラー・チャーイを飲んでみた。とてもうまかったですよ。

それから、今回の旅行で最も印象深かったものは?と問われれば、「女性のサリー姿」と答えるでしょう。インドの風土に合っているのでしょうか。また、インド人が着るから映えるのでしょうか。
ヒンドゥー教の伝統のようですが、最も聖なる衣服は「無縫製であること」だそうです。本来は男女問わずですが、現代でもヒンドゥー教徒の成人女性はほとんど100%サリー姿である。サリーにはカーストの名残で、ある程度地域・社会・文化的地位が読み取れるのだそうだが、いまやどんどん着たいものを着る―ファッション化しているとのこと。
(どんな田舎へ行っても女性だけは美しいサリー姿、道路工事の穴掘り作業に従事する女性もサリーなのには驚いた。確かに階層により少しずつ違うようだが説明は出来ません)
サリーは「布の帯」が語源で、標準寸法は120cm×550cm。1枚のサリーは、地、縁、パロ(肩から背中にかかる飾り部分)の3部分からなる。サリーの色にも意味があるようだ。赤は愛情、黄は純潔、緑はモンスーンの時の大地(?)を表わすという。したがって、婚礼や誕生日には赤いサリーを着る。
現地ガイドの話ですと、女性は結婚すると、30~40枚サリーを持つのだそうです。TPOに合わせ、その日の気分に合わせ、選ぶのですね。
着るのは難しそうだが、日本の着物とはどっちがどうだろうか?たまたま、「河童が覗いたインド」にサリーの着方のイラストがあったので拝借させてもらいましょう。
Photo_127
サリーの着方

0177
もう一度この写真を。(サーンチーにて)

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2006年12月30日 (土)

インド旅行の印象その17(ジャイプル市内その2・・・最終)

ジャンタル・マンタルを後にして、「風の宮殿」を見がてら、バザールへ行った。
風の宮殿はバザールの大通りに面しているのである。5階建てというのだろうか?奥行がまったく無く、薄っぺらであるが高さは高い。扇子を拡げたような感じだ。かつて宮廷の女性たちが住み、ここから街を見下ろしていたという。590室もあるようだ。いかにも風通しが良さそうだから、この名が付いた。ジャイプル旧市街の統一色ピンクが映え、とても優雅である。
1054
風の宮殿。
この色が、ジャイプル旧市街の統一色。
ピンクシティと呼ばれる所以である。

風の宮殿のすぐ脇からバザールの店がぎっしり並んでいた。集合時間を決めて自由に散策することになった。
お昼過ぎという時間帯だったが大いに賑わっていた。雑貨を売る店、道路上で野菜を売る女性、ピーナッツを売る屋台・・・またもや蛇使いがいた・・・今度は上手く写真を撮った。雑踏の中を時折、色鮮やかなサリーの女性が颯爽と歩いていく。人力のリクシャーにインド人夫婦が中睦まじく乗っている。バスを待つ女学生が大騒ぎしている。店の前で雑談を楽しむオヤジさんたち。チャーイ(インド風の香辛料入りミルクティー)屋も人でいっぱい。何かを焼いている匂いがする・・・。
庶民のエネルギーが充満していて、インドにいるんだなという実感が湧いてくる。久しぶりに開放感を味わうことが出来た。

F1022_11023F1029 ピンクシティを行く。
 



0271058コンフュージョン。




F1030F1032F1036バザールの人々。   




F1048F1059F1055どうしてもサリーの女性に目が行ってしまう。   



F1040バスを待つ女学生たち。





インド旅行記もようやく終着駅に到達したようだ。ジャイプル市内の庶民の様子を伝える次の2枚のショットで掉尾を飾ろう。(今回撮った中で、最も好きな写真です)

F1024_1ジャイプルのある街角を覗いたら、ぎっしりと人や物が詰まっていて、無意識にシャッターを切った。帰国後、スクリーンに大写しにしてみると、ジャイプルの街が眼前にぱっと広がったのでした。あの時の街の熱気と、喧騒と、匂いすら甦ってきました。

025いかにも貧しそうな父子。ジャイプルを離れるバスに乗るとき、物乞いをするでもなく、親子で手を振ってくれたので、思わずシャッターを切った。ピンボケで頭も切れているが、印象深いショットになった。
さようなら、インドの皆さん!

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2006年12月29日 (金)

インド旅行の印象その16(ジャイプル市内その1)

アンベール城からジャイプル市内へ戻り、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、風の宮殿などを見た。
ジャイプルの旧市街は、7つの門を持つ城壁に囲まれた地区である。街並みはピンク一色に統一されており、「ピンク・シティ」と呼ばれる所以である。

《シティ・パレス》は、ジャイプルの正に中心にある。1726年、時のマハラージャ、サワーイ・ジャイ・スィン2世により建てられた7階建ての美しい建物です。現マハラージャの住居でもあり、ここに滞在中は、ラジャスタン州の五色の旗の上に小さな目印の旗が翻る。この日は滞在中で、専用の立派なSUV車(トヨタのランドクルーザのようなごつい車、フロント・グリルには凄い紋章が付いていた)が駐車していた。
中庭には博物館がある。テキスタイル館には歴代のマハラージャが着た衣類が展示されていた。このほか、絵画や王家の写真があるギャラリー、武器庫などがあった。
博物館のある中庭から、狛犬のように2体の象の彫像に守られたラジェンドラ門をくぐって館に入ると、貴賓謁見の間に出るが、ここには衛兵に守られて大きな銀製の壷が二つ置かれている。1902年、エドワード2世の戴冠式に出席するための旅行用にマハラージャが持参したものという。敬虔なヒンドゥー教徒だった彼は、この壷にガンガーの水を入れて行き、毎日沐浴をしたと言われる。世界一大きい銀製品としてギネスブックに登録されている(900L)。 
01180119左はシティ・パレスの入り口。 
右は中庭から7階建ての本館方向を見る。
ラジャスタン州の五色旗の上にマハーラージャ滞在中を示す小旗が翻っている。

0124 本館への入り口、ラジェンドラ門。立派な服装の衛兵が守っている。




0121 これにガンガーの水(沐浴用)を詰めて、イギリスまで行ったという。
世界一大きい銀製品としてギネスブック入り。



《ジャンタル・マンタル》・・・インドにはとにかくいろんなものがあるのですね。驚くばかり。
ジャイプルの街を拓いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世は、天文学にも造詣が深かった。彼はペルシャやヨーロッパの書物や、中央アジアのウルグ・ベグの天文台を参考にし、ムガル皇帝の許可も取り、インド各地に天体観測儀を集めた天文台を造った。デリーが最も早く、ジャイプルは2番目で1728年であるが、規模はジャイプルが最も大きいそうだ。
狭い門をくぐって中へ入ると、広い敷地に、現代アートのオブジェと見まがう、いろいろな形をした石の構造物が並んでいる。それぞれ異なる用途を持った天体観測儀なのだ。その場で説明を受けたが、とても頭に入るものではない。ただただ、感心するばかり。
なお、ガイドブック(地球を歩くシリーズ)に詳細な説明が載っていたので、コピーを載せておきましょう。
私が特に興味を持ったのは、ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラという12体からなる観測システム。ジャイ・スィン2世の発明だそうで、12の星座の位置を正確に決めるためのもので、占星家に利用されたもの。それぞれに星座のマークがついているので、自分の「乙女座」の装置の前に立ってみた。
もうひとつサムラート・ヤントラ。高さ24.7mと、最も大きい観測儀。現地時刻、天頂距離、子午線などを測るものらしい。巨大な直角三角形部分の円空に向かう斜辺の方向は正確に北極星を指している。日時計としては2秒単位で時間を図ることができるという。
このサムラート・ヤントラには、もの凄く細くて急な階段が付いていて登ることができる。私としては当然登ることになる。敷地内の全ての観測儀が俯瞰でき、さらにはシティパレスの優雅な建物が見え、その向こうの山の上にはアンベール城まで見える。素晴らしい展望だった。
出口付近で、理科の先生という観光客の一人が、ガイドと熱心に議論をしているのが印象的だった。

Photo_126ジャンタル・マンタルを紹介するガイドブック。




0130
サムラート・ヤントラという高さ24.7mの観測儀に登ってサイトを見回したところ。

0133サムラート・ヤントラ。いろいろな機能があるが、日時計としては2秒単位で時刻を計測できる。なお、登ったのはこれと対になっているほんの少し低めの構造物の方である。これを登るには決死の覚悟がいる。誰か落ちるまでは開放されているのだろう。




0131_10132_1左の写真;高い建物がシティ・パレス 、山の上にアンベール城が見える。
右の写真;角度を変えると風の宮殿(後述)が見えた。これまた風変わりだ。

012901280126左;ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ。星座ごとの位置観測儀。12星座分ある。
中;滑り台のようなのがサグー・サムラート・ヤントラ(小型サムラート)。手前の孔になっているのはチャクラ・ヤントラ。その拡大を右の写真に示す。子午線通過時間や惑星、星の位置を測定するものというが、どういう理屈になっているのか理解不可能でした。

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2006年12月28日 (木)

インド旅行の印象その15(アンベール城)

11日目、最後の観光はジャイプルだった。
デリーの南西270kmにあるジャイプルは、ラジャスタン州の州都であり、人口は230万人。デリーからアラビア海へ抜ける交通の要衝に位置し、12世紀以降、ラージプート族の王国が抑えていたが、1600年以来ジャイプルの北方8kmのアンベールに堅固な山城を築き、首都としてきた。その後、この地が政治的に安定してきたので、サワーイ・ジャイ・スィン2世が1727年に都を平地(現在のジャイプル旧市街)に移した。したがって、旧市街も、ぐるりと城壁に囲まれている。
なお、この王国に系譜的につながるジャイプル藩王国が1949年までこの地を首都として存続してきた。

ジャイプルのホテルを出て、先ずアンベール城へ向かった。バスで20分も走ると右も左も山が迫ってくる。あちこちの尾根に城砦のような建造物が見え、やがて、アンベール城の真下に到着。我々は4輪駆動車に分乗して曲がりくねった、狭い急坂を駆け上る。高低差は100mはあろうか。4輪駆動車に乗るとき、城の方を見上げるとW字に坂が登っていくのが見え、何か赤い点のようなものが蟻のように登って行く。よく見ると「象」だった。こちらも観光客に人気があって、象待ちの人々がたむろしていた。

ガイドが言うには、象は危ないから乗らない方がいいです、と言う。たまたま帰国して数日後の日経新聞の記事に「象との共生に全力」と言う記事が出ていて、〝インドでは毎年250人が象に襲われて死んでいる。でも危険だから処分するという結論には至りません(インド科学研究所生態学センター ラマン・スクマール教授)〟ということだそうです。この記事によると、インドには野生の象がかなりいるらしい。象の回廊が高速道路の予定地と重なるなら、計画を変更するとのこと。また、象は酒が好きで、民家に押し入り住民を踏み殺すと言う事件が相次いだ。象の回廊に重なる集落では家に大量に酒を置かないように指導している・・・・脱線してしまった。

アンベール城は世界遺産にはなっていないが、とても素敵な城だと思う。周囲の山々には万里の長城のように城砦が並ぶ。一方宮殿もなかなか美しい。水を利用した冷房システム付きの夏の宮殿、壁中に鏡をちりばめた装飾が見事な冬の宮殿・・・1本のろうそくの灯が何千もの像を作る・・・

0072アンベール城の外観。
右の方のW坂の途中に赤い点のように見えるのは象タクシー。


00880081左は城門を入るところ。 
右は象タクシーのプラットホームらしい。


0089宮殿への入り口。装飾が美しい。



010801040107城壁の回廊から見る展望。 
周りの山の尾根には城砦が点在し、万里の長城をみているようだった。

01130110勝利の間は鏡の間あるいは冬の宮殿とも呼ばれる。
鏡をちりばめた幾何学模様が独特である。
0111




00940093歓喜の間は室内を水が周る仕掛けがあり、夏も涼しく過ごせるようになっていて、夏の宮殿とも呼ばれる。 
パステルカラーの壁面モザイクと、中庭。中庭のデザインは扉のモザイク模様と同じになっている。
00970114_1左はハーレムがあった場所。
猿も住人だ。 

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2006年12月26日 (火)

インド旅行の印象その14(ファテープル・シクリ)

ファテープル・シクリ・・・
インドの言葉になれていないせいもあるが、とても不思議な響きのする言葉である。「勝利の市」を意味すると言う。アグラの南西40kmに位置する。
ムガル帝国を揺るぎ無きものにしたアクバルは、都をアグラから別のところに移すことを決意する。それは、永らく恵まれなかった世継ぎが、ある聖者の予言によって、1571年にようやく生まれたことによる。シャイフ・サリーム・チシュティーという聖者だが、名誉と感謝を捧げるために、彼が居を構えていた、アグラから少しばかり離れた、湖を見下ろす岩盤台地上の眺めの良い場所を選んで、新都を建設したのである。
建設には15年以上かかった。そして居住開始してから僅か14年で放棄されてしまった。一般的な説明としては、水の確保が困難であったことが理由とされる。
しかし、1585年のシクリからラホールへの遷都は、不安があった辺境地域に備えるためで、水が原因とばかりは言えないという説もある。なお、アクバルは1598年に首都をラホールからアグラに戻しているが、なぜシクリに戻らなかったかも謎である。

ファテープル・シクリの代表的な建物はパンチ・マハルとディーワーニ・ハースであろう。
聳え立つような近づきがたい無装飾の赤色砂岩の外壁が一連の居住用の宮殿建築を取り囲んでおり、それらは全て中庭に向かって開かれている。西インドのクジャラートによく見られる形式だという。あたかも木造のように見えるのもここの建物群の特徴である。用途は基本的にはハーレムだという。

とりわけ目立つ五層のパンチ・マハルは涼風を求める楼閣で、ここで宮廷の女性たちが、繊細な格子模様のあるスクリーンでプライバシーを守りつつ、寛いだとされる。スクリーンはほとんどが失われているが、断片があるので確かである。最下層の柱は84本、最上階は4本。上にドームが乗る。柱は全てデザインが異なる。

さらに風変わりなのは、ディーワーニ・ハース。皇帝の公的な謁見の広間と呼ばれている。実際の用途はさらに研究の余地ありということのようだ。2階建てで、頂部の四隅に背の高いチャドリー(傘型屋根をつけた小亭)を乗せているのも変わっているが、さらに驚くのは内部の構造である。中央に普通ではとても考え付かない風変わりで豪華な柱頭を持った柱がある。この柱は円形玉座を支えているのである。そして円形玉座からは橋がかけられ内部の階上席へと繋がっている。アクバルはこの中央の玉座の上に敷かれた絹のクッションに座して、階下に立つ市民の訴えを聞いたというのが、これまでの説だそうだ。研究者の中には貴石や宝石を検閲したと考えるものも居るようだ。
いずれにしても、この空中に浮遊するような玉座によって、アクバルの地位は宇宙的存在、ムガル帝国の絶対的中心であることを宣言しているという。

アグラで、タージ・マハルとアグラ城という大物をを見た後だったので、ファテープル・シクリの観光に入った時は、集中力がかなり途切れていたと思う。第1印象が「何か妙な・・・」であった事もある。そのせいで写真の枚数が少ないのである。今から思えばタージやアグラ城以上に面白い観光スポットだったのに。とても残念だ。
特に、写真を撮らなかったもので大事だったのは、ブランド・ダルワーザと呼ばれる赤色砂岩の巨大な門である。高さ54mで形もユニーク。アーチ型の開口部周辺はコーランの詩句によるカリグラフィの幅広の連続模様で縁取られている。
もうひとつ撮れていないものがある。預言者シャイフ・サリーム・チシュティーの廟である。
原因は分かった。時間があまりないせいもあり、最初に全体説明があり、即、自由時間になってしまったからだ。この地の専門のガイドが付いて、それぞれの対象物の前で説明を聞いていれば写真を撮らないはずが無いのである。

しかし、ファテープル・シクリの最後に思い掛けぬ余興が待っていた。当初から問題とされた水の確保のために大きな貯水槽があるのだが、これを見ながらガイドの説明を聞いていると、貯水槽の向こう側に点のように見えた人物が、突然大きな声をあげ、両手を広げて水面から10m近くある水槽の縁に立った。裸のようだ。そしてあっという間に飛び込み・・・浮き上がり・・・岸に泳ぎ着き・・・我々のところまで走って来た。その間ものの数十秒。見事といわざるを得ない。かなりの収入を得たようだ。インドにはパフォーマンスをやって金を稼ぐ人々が多いが、こんなのもありか。世界遺産の中でやれてしまうのもインドならでは?

0067ファテープル・シクリの入り口。
逆光で見難いが、高い塔が、ブランド・ダルワーザのようである。斜め後ろから見た形になる。


Photo_123ブランド・ダルワーザ。54m の高さがあるというのだが、何処から測るのか?写真が無いので、「インド美術」から引用。







100600605層のパンチ・マハル。ここはハーレムである。




00652層のディーワーニ・ハース。
皇帝の公的な謁見の広間



0061ディーワーニ・ハースの内部中央にある皇帝の玉座とそれを支える柱。
普通では考え付かないデザインである。この上にアクバルが座り、下に居る市民から訴えを聞いて裁いた。主要な貴族たちは王の玉座と橋で繋がった壁際の階上席に座った。





Photo_124預言者シャイフ・サリーム・チシュティーの廟。
これは見た覚えが無いのです。「インド美術」から引用。



F1012
用途不明



0063 貯水槽の中へ、いざ!

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2006年12月25日 (月)

インド旅行の印象その13(アグラ城)

アグラは、デリーからヤムナー河沿いに200km下ったところにある、人口130万人の静かな地方都市である。歴史的にも紀元前3世紀から名前が知られていたが、16世紀半ばにムガル帝国第3代皇帝アクバルがここに首都を置き、以後1世紀足らずの間、帝国の中心として繁栄した。しかし、1938年にはシャー・ジャハーンが首都をデリーに移してしまった。

アグラ城は1565年に築かれた、ムガル帝国の象徴にふさわしい堂々たる城だった。それは、堀を渡り、城内への入り口、アマル・スィン門をくぐる時に実感する。
華やかな時代があったはずなのに、アグラ城は物悲しいイメージがつきまとう。それは、タージ・マハルを造ったシャー・ジャハーンが幽閉され、失意の裡に亡くなった場所だからであろう。
城からのヤムナー河を見渡す眺めはとても素晴らしい。2~3km先にやはりヤムナー河沿いに建つタージ・マハルは、この日は靄がかかり、うすぼんやりと空中に浮くように見えた。
ヤムナー河を見下ろす城壁内の回廊を進んで行くと、シャー・ジャハーンが1日中、タージを眺めていたという空中に突き出たような形になっているテラスに出た。その後ろには彼が幽閉されていた部屋があった。元王にふさわしい華麗な装飾に満ちた素敵な部屋だった。いずれも立ち入り禁止で外側から眺める。特別の場所だからでしょう、念入りな手入城内には、宮殿のいろいろな建物があり、特に印象の残ったのは、謁見の間が面する中庭のモダンなデザインでした。

00330035_1堂々とした門構えのアグラ城。アマル・スィン門(南門)より城内へ。左は内側から門を見る。 



00400041 城壁に取り付けられた回廊を行く。
ヤムナー河の湾曲部のはるか向こうにタージ・マハルがかすかに見える。右はシャー・ジャハーンが毎日、タージ
を見ていたテラスを写す。

F1003 城壁と一体となった回廊。
眺めが素晴らしい。



00510050 シャー・ジャハーンの 居室(ムサンマン・ブルジュ=囚われの塔)。装飾が美しい。噴水がトルコ絨毯のように見えるデザインが面白い。


00530057左は謁見の間がある建物が面する中庭。これもデザインの妙。
右は謁見の間の続きの建物。


0036美しい芝生が宮殿の建物を引き立てていた。




S_26
アグラ城を訪れていたインド人の子供連れ。

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2006年12月23日 (土)

インド旅行の印象その11(デリー市内 続き)

デリー市内でもうひとつ世界遺産を見た。クトゥブ・ミナール。

前回も書きましたが、デリーが地理的・交通的な要所にあるため、西からの外来勢力、つまりイスラーム教徒の侵入を古くから受けてきた。
10世紀にはイスラーム圏はスペインからインド周辺までの広大な地域を勢力下に治めていて、ガズナ朝などは1000年から1025年の間に17回もインドを襲撃した。兵力は主としてトルコとアフガン人であったようだ。
その1世紀半後、ムハンマドはヒンドゥー連合軍を破り、北インド全体を占領したが、1206年に暗殺されてしまった。すると、その配下の武将で、奴隷からデリーの太守に出世したクトゥブ・アッディーン・アイバクが独立宣言し「奴隷王朝」のスルタンを名乗った。その息子と2代にわたり、北インドに帝国を築いた。
生きるか死ぬかの壮絶な戦いを続けて来たイスラーム兵に対し、当時のインド兵は戦争とは君主の気晴らしであり、決められたルールにより行なわれる競技であり、日没になれば武器を捨てるという人たちであったという。
クトゥブ・アッディーン・アイバクが征服後にまず実行したのが、それまで君臨していたヒンドゥー王朝の城砦や寺院の上にイスラームのモスクを建造することであった。
クトゥブ・ミナールにおいても、すぐそばのヒンドゥー寺院を破壊し、その石材を利用して、壮大なモスクが築かれた。遺跡に残されたペルシャ語の刻印によれば、1192年から96年にかけて建造されている。

実は、このような歴史についてはほとんど知らずに、現場を見たのでした。ガイドの若干の説明はほとんど耳に残らず、ただただ、モスクの廃墟と巨大なミナレットをぼんやりと眺めていました。そのため、モスク廃墟の重要なポイント、「持ち送り式のアーケード」を見過ごしてしまい心残りである。帰ってから点検してみると、写真には遠目に写っていることは写っているのでしたが。

さて、クトゥブ・ミナール遺跡の最大の見ものは世界で最も高い石製の塔である。72.5m。元は100mあったが、飛行機事故でこの高さに縮まったという。
クトゥブ・アッディーン・アイバクは彼の建てたモスクの南側に巨大な砂岩製のミナレットを建造した。祈りを呼びかけるためと言うミナレットの本来の目的から離れ、インドにおいてイスラームが最高であることを宣言するのが目的だったろう。そのことは、最下層に幅広く、アラビア文字のカリグラフィに花葉文を散りばめた装飾帯があり、コーランの言葉や歴史的銘文が刻まれていることから分かるのです。

0328_20336_3クトゥブ・ミナールとは通常、この塔を指す。
高さ72.5m、直径14.5m。世界で最も高い石の塔。
5層のうち、下層は赤砂岩、その上は大理石と砂岩で築かれている。
巨大さにただただ驚く。


 

0332_2 最下層の外壁に刻まれるコーランの装飾文字。



Photo_118S0335 ヒンドゥー教寺院を壊して造られたモスクはクッワト・アル・イスラームと名づけられた。その廃墟の中に何とか形をとどめていた持ち送り式アーケード。イスラーム圏で行なわれていた真正アーチ工法がとられている。ここでも、アラビア文字のカリグラフィと、葉状のアラベスク模様で飾られている。鉄柱は4世紀にヴィシュヌ寺院に奉納されたもので、戦勝記念としてここに移築された。(左の写真は岩波「インド美術」より。右が自分の写真)

デリー市内で見た他の観光スポットの写真を一応掲載しておこう。

0301 インド門。
第1次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊塔。高さ42m。
インド門の彼方に大統領官邸が霞んで見えた。


0300 デリー市内では歴史的なヒンドゥー教寺院は数少ない。
ラクシュミ・ナーラーヤン寺院。1932年大富豪ビルラによって建てられた。極彩色のオリッサ様式。ヴィシュヌ神とその妃ラクシュミー女神が中心的に祀られていた。

デリー市内のスナップです。
0986 デリーまで来てようやく象を見た。
有力な政治団体の集会があり、駆り出されたらしい。(車窓より)



03240325車窓から見たデリー市内。
オートリクシャーもデリーのはきれい。
道路の所々にスラムを見かける。


0990 0995
昼食のレストランは裏通り。日本食だった。 
街角にはインド式ファストフードもある。日本の屋台と変わらない?

Photo_119レストランの通りの奥の方はこんな風だった。

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2006年12月22日 (金)

インド旅行の印象その10(デリー市内)

デリーは巨大な都市である。人口は1380万人。地方=田舎からの流入がとどまることを知らない状況のようだ。とにかくデリーへ出れば何がしかの仕事がある。少なくとも生きていけるだけの食い扶持はかせげるようだ。才能があれば上昇気流に乗れるかもしれない・・・。
しかし、特にデリー市内の古い地区は、超過密でスラムもあふれているようだ。住むところの無い人のために、市当局やお金持ちの篤志家が、道路上に大きなテント小屋を提供してくれている、ということであったが、私たちも幾つかそういうテントを目撃した。デリーの夜は冷え込むから、毛布もちゃんともらえるらしい。最低限のことではあるが、思いやりが感じれれてホッとしたことでした。

今回のツアーの欠点であるが、ムンバイにしろデリーにしろ、大都会の現実をつぶさに見、都市文化を肌に感じる事ができるだけの時間がほとんど無かったのが残念である。
私たちは、実質半日でニューデリーの4箇所の観光ポイントを周っただけだった。

デリーは、地理的には広大なインダス・ガンガー(ガンジス)平原の分水帯に位置し,ベンガル湾,デカン高原,アラビア海さらには中央アジアからの交通路が集まる戦略的要地を占める。そのため,インド史上とりわけ西方からの外来諸勢力の根拠地となって来た。インドは永く小国分立の時代が続き、デリーには12世紀まではヒンドゥーの諸王が、それ以降はムスリム王権が都を置いた。ムガル帝国は何度も遷都を行なっているが、第2代皇帝のフマユーンと第5代皇帝シャー・ジャハーンはここに都を置いた。現在のオールドデリーである。1911年、英領インドの首都がカルカッタからデリーに移され、ニューデリー地区に官庁群が建設されることになって今日に至っている。したがって、古くて超過密のオールドデリーと、近代的で人口過少のニューデリーと、対照的な二つの顔を持つのです。

観光は、ラクシュミーナラヤン寺院、インド門、フマユーン廟、クトゥブミナールを見たが、後ろの二つは世界遺産だから少しく触れることにしよう。

まず、フマユーン廟。1993年世界遺産登録。
ムガル帝国は第3代アクバル皇帝によって名実共に、全インドを統治するようになったが、彼の父のフマユーン(第2代)のために壮大な廟を建造、1571年に完成させた。建築に際しては、フマユーンの王妃がイラン人の建築家ギヤースを招いたと伝えられる。
タージ・マハルにつながる、広大な庭園付き墓廟の先駆けである。

十字型の水路によって4分割された庭園の中央に墓廟は建てられた。墓廟は赤色砂岩を用いて建てられ、白大理石で象嵌されて、高い基壇の上に据えられている。廟の内部は中心に8角形の部屋があり、それが8つの連結した部屋で囲まれるように構成されている。そして、大理石で出来たハニカム状に穴が開いているスクリーンから眩しいほどの光が石棺に降り注いでいる。これは、イスラム教では、光が神のシンボルだからである。
この庭園を含む全体構成はイスラムの楽園を視覚化したものと言われる。(この部分は岩波「インド美術」を引用)

S0310赤色砂岩と白大理石のフマユーン廟




S_0308S0309S0317 左は第1の門。その内側に第2の門。一番右は廟の基壇上から見たもの。


S_25中の門の内側に、華麗なペルシャン・タイル
の痕跡が残っていた。 




S0316孔の開いたスクリーンから神の光が降り注ぐ。




長くなったので、この辺で切って、デリーの続きは次回に。

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2006年12月18日 (月)

インド旅行の印象その9(エローラ)

石窟寺院が続く。エローラ。西インド、アウランガーバードの北西25kmの、なだらかな丘陵の麓に2kmにわたって、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟が並ぶ大規模な遺跡である。全部で34窟。1~12が仏教(7~8世紀)、13~29がヒンドゥー教(6~9世紀)、30~34はジャイナ教(9世紀)である。1983年世界遺産登録。

現地ガイドはK.カーン氏だった。彼は「河童が覗いたインド」の妹尾氏も案内した大物ガイドである。「・・・でございます」が口癖だと、妹尾氏は書いているが、とても流暢な日本語になっていた。大物ぶりは、他の観光客がいなくなった隙に、現場監視員に目配せして、ガイド内でもあまり知られていない特別のポイントに我々を連れて行き、紹介してくれたりすることで分かった。
ガイドによる見学は、第10、12窟(仏教)、第16窟(ヒンドゥー教)、第32窟(ジャイナ教)だったが、何と言っても、エローラのハイライトは第16窟のカイラーサナータ寺院である。

カイラーサナータ寺院は、ラーシュトラクータ朝盛期(8~9世紀)の岩石寺院(石窟ではない)で、幅45m強、奥行85m弱にわたって岩山を削り取り、楼門、ナンディン牛堂、前殿、本殿(高さ30m)を彫りだし、しかも周囲の岸壁に回廊や付属の石窟を彫っていて、その規模の点でも彫刻の作柄の点でもほかに比類がない。寺全体が奇跡の彫刻である。(以上は、平凡社百科事典より)

カイラーサとは、ヒマラヤを意味し、シヴァ神が瞑想した聖なる山のこと。着工は奈良の大仏と同じ頃、757年だが、完成までに200年かかったと言う。今は痕跡をほとんどとどめないが、当時は極彩色に彩られていたという。

第12窟は珍しい3階建ての石窟である。僧坊として造られたものという。太い柱が建ち並ぶ様子など、建築構造的にも興味が湧く。
第32窟を見学中、テレビ番組「DISCOVERY」のクルーと出合った。ドイツ旅行中にやはりテレビ番組クルーからインタビューを受けたことがあり、一瞬、ひやりとしたが、何事も無く立ち去った。

昼食は谷を隔ててエローラ石窟群を見渡せるレストランの芝庭で摂った。何を食べたか忘れてしまったが、日なたにあるテーブル席なのに、暑くなく、むしろ風がとても気持ちよく、ビールがとてつもなく美味しかったことを鮮明に覚えている。

エローラを後にして、残りの時間をアウランガーバード市内の観光に費やした。アウランガーバードはムンバイから東へ350kmのデカン高原の只中にある。人口68万人。アジャンタ、エローラの観光拠点となっている。市内にも見るべきものが結構あるようだ。
そのうちの、ビービー・カ・マクバラーという妙な名のところへ行った。
これは、1678年にアウラングゼーブ帝(街の名の由来でもある)の息子アザム・シャーが母のラビア・ドゥラーンを偲んで建てた廟である。タージ・マハルをモデルにしているが、国の財政が傾いていた(タージの建設で)ため、大理石を全面的に使えず、墓標の周りと、ドームの部分だけにとどめている。後は石材の上に漆喰を塗って装飾した。
そういうわけで、形こそ似ているが、タージのような輝く白さは無く、大幅に見劣りするのです。インドの人々からは、「貧乏タージ」とか、「悪しき物まね」と、言われる始末。
庭園もタージには見劣りするが、なかなか立派だった。ふと、庭園を見ると、大きなマンゴの木に美しいサリーを来た若い女性が登っているではないか。これは絵になると、200mm望遠を向けたが、あっという間に降りてきてしまった。

ホテルに着いてから、夕食までの間、みんなで、近くのバザールへ行ってみた。がたがたで、ゴミがいっぱいあり、ごちゃごちゃした道を通って。小さなスーパーでお菓子などを買い、露店の果物屋でオレンジを買い・・・

ホテルの夕食には、初めてタンドリチキンが出た。チットモ辛くなく、なかなかうまかった。

この日も、充実した1日だった。

S0079妹尾氏の『河童が覗いたインド』に出てくるガイド、カーン氏が
我々のエローラのガイドも勤めた。
迫力満点!

 
S0048エローラ石窟群。右奥から第1窟、第2窟・・・の順。




S0049 S0046第10窟。
ストゥーパの前に仏像がある。時代が下った証拠。左右に観音菩薩と文殊菩薩を従える。天井は木造を模した作り。S0055
第12窟は3階建て。僧坊としての機能を持つ。




下は、第10窟カイラーサナータ寺院。左から、寺院のプラン図、楼門、ナンディー堂、本堂の順である。壁の文字の彫刻は叙事詩「ラーマーヤナ」。全体の平面プランは馬車の、くびき―梶棒―座席を表現していると言うのだが。入り口に馬をつけて、寺全体を引いて行くという感じ。
Photo_117S0058S0061S0059





 




S0074_1 S0075
第32窟はジャイナ教寺院。
ジャイナ教には、神、女神はおらず、24人の使徒がいる。
女性像が幾つかあるが、アーモンドの木の下は“力”、マンゴーの木の下は“富み”を表わす。




S0078_1 S_0081 ビー・ビー・マクバラー。
タージと比較するのは可哀想。



S0080見つけたときは、二人とももう一段高いところに居た。
巨木はマンゴーの木。南インドには、若い女性がマンゴーの木を揺すると、たちまち実を結ぶという言い伝えがあるそうだ。
サンチーの東塔門の「マンゴーの樹を揺するラクシュミ」を髣髴とさせる。

S0942S932アウランガーバード市内点景。
左はバザーに行く途中、路地裏で見た羊を番する女。
右は、リクシャーの群れが客待ちをする表通り。
この混沌さが面白い。

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2006年12月17日 (日)

インド旅行の印象その8(ムンバイ=ボンベイ)

まだ、半分も行っていない。ここからは、時系列的につぶして行こう。
先ず、初日のムンバイ。旧名ボンベイ。
ムンバイは、アラビア海に突き出た半島部分にある。ずっと寒村に過ぎなかったが、1534年にポルトガルが当地を抑えていたスルタンから取得してから歴史は動く。1661年には英国に(贈り物として)委譲、更には68年には東インド会社に年10ポンドで貸し出された。同社は本拠をここに移し、それから大きな発展が始まった。現在の人口は1000万人を超え、インド第二の大都市に成長した。
永らく、ポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するボンベイの名で呼ばれてきたが、1995年に、より古いインドの地名のムンバイ(パールバーティ女神の化身ムンバにちなむ)に改称された。

朝8時半に、最初の観光スポット、インド門に着く。植民地インドの象徴である。
インド門の裏は船着場で、早朝にもかかわらず、大勢の観光客が、エレファンタ島行きの船を待っていた。目指す島まで約1時間。海は濁っていたが、風がとても心地よかった。
エレファンタ島には、世界遺産(1986年登録)の石窟群がある。6~8世紀のものである。16世紀にポルトガル人が始めて上陸した時、石窟群の前に巨大な象の石彫を発見、島の名の由来となった。
200mの岩山の頂上付近にあるから、駕篭かきがいて、我々の仲間も利用していた。第1窟の一番奥まったところにある巨大なシヴァ三面上半身像はヒンドゥー教彫刻の最高傑作のひとつと言われるが、暗くてキチンと写真を撮ることが出来なかったのが残念であった。(実はニコンの操作をマスターしておらず、咄嗟にASA感度の変更が出来なかったのです)
ここに限らず、石窟の場合は照明は皆無、入り口からの自然光だけだから、芸術鑑賞と言うには程遠い。雰囲気を掴むのにはよいのだが。

エレファンタ島の観光後、ムンバイ市内に戻り、プリンス・オブ・ウェールズ博物館を訪れた。大きな椰子の木がある素晴らしい庭園を備えた、インド・サラセン調の優雅な建物を見るだけでも価値があるが、所蔵品もとてもよかった。
何よりも嬉しかったのは、この博物館が、ムガル、ラージプート両派の細密画のコレクションで有名だったことである。カルチャーセンターでインド美術の講義を受けて以来、インドの細密画に魅せられてしまい、このツアーでも期待していたからです。
ここはイヤホンによるオーディオ・ガイド・システムが導入されているので、我々のガイドの説明は無く、各自自由に見ることとなった。私は、当然の如く、制限時間の90%は細密画を見ていた。どれも優美で絵の主題も多様で実に面白く、とても有意義な時間であった。
なお、ムガル細密画は、文字通り、ムガル帝国時代にペルシャの細密画を完全に吸収し、インド独特のものにしたものである。ある出来事の中の肖像画、群像肖像画が多く、顔は必ず横向きで面貌が特に緻密に描かれる。
ラージプートの方は、ムガル細密画の影響は濃く受けているが、主題が全く異なる。こちらはヒンドゥー教の信仰に関するものが描かれ、特に画家に好まれたのは若くて美しい牛使いクリュシナの恋である。
旅行中に模造品でいいから手に入れたいと思っていたが、各地を回るうちに、ホテルのショップや、ちょっと立派な土産屋には、アンティークの細密画があることが分かってきた。
表立って並べてないのだが、あるか?と、聞くと、おもむろに奥から取り出してくるのです。
値段はピンからキリまで。絵の緻密さ、主題、汚れ具合、芸術的価値などによるらしい。1~2万円ぐらいで、と思っていたが、なかなか自分の好みに合わない。
旅も後半に入って、ようやく値段と好みに合致するものがあり、購入できた。最初の店の値段は100ドルでビタ1文(セント?)まけられないと言う。他のものを見ながら80ドルなら買うと言うが、敵は強硬。普通は10%や20%はまけるのに、珍しいことだ。粘っているところへ我々の現地ガイドがやってきて助け舟を出してくれ、90ドルで落とすことが出来た。典型的なムガル細密画である。結構汚れがあるし、裏にも読めない文字がたくさん書いてあり、アンティークであることは間違いない。絵柄もとても緻密で、これなら文句はない。

ムンバイは現代の都市としての魅力もあり、ここに数日滞在できればきっと面白いだろう。しかしこのツアーでは、博物館を見た後、すぐに空港へ。内陸のアウランガーバードに向かう国内線の飛行機に乗った。
国内線のセキュリティ・チェックはとても厳しい。液体と電池は一切、機内へ持ち込めないし、手荷物は全部開けて調べられる。身体検査も徹底している。当然の如く飛行機は大幅に遅れる。

034 00390035朝8時半のインド門。英国王ジョージ5世(つまりインド皇帝)来印記念として1911年に建立。インド門の横の建物は1903年建築の“アジアの星”タージ・マハール・ホテル。

Photo Photo_116 10898エレファンタ島の桟橋。
120段の階段は駕籠に乗って。右は第1窟の入り口。高さ6m、広さ40m四方。

S0904899左は第1窟の内部の様子。
シヴァ神の像が幾つもあるが、これはそのうちの一つ。
足や手が無残にも取れているが、これは発見当時に、ポルトガル兵が鉄砲で撃って破壊したもの。ほとんどの像がやられている。

0906S0926ムンバイ市内は30度を軽く越していた。樹木の茂り方は異常なほど。ほぼ熱帯に位置するから当然か。
右はプリンス・オブ・ウエールズ博物館。
インド・サラセン調の建築も、大きな椰子の木がある庭園も共に素晴らしい。

S0909F0910インドが誇る細密画。この2点は名品中の名品。
左はMeeting of  Rama & Parashurama。
右はNahr Singh in Zenana。

S0912S_23 優美かつ面白い作品が目白押し。興味が尽きない。
全てガラスケースの中にあるので、写真が上手く撮れないのが残念だった。



S_24 
これは私が購入したムガル細密画。
典型的な肖像画スタイル。
20cm×12.5cm。当然ながら博物館のものよりかなり小振りである。





細密画以外にも名品多数。

Matrikas0924S0907左はMatrika(Mother Goddess)from a set of Astmarika
右は博物館のエンタランスの最も近くに置いてあるガネーシャ像。この神は障害を除去し、福をもたらすとされ、ヒンズー教徒に最も篤く信仰される。以後、至るところでお目にかかることになる。

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2006年12月15日 (金)

インド旅行の印象その7(ビンベトカ)

ビンベトカは今回のツアーの驚きの一つだった。こんなものまでインドにはあるのか!
考えて見れば歴史の古い国だから、当然なのだが。
約1万年前に描かれた洞窟壁画群。2003年世界遺産登録。

ボパールの南47km、ビンディエンチャル山中の自然の洞窟に、当時の人々は外敵から身を守るために棲みつき、牛、馬、鹿、象などの動物、狩りの場面、踊りの場面などを生き生きと描いた。
1957年にワカンカ教授によって発見された。
顔料は、白が動物の皮膚、赤はリクリという植物、黒は石炭であるという。リクリは辺りに今でも生えている。ガイドに教えてもらって、葉を手で揉みつぶすと手が赤くなった。
洞窟と言っても、そこらじゅうにある火山性の大岩の自然に庇の形(大抵1段高いところにある)になった部分である。3~5m凹んでいるだけで、一見頼りなげに見えるが、気の遠くなるような年数を経ても彼らが描いた壁画が残っていると言うことは、方角や風向きの面から最適な場所だったのだろう。逆説的にそう言える。
世界遺産になったと言うのに、シェルターだとかの保護や養生は全くなされていないが、それでいいのかも。破壊するとすれば観光客だろう。これは配慮すべきだ。
ガイドブック「地球を歩くシリーズ」にも正式には取り上げていないくらいだから、ここまで来る観光客はまだ少ないようだ。入り口には管理小屋とか、切符売り場とか、そういったものは何も無い、叔父さんが独り待っていただけだった。
(そういう環境だからトイレも青空。女性も含めて数人が・・・)
絵が描かれた時期は、1万年~7千年前、7千年~5千年前、5千年~3千年前の3つに区分される。当然のことながら、初期ほどプリミティブ(幼稚)で、後期になると狩りや踊りの場面なども現われて複雑になる。これらの絵をじっと見ていると、いつの間にか心は原始時代へ飛び、一生懸命生きたであろう洞窟の住人がとてもいとおしくなるのでした。

0131ビンベトカの入り口
ほとんど無人に近い。
この案内板にガイドが間違いを見つけた。100000年前となっていた。


Binnbetoka_doukutu_kannkyou_20156 0157
最もダイナミック、かつ見やすい洞窟
右は離れて洞窟全景をみたところ


0134 0132 これは別の洞窟
プリミティブな描き方である。



0136 0142_1 右は狩りの絵。実に生き生きとしている。




0152 このように山中、大岩だらけ。
ここで、リクリの葉を取り、赤い汁が出るのを確かめた。



★インド旅行の印象その2(ベナレス)の写真を4枚追加しました。
  ガンガーの岸辺遠景、ガンガーに漂う、ベナレス(バラナシ)の路地など


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2006年12月13日 (水)

インド旅行の印象その6(カジュラホ)

時系列的ではなく、印象の強かったところから書いて来た結果、たまたま仏教関係が続いた。ここらでヒンドゥー教の華麗な中世寺院があるカジュラホを取り上げよう。

カジュラホは、中部インドのチャンデッラ王朝の古都である。9世紀末~12世紀のヒンドゥー教を主体とした寺院が20ほど現存する。当時はこのそう広くもないエリアに85も寺院があったと言う。
寺院はいずれも高い基壇の上に建ち、平面は双十字形、屋根は小尖塔を多数積み重ねた高塔(シカラと言う)となっている。山のようなこの屋根が魅力的である。
内外の壁面を埋め尽くす神々、アプサラス(天女)、ミトゥナ(抱擁する男女)のおびただしい彫像は、ほっそりとして軽快で、その姿態は変化に富み、明るい官能性を持っている。
11世紀第四半期のカンダーリア・マハーデーヴァ寺院が最も壮大(高さ30.5m)で、外壁の彫像群も圧巻である。

その他の寺院では、デーヴィ・ジャクダンヘ寺院、ラクシュマナ寺院、ヴィシュワナータ寺院に見事な浮き彫りがある。
ガイドの説明はカンダーリア・マハーデーヴァ寺院のみで、後は自由見学となる。
ほとんど同じだとのガイドのコメントに、あまり真剣に見なかったが、現地で購入したインド考古学会(仮訳 Archaeological Survey of India/Goverment of India)発行の冊子を見ると、カンダーリアの作品紹介は少なく、むしろ、ラクシュマナ、ヴィシュワナータ寺院の作品紹介が多いのである。
カンダーリアには性行為に直結した、エロチック度の高いものが多く、観光客が喜ぶとでも思っているのだろうか?後で分かったことだが、芸術的にも価値のあるものを見逃したようで残念でならない。そういう意味ではしっかりした冊子は必ず購入すべきだと再認識した。

ここで、妹尾氏の「河童が覗いたインド」から引用をしよう。

《僕がカジュラホへ行ってきた、と聞いただけでニヤニヤ笑った人がいた・・・カジュラホを世界的に有名にしたエロチックな男女の合歓のミトゥナ像だが、実物を目の前にすると、乾いた美しさに先ず感動して、卑猥さなど全く感じない・・・ミトゥナ像はぎらぎらした太陽の光を浴び、青く澄み切った空を背景に、実にアッケラカンと、「性の歓喜」を謳いあげていた。》

全く同感です。

(参考)
インド共和国の現在の宗教別人口は、ヒンドゥー教徒81.3%、イスラーム教徒12%、キリスト教徒2.3%、スイク教徒1.9%、仏教徒・ジャイナ教徒ほか2.5%である。
多数の宗教が概して平和に混在しつつ、しかもそれぞれの文化や伝統をしっかり守っている・・・それがインドの多様さ、混沌感を生み出している要素かもしれない。

S_13 カンダーリア・マハーデーヴァ寺院




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これらは、カンダーリア・マハーデーヴァ寺院の外壁の彫像の一部である。右から2番目のものなど、日本では超有名であるが、考古学会発行の冊子には載っていないのですぞ!学術的、芸術的には価値ゼロ?(一番右の写真の右側の女性はアイシャドウを塗っているのが面白い)
考古学会冊子に載っているのは次のような写真。官能的ということで言えば、その埒外ではないが、美しさ=芸術を感じますよね。
Photo_111 Photo_112 Photo_113Photo_114











Photo_115 この冊子には屋根を構成するシカラ(Sikhara)の変遷も示している。4番目が最も複雑に発展したカンダーリャ寺院である。


S0227S0230ライオンとも違う得たいの知れない野獣
強烈なアクセント。
これも考古学会のには載っている。
 

S_20 カジュラホはヨーロッパからの観光客も多く、
空港もあるし、リゾート的雰囲気である。
こんなサリーの女性は実に健康的である。


S0196 カジュラホの夜は、インド舞踊を見に行った。
専用の劇場があり、イタリア人やフランス人の
グループと一緒になった。
マハーラーシュトラ州、パンジャブ州、ラジャスタン州などの民族舞踊が演じられた。手や体の動かし方が独特で優雅ではあるが、一方、動きがとても早い。想像していた踊りとはまるで違っていた。タブラーなどの打楽器とハーモニア、歌が入り、踊りを盛り上げていました。

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2006年12月10日 (日)

インド旅行の印象その5(アジャンタ)

4日目、21日は今回のツアーの最大の目玉、アジャンタへ行った。
アウランガーバードから北東へ約100kmの山間、ワーグラー渓谷の断崖中腹に仏教寺院群が刻み込まれていた。しかもそこには、人類の宝とも言うべき素晴らしい壁画があった・・・

電池で走るシャトルバスを降り、徒歩で石段のアプローチを歩いて行くと、突然湾曲したワーグラ渓谷とその崖に多数の石窟が並んでいるのが眼に飛び込んでくる。とてもダイナミックな素晴らしい眺めだ。
石窟は全部で30あり、真ん中あたりの5窟が紀元前1世紀頃の「小乗仏教期」、それ以外が紀元5世紀の「大乗仏教期」のものであるという。小乗仏教期のものは仏像表現の無い時代であるから作りが簡素で、ストゥーパを礼拝の対象とするスタイルである。アジャンタを有名にした素晴らしい壁画のあるのは5世紀の第1窟である。
期待に胸膨らませ、『蓮華手菩薩』の壁画の前へ!しかしとても暗い。眼がなれていないせいもあり、細部は分からなかった。観光客も多く、とてもじっくり観ておれない。ちょっと人が切れたのを見計らって写真を撮ったが、案の定とても見れる様なモノにならなかった。正直言って、『蓮華手菩薩』に関しては満足感は得られなかった。

しかしながら、これだけの石窟が並んでいるのは圧巻である。ガイドは第1窟、第2窟、第10窟、第17窟を案内してくれ、自由時間となる。思い思いに石窟を覗いて歩いた。
ところで、何故こんな大変なところに造られたのか?
ガイドブックによれば、仏教僧たちが、インドの過酷な雨季にも雨を避け、落ち着いて修行が出来るように、ということだった。
石窟は通常、ヴィハーラ(僧院;僧の住居)とチャイティア(塔院;礼拝するところ)が対になっている。

このアジャンタの遺跡は仏教の衰えと共に、永く忘れ去られていたが、世に出るようになった経緯がとても興味深い。
『1819年、虎狩りをしていたイギリス人将校ジョン・スミスが虎を追ってこの付近まで来た。銃を撃つも外れる。虎は渓谷を降り、川を越え、ツタに覆われた崖に姿を消した。スミスは双眼鏡で一見何も無い崖を眺めているうちに装飾のある石の建造物の端がチラリと見えた・・・』
この時のスミスの気持ちはどんなだったろうか?ロマンを感じますね。

妹尾氏が「河童が覗いたインド」で、やはりこの発見譚に強い関心を示し、スミスが虎を追ってきたルート図まで描いている。また、対岸の虎を撃った地点も訪れている。
(実はこのツアーは妹尾氏と若干の繋がりがありました。それは別途)
虎が入って行ったのは第10窟だと言われる。ここには、Jhon Smithのサインが残っていました。

Photo_107 アジャンタ石窟群の見取り図
右下が電池シャトルバス発着場。
中州のようなところにある見晴らし小屋付近で
スミスが虎を撃った

Photo_97 ワーグラー渓谷の崖に石窟が並ぶ・・・大パノラマ



S0093 上り下りがあるので、駕篭かきもいる。
1,2,10,17窟は必見。



S_14 法隆寺金堂の菩薩像のルーツとして
あまりにも有名な「蓮華手菩薩」
現場は本当に暗い。写真はASA1600でも怪しい。
ボぼけた写真しか撮れなかったので、現地で買った
冊子をピーした。



Photo_106

Photo_105 第1窟の天井と壁面の装飾
入り口に近いところは撮影できた。



S_15S_16第17窟は第1窟に次いで壁画の保存状態が
良い。しかし写真は撮れない。
入り口の壁面と天井の装飾を撮った。


Photo_108

Photo_109Photo_110ストゥーパを持つ石窟。
第9,19,26窟。
年代が進むにつれて、
形や装飾が複雑で華麗
になるのが分かる。
木造を模した天井。



S_17
最後まで開窟作業が行なわれていた
第26窟には涅槃像がある。


S_18S_19

上左は「河童が覗いたインド」から引用。
右はその状況がよく分かる写真。右の山の上から虎を撃ったようだ。

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2006年12月 8日 (金)

インド旅行の印象その4(サールナート)

サールナートは四大仏跡のひとつだ。今回、ここを訪れることができ、とても感激した。
四大仏跡とは、①生誕の地ルンビニ(ネパール)、②大悟(さとり)の地ブッダガヤ、③初転法輪(初めて説法をしたところ)の地サールナート④入滅の地クシーナガル である。

25日午後、ホテルを出てバラナシ(ベナレス)の北東10Kmにあるサールナートに向かった。サールナートの遺跡はのどかな田園ないし原野に囲まれた静かな村の中にあった。ここには見るべきものが3つある。

先ず、ムールガンダ・クティー寺院に入った。1936年にスリランカの仏教教会が建設、日本人画家野生司香雪が、釈迦の生涯を壁画に画いた。ガイドからその内容を聞く。

村の道路を歩いていくと、木々の緑と芝生が美しい広大な敷地と、その中に建つ巨大なダメーク・ストゥーパが見えてきた。この敷地では、紀元前3世紀のアショーカ王の時代から12世紀までのいろいろな遺跡が出土した。「ダールマージカ塔と根本精舎を中心に、グブタ時代に最も栄えた」と、資料にはある。ダメーク・ストゥーパは6世紀に作られたもので、高さ42m、基部の直径27m。グプタ様式の貴重な例とされる。この地で釈迦が始めて説法を行なったのです。

ブッダガヤ(バラナシの南東に位置する)で悟りを開いた釈迦が、それを胸に秘めつつ長い道を歩き、当時多くの宗教者が集まっていたバラナシを目指した。そして市の郊外の、鹿野苑(現在のサールナート)についた後、かつて共に修行していた5人の修行者に会い、悟った真理を初めて語った。耳を傾けたのはこの5人と、森に住む鹿たち。だが、ここで初めて「言葉」になった教えは、その後世界に広まり、人々の心にしみ込んで行く・・・(ガイドブックより)

遺跡敷地の一角には、かつて多くの僧が修行していた僧院の跡も残っている。また、アショーカ王の建てた石柱の基部も残っていた。

ストゥーパ遺跡に隣接してサールナート考古学博物館があった。こにある転法輪印坐像は円満かつ静寂の境地を具現し、インドで最も美しいと、称えられるものとのこと。5世紀の作。撮影禁止であるのが残念。

サールナートは世界遺産でもなく、そんなに見るべき対象があるわけでもないが、心にしっかり残ったのは、やはり仏教の聖地だという意識のなせる業だろう。

S_7ムールガンダ・クティー寺院
野生司香雪による釈迦の生涯の壁画がある。



S_8 寺院の傍らに初転法輪(初めての説法)の模様をを再現してあった。バックの大きな木は菩提樹である。



S_9 ダメーク・ストゥーパと遺跡群




S_11 ストゥーパの前の芝生に、僧が一人、座して礼拝していた。




S_10 先生と生徒。何を教わっているのだろう?
右後ろに犬が寝ている。安穏な空気が満ち満ちていた。

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2006年12月 3日 (日)

インド旅行の印象その2(ベナレス)

11月24日夜はベナレス泊。5時にモーニングコールで起こされ、ガンジスに向かう。薄明の河畔に着き、中心的な存在であるダシャーシュワメード・ガートから船に乗る。ガンジスは思っていたよりずっと大きな河だった。水も意外ときれいである。30~50m離れた岸辺を見ると、立派な寺院や館がずらりと建ち並び、それぞれから階段が水辺まで降りている。沐浴が出来、見晴らしの良いところにインドの諸侯が競って建てたものと言う。このような階段付きの堤をガートと言い、60くらいあるようだ。火葬場になっているところもある。
沐浴の風景は写真でよく眼にしていたが、実際の環境は初めて理解できた。
夜が明け始めて、岸辺の様子がはっきりと見えるようになってきた。この日はそんなに多くはなかったけれど、沐浴の人々が見える。中には岸から離れて水面に漂っている人もいた。やがて、太陽が昇り始め、水面に光の影を映す。ガンジスの最も美しい瞬間だ。この日は地平上に若干の雲があったが、それでも充分にその荘厳な美しさを味わうことが出来た。こんな環境なら、私でも沐浴してもいいな、と言う気になる。そっと、水に手を漬けてみた。少し冷たかったが、気分は悪くない。

船を後にして、ガートから路地裏を通ってヴィシュワナート寺院に向かった。迷路のような狭い路地は牛の糞やゴミが散乱していて、注意深く歩かねばならなかった。不思議な匂いも充満している。ごちゃごちゃした建物も興味深いし、いろいろな店もあったが見る余裕はあまりなかった。
ヴィシュワナート寺院はベナレスの信仰上の中心、シヴァ信仰の中心でもある。驚いたことに、周りは厳重な柵で囲われ、観光客はセキュリティーチェックがなされる。カメラは全くダメ。カービン銃(?)を持った兵士が大勢、警護している。
この寺院はイスラーム教モスクの一角にあるという不思議な構造になっている。元はヒンズー教の寺院だったのが、12世紀にイスラーム教徒が破壊し、モスクに改造されてしまったが、18世紀になってその一角にヒンズー教の寺院が復活されたものと言う。
何年か前に騒動があり、多数の人が殺された事件があり、このように警備が厳しいのだ。
そんな環境の中で、ヴィシュワナート寺院は金箔に覆われ、燦然と輝いていた。
インドでは幾つもの宗教が平和に共存していると、聞いていたが、やはりそうでもない部分があるということを知ったのです。

なお、日本ではベナレス、ガンジスで通っているが、現地の実際の発音は、バラナシ(ワラナシと聞こえる)、ガンガーであることを言い添えます。

248 沐浴風景。シャッターのタイミングはグッドだが、いかんせん暗いので手ぶれが出てしまう。



0251 ガートに集まってきた人々。階段は水面下まである。



S0263 S0270 ガンガーの岸辺の風景
インドの諸侯が競って別荘を建てた。
寺院も多い。ボートはほとんど観光客用。


S_21 ガンガーに漂う。




0268 ガンジスの日の出




S_22 ベナレス(バラナシ)の典型的な路地。
ゴミだらけで、牛がいて・・・当然糞も多い。
匂いも凄い。朝食が食べれなくなった人もいた。

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2006年12月 2日 (土)

インド旅行の印象その1

13日間のインドの旅は長かったようにも、また、あっという間に過ぎ去ったようにも感じられる。悠久の歴史的遺跡や、多分大昔からあまり変わらぬ人々の生活ぶりを眺めていると、インドの時間はゆったり流れているように思える。しかし、見るもの全てが驚異で、脳髄がしっかり受け留める暇がないくらいの情報の洪水のうちに、ツアーの日程は終わってしまった。

撮った写真をざっと見てみたところ、街や村の人々を撮ったものが非常に多かったのに気がついた。世界遺産の写真ももちろん多数撮ったが、この辺りが他の地域での旅行と違うところですね。観光の対象と言うべきではないかもしれけれど、見るべきものが2倍あるという感じでした。

「混沌の世界」だとは聞いていたが、現地へ行ってみて初めてそれがどういうことか認識できた。混沌感を生み出す最大の原因は、10億を超える人間が、異なる言葉や宗教を抱えながら一緒に暮らしていることでしょう。正に「人間のるつぼ」。

都市の一部を除いて、インフラストラクチャーも最低限にしか行き渡っておらず、大昔からの生活と変わらぬ人々が大半のように見える。

主要都市間の道路はハイウエーと呼ばれているが、片道一車線の舗装道路とは名ばかりのがたがた道である。この道は人々の生活の手段でもあるから、いろんなものが通る。車は乗用車は少なく、トラックやバス、農作業車が多い。どの車もトコトン使い古して年季が入っている。時折、人を満載したバスやトラックが通る。屋根の上にも何人か乗っているし、荷台から溢れ外側にも何人かがしがみついていたりする。
歩行者、自転車もいるし、これがインドの特徴だと思うけれど牛車やらくだ車が頻繁に通るのです。道路脇に住んでいる人々は大概牛や羊を飼っており、これらがしょっちゅう、道路を横断し、交通を妨げる。しかし、牛も運転手も慣れっこだから、事故もあまり無いようです。

牛、水牛、羊が多く飼われているのは、ミルクを採るためで人々はミルクが大好きだと言う。水牛はとても濃厚なミルクを産するという。牛は4~5万円、羊は7~8千円で買える。牛はとても利口で放し飼いにしていても飼い主以外には絶対についていかない。水牛はそうでないので必ず見張りが要る・・・こんなインド人ガイドの説明が印象に残った。

人が多いといってもインドの国土は広いから、都市間の道路を走ると無人の野が広がっています。人々は集落にぎっしりと詰め込まれたようにして生活しているのです。
したがって、道路から一歩離れた野ッパラは乾燥期でもあり、とてもきれいで寝っころがりたいくらい。遠くの地平線を見ながらの青空トイレは最高によい気分でした。

Photo_95 ハイウェーを行く牛の隊列



S_4 交差点横断中。ゆっくりゆっくり、真っ直ぐに進みます。



012sjpg インド式芝刈り(タージマハール庭園にて)

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2006年11月17日 (金)

インドへ行ってきます

18日から30日までの予定でインドへ行ってきます。
概略スケジュールは次のとおり。

第1日 成田からバンコク経由でムンバイへ(ムンバイ泊)
第2日 ムンバイ市内観光、エレファンタ島石窟寺院(オーランガバード泊)
第3日 オーランガバード市内観光、エローラ観光(オーランガバード泊)
第4日 アジャンタ観光(ボバール泊)
第5日 ビンベトカ見学、サーンチー観光(ボバール泊)
第6日 列車にてカジュラホへ(カジュラホ泊)
第7日 カジュラホ観光、空路ベナレスへ(ベナレス泊)
第8日 ベナレス観光、空路デリーへ(デリー泊)
第9日 デリー市内観光、クトゥミナールフマユーン廟(アグラ泊)
第10日 アグラ市内観光、タージマハールアグラ城ファティプール・シクリ(ジャイプール泊)
第11日 ジャイプール市内観光(ジャイプール泊)
第12~13日 帰国の途につく
  (アンダーラインは世界遺産)

ベストシーズンと言っても、ムンバイ(ボンベイ)は最低気温22度、最高気温は31度以上ある。デリーなど北部は快適な温度のようだ。乾季の為、雨は先ず降らない。
インド料理は口に合うだろうか?日本のカレーライスは大好きだが、大分違うらしいのだが。

Photo_94インド料理カタログ
見た目はどれも美味しそう!




Photo_93 カーシュ・カーレイ「リベレーション」・・・深遠なる音の泉へ
湧き上がるタブラの律動、官能を呼び覚ますシタールの響き。インド古典楽器とエレクトロニカが融解する悦楽のラビリンス・・・。
ザキール・フセイン、マドラス室内管弦楽団共演。

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2006年10月19日 (木)

紀三井山金剛宝寺護国院(紀三井寺)…西国三十三箇所巡り第二番札所

粉河寺境内の茶店でよもぎうどんを食べたあと、和歌山に戻る。和歌山から紀勢線で二駅目がJR紀三井寺駅。強い陽射しの中を線路沿いに歩くこと10分、道路が直角に左に折れると、店が並ぶ門前街の奥に「紀三井山護国院」の大きな石標を従えた重文の赤い楼門が見える。

この楼門をくぐるとすぐに231段の急勾配の石段が待っている。韓国人の観光グループの人達が降りてくるのに出会う。

石段を上がると平坦地に出る。多宝塔、開山堂、六角堂、鐘楼そして本堂が並ぶ。境内は桜の木で埋め尽くされているのだが、今の季節は葉が半分ほど落ちて、残っている葉も枯葉色、桜名所100選にも入っているというが面影は無い。

万葉歌にも詠まれて有名な和歌の浦を展望できるのだが、靄(もや)ってほとんど見えなかった。「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」…か。

写真を撮るには季節も、天候もよくない。そういうわけで、枚数も少なくなってしまった。

ご本尊は十一面観世音菩薩。寺の名の由来は、吉祥水、清浄水、楊柳水の三つの豊かな井戸があること。環境庁の名水100選にも選ばれている。
この井戸の写真を撮りたかったが、電車の時間が気になって素通りしてしまい、今頃になって残念に思うのです。やはり、時間的には充分に余裕を持つべし、というのが今回の反省事項でした。なお、この三つの井戸の紹介が和歌山市のホームページに「環境庁名水100選」として載っていました。
http://mizu.nies.go.jp/meisui/data/index.asp?info=62

3
納経帖



Photo_73
重文の楼門。傍らに「紀三井山護国院」の石標。
欄間に見事な牡丹唐草の透かし彫りがある。





Photo_81
石段は231段。かなりの急勾配。頭上には桜。






Photo_82
本堂前にも桜、桜…
この時期は、見通しをさえぎる障害物に過ぎない。

Photo_83
六角堂。西国札所の観音を祭る。



Photo_84
参詣者の多い大師堂を見上げる。
石段の途中から脇へ入ったところににある

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2006年10月18日 (水)

風猛山粉河寺(かざらきさん こかわでら)・・・西国三十三箇所巡り第3番札所

二周り目の西国三十三箇所札所巡りを開始した。

前回は、ほぼ順番どおりに周ったが、今回は順番にはこだわらないつもりだ。とりわけ、一番は熊野の青岸渡寺で、日帰りは無理だから後回しにして、今回は二番紀三井寺、三番粉河寺(こかわでら)を選んだ。

この二つは和歌山市近辺で、名古屋からは距離は大分あるが、新幹線と紀勢線特急を使うと充分日帰り圏内である。朝7時に家を出て、和歌山に到着したのはちょうど10時。

先ず、遠い方の粉河寺へ行くことにして、和歌山線の単線の電車に乗る。紀ノ川沿いののどかな田園地帯を30分ぐらい結構スピードを出して走る。地元の人たちが乗り降りする。観光客はほとんどいなかった。

天気は晴れ過ぎて真夏のように暑く、陽射しも強かった。JR粉河駅から山門(大門)までは10分ほど歩かねばならないが、太陽がほぼ真上だから日陰も無く、半袖姿でも汗ぐっしょりになった。

三十三ヶ所のどの寺も個性があるが、粉河寺も一度訪れるとあの独特のイメージが脳裏に焼きついて忘れられなくなるでしょう。

重文の大門と中門も立派だが、異彩を放っているのが、入母屋を二層に重ねた堂々とした本堂と、その真下にオープンに置かれた枯山水庭園である。中門をくぐった人々の眼に、これらが一体となったこれまで見たことの無いような景観が飛び込んで来る。

この驚きを写真に撮ろうと思ったが、なかなか難しい。

二度目だけれど、最初のような新鮮さを覚えた。

770年創建。ご本尊は千手千眼観世音菩薩。本尊造営にまつわる奇跡とその霊験譚を描いた絵巻「粉河寺縁起」は国宝。
納経所で新しい納経帖にしるしを入れてもらう時、二周り目だと言うと、三十三ヶ所札所巡り満願(完了)の人は、「先達」の申請が出来ますよ、と言われた。称号のようなものか?折角だから、次回には満願の納経帖を持参して申請しよう。

今回の札所めぐりは、写真を撮るのが一つの目的だったが、何をどう撮るか、現場では大いに迷った。そして帰って来てから、ディスプレーに写してみると、ピントはよくないし、天気が良すぎたせいか露出が過剰で明るすぎる映像が多かった。

それに、時期が中途半端。緑は色あせ、紅葉には早すぎる…

ただし、標準レンズとして使っている27~203mm(35mm版換算)のレンズはフレーミングが自在に出来、とても頼もしく思った。

紀三井寺の報告は改めて。

Photo_80 納経帖
粉河寺縁起の概要と御詠歌が載っている。



Photo_74 粉河寺大門。重文。
門前町の通りを歩いて来ると先ず眼に入る寺の構造物。
広大な敷地を持ち、中世には550坊を数えたという。

Photo_75 大門とは全く異なる、
風雅なたたずまいの中門。重文。




Photo_76 堂々たる二層屋根の本堂と引き立て役の枯山水庭園。
ソテツが使われているのが珍しい。さつきの刈り込みが凄い。花時はどんな風になるのだろうか?


Photo_77 枯山水の最左端から本堂を臨む。




Photo_78盥漱盤(かんそうばん)(粉河町指定文化財)
安永4年(1775)粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作。かつて江戸時代に全国に知られた粉河鋳物の代表的作品。技術的にも優れ、以後2百年余、働き続けている。
      「軽くまふ盥漱盤に一葉舟」 狙岡(そこう)

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2006年10月14日 (土)

地中海古代ブロンズの謎(1)・・・朝カル受講記録

朝日カルチャーセンターの10月新講座「地中海古代ブロンズの謎」の第1回があった。講師は国立西洋美術館リサーチフェローの羽田氏。

私は美術に関しては、定年退職後の俄かファンである。ヨーロッパへ5回ほど旅行したが、その都度、美術館を巡り、多くの名画を見ているうちに、自分が美術が嫌いではないことに気がついたのです。そこで、少しでも理解を深めようと、美術関係の講座を積極的に受けるようになった。

しかしながら、絵画は良いとして、彫刻やブロンズにはあまり惹かれることは無かったのですが、昨年の愛地球博のイタリア館に展示されたブロンズ「踊るサテュロス」を見てから、意識が変わってしまった。

このサテュロスに限らず、古代ブロンズは絵画に比べて年代がうんと古いにもかかわらず、素晴らしい芸術性があること、それに加えて発見過程や、何処にあったか、何を表現するかについてよく分かっていない場合が多いことなど、大いにロマンを感じさせるのですね。

今回の講座は、幾つかのブロンズに焦点を当て、これまでの研究によって明らかにされた(推測された)ことを紹介してくれるという、とても魅力的な内容になっています。
講義の予定は次のとおり。

第1回;代表的な古代ブロンズ80点概観

第2回;製作技術を中心に―「マザーラのサテュロス」「リアーチェの戦士」

第3回;二大難破船を中心に―「アンティキュテーラの青年/哲学者群像断片」「マラディアのエロース/ヘルメース柱」

第4回;馬を中心に―「アルテーミオンのゼウス/馬とジョッキー」「デルフォイの馬車群像断片」「サン・マルコの馬」「マルクス・アウレーリウス騎馬像」他

第5回;現在ローマにある作品を中心に―「クィリナーレの拳闘士/君主」「カピトリーノのスピナーリオ(棘を抜く少年)」「テヴェレのバックス」他

第6回;女性像を中心に―「ペイライエウスのアポッローン/アテーナー/アルテミス」「アゴラーのニーケー頭部」「ロドスの眠るエロース」他

【注】「○○の××」という表記の○○は発見された土地名である。

今回は、紀元前6世紀から紀元5世紀頃の代表的なブロンズを概観するということで、約40点について簡単な紹介があった。

講師は古代ブロンズで文学博士号(東大)をとっており、ローマの大学にも客員研究員として在籍して研究を行なってきた、ブロンズの専門家である。11月には著書「古代ギリシャのブロンズ彫刻―総合推論のために」が発売されるが、これは日本語で書かれた唯一の概説書であるとのこと。
それぞれの古代ブロンズは、失われている部分が多いし、本来置かれていた場所から移動されている場合が多い。氏は、それぞれのブロンズについて、製作手法とか素材などの研究に基づき、本来はどういう作品で、いかなる歴史をたどったかを推論されている。

次回以降、詳しい話がある予定だが、例えば、イタリアのマザーラの海で見つかった「踊るサテュラス」にしても、踊っていたのではなく、髪を捉まれて這いつくばっていた可能性があるという。しかも、そうであれば一体だけの作品でなく、群像の一部だったかもしれない、という。

古代ギリシャで発達したブロンズ像の見事な芸術性は、像を幾つもの部分にわけ、分鋳し、溶接するという、表現の自由度の高い手法をとっていることによるようだ。他にも制作上の技術には興味ある要素があるようで、これも次回以降、解説がある予定です。

Photo_71 踊るサテュロス
昨年、愛知万博のイタリア館に展示された。
1998年シチリア、マザーラ・デル・ヴァッロ沖で発見。




Photo_72
デルフォイの御者
古代ギリシャ・ブロンズの傑作のひとつ。









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2006年10月11日 (水)

交換レンズ「シグマ30mmF1.4」の試し撮り

一眼レフを買ったからには交換レンズも何か一つは欲しいというわけで、いろいろ検討を始めた。本来なら、撮りたい被写体、シーンがあって、それに応じたレンズを、ということになるのであろうが、当てがあるわけではない。言って見れば、一眼レフの潜在能力が何処まであるかに興味があるのだ。

ところが、ボディとキットの常時使用レンズ18135mmF3.55.635mm版換算27203mm)で画角に関しては広角から望遠まで非常に広く、ほぼ万能なのだ。

そこで、2つ目のレンズの選択肢としては、

①広角サイドを更に広げる超広角レンズ…デフォルメ画像も撮れる

②望遠サイドを更に広げる高倍率望遠ズーム…野鳥撮影に効果?

③近接撮影用のマクロレンズ…花や昆虫の写真に最適だが、手持ちの常用レンズでもOK

④その他の個性的なレンズ…大口径の明るいレンズなど

が考えられるが、

ほとんど「ひらめき」で、シグマから最近出たデジタル用30mmF1.4を購入した。これは上記の④に相当する。

もちろん予算的なこともあるが、雑誌などで、このレンズの可能性について好意的な評価が出ていたのが決め手だった。

デジタル30mmというのは35mm版換算で50mm相当と、ごく標準の焦点距離で、人の目の感覚と同じだから、スナップ、ポートレート、風景など、利用範囲が広い。

そしてこのレンズの特徴はF1.4という明るさである。開放での背景のぼかし効果が凄いし、夜景や少々暗いところの撮影にも威力を発揮するだろう。

道具は揃ったが、被写体探しは簡単ではない。積極的に歩き回るしかないでしょう。

とりあえず、手近のところで、このレンズの試し撮りをした。

Wotan_042ウォータンのポートレート  絞りf 1.4 1/1600

背景、前景が綺麗にボケて、ウォータンが浮かび上がって見える。



Photo_69 夕暮れの噴水 絞り
f 1.4 1/4000

時間を止めて見る噴水は、肉眼とは随分違っていることに気がついた。



Photo_70 光芒 絞りf 10 1/125

木の間から洩れる太陽の光のほさき…実はこれはこのレンズ独特のもの。8弁の花形の絞り構造によるものらしい。

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2006年10月 8日 (日)

アケビは山遊びの子等のおやつ

駅前の農協…今はACOOPというのですね…は、この地区では、他のスーパーより品質が格段によく、変わったもの、高級なものも置いてあるので、よく利用するのだが、そこで、大きなアケビが売られているのを見つけ、その色の美しさと、懐かしさで1個だけ買ってしまった。山形産、380円也。

アケビというものを初めて見、そして口にしたのは50数年前、小学校4~5年生の頃だったろうか?
当時、
私は金沢市に住んでいたが、官庁勤めの叔父に連れられて、よく近郊の野山にハイキングに行ったものです。
ある秋の日曜日に戸室山へ向かった。この山は、金沢の市街からはとてもよく見える山の一つで、後ろにもっと高い医王山があるがそれを差し置いて、独特の形で存在感があり、昔から市民に親しまれている。
今は麓まで車で行けばよいが、昔は歩くしかなかったから、結構時間がかかったのを覚えている。大汗をかいて登ったのに、標高548mの頂上はブナの木々に覆われ展望が全く利かずがっかりした。
何とか下界を眺めようと登れる木はないか探したりしている時、アケビがたくさん生っていることに気がつき、叔父と二人でもいで食べました。
種だらけだけれど、甘くて美味な白身(胎座という)を口いっぱいにほおばった時、とても不思議かつ幸せな感覚を覚えたことを思い出す。
就職と同時に、故郷金沢を離れて、40年以上。アケビは私をタイム・ワープさせたようだ。戸室山の環境も大きく変わったろうと思うのですが、インターネットで最近登った人の記事を読むと、中腹より上はあまり変わっていないようで、ホッとした。
しかし、アケビってこんなに大きくて綺麗な紫だったか?
多分、商品化されて選抜が進んだのでしょうね。心の中の素朴なアケビとは別物と思いたい。そうでないと、懐かしい子供時代の思い出までがどこかへ飛んでいってしまいそう。

038

アケビの果実
熟れると、開いて白い胎座(これを食べる)が見えるようになる。
まだ、暫らく時間が掛かりそうだ。

Wikipediaによると、昔から山遊びの子供らの格好の「おやつ」だった、とある。
また、最近では、白い胎座(種を含む)の部分だけでなく、紫色の実の部分を料理に使うようになったそうだ。
竜胆寫肝湯などの漢方方剤にも使われる。

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2006年10月 5日 (木)

集合知…Wikipedia…ポピュラー音楽のジャンル分け

Web2.0企業として注目されたミクシィの新規公開株は残念ながら買えなかった。凄い人気で証券会社の担当者曰く、私の担当範囲では誰も当たらなかった…
ミクシィはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である点がWeb2.0なのだが、私には今のところ利用したい気持ちはない。仲間とのコミュニケーションを大切にする若い人たちに人気なのは、心情的によく分かる。

ところでWeb2.0の要素の一つとして、「集合知の利用」がある。
集合知利用の典型はオープンソースのOSリナックスでしょう。ソースを公開することにより、皆で改良していくものですね。
ここでとり上げたいのはオンライン百科事典Wikipedia。ネットから、誰でも利用できるし、記事の投稿や編集もできるというものです。皆で作り上げる百科事典なのです。
調べごとをネットで検索すると、Wikipediaのものが必ず含まれているから大抵の人はこれに厄介になっているでしょう。内容も豊富なので重宝します。
私も大いに利用するのですが、信頼性について時々疑問を持つことがあります。そうした矢先、山根一眞氏が警鐘を鳴らす記事を掲載していました。ある事実が間違って書かれている項目を具体的に指摘して。
しかしながら、『「みんなの意見」は案外正しい』(ジェームズ・スロウィッキー著、原題:The wisdom of crowds)にも書かれているように、良い意見、まずい意見が足し算、引き算によって、どんどん良いものへと収斂していく性質があるから、一時的に誤りや表現が適切でないことがあっても、集合知の利用を否定すべきではないでしょう。
私としても、これが無くなったら大いに困ります。平凡社の世界百科事典(本にすると26巻)も併用していますが、新しい事象についてはWikipediaの独壇場ですね。最近それを実感したのが、ポピュラー音楽のジャンルについてです。

これまで古いロック、とりわけプログレッシブ・ロックを中心に聞いていたが、ふと気がつくと、ヒップ・ホップ、レゲエ、クラブ、ハウス、テクノ、トランス、ヒーリング、ワールド……等々、ジャンル分けの言葉が溢れている。
聴く範囲を次第に広げているから、知らず知らず新しいジャンルのものも耳にしているのだが、いざ、それぞれの定義は?となると、さっぱり説明が出来ない。
ポピュラー音楽のジャンルなんて、半分以上、レコード会社の販売のためのツールではあるが(CDショップでの陳列にも影響する)、我々聴取者も自分の好みを確認する意味で役割は大きい。
しかし、新しいジャンルの定義が定着しないうちに、また次のものが現われるような状態であるから、キッチリとした説明は不可能と思っていた。
それがWikipediaを見ると、感嘆するほどよく書かれている。特に、ダンス・ミュージック系のものが詳しく、とても参考になった。
内容が充実しているということは、この項目に関心を持つ人々が多いということであり、世相を反映しているということでもありましょう。

最近入手して、よく聴くハウス・ミュージックCD2枚。

Hanna_1 hanna hais ; rosanova
Larry Heard プロデュース作品。フランス人ヴォーカルHannaのたおやかな声も含めて、音色がとても綺麗です。




Basemenntjax_1 Basement Jaxx ; Crazy Itch Radio
「架空ラジオ番組」の構成をとっているのがユニーク。
イントロが交響曲風なのが、いたく気に入った。

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2006年10月 2日 (月)

写真について、あれこれ・・・(ぼかし、f64など)

カメラがあれば写真が撮れる。しかし、何をどう撮るのか?その目的は?そもそも写真とは何なのか?
写真を撮る目的の両極は、芸術写真と記録写真であろう。どちらもプロがいて、とてもマネが出来るものではない。我々アマチュアは、この両極のそれぞれの特徴やテクニックをほんの少しだけ取りこんで自己満足できる作品ができればそれでいい・・・。
写真コンテストに応募して、自分のレベルがどの程度なのかを把握することも意義があるかもしれない。私の知っている人で個展を開いた人もいるが、ブログに載せることも公表の手段ではある。

写真をメディアとして見た場合、どのように位置づけられるか?
写真は現実そのものズバリである。その真実らしさゆえに、何らかの価値観や意図が写真に託される場合、それも真実と受け留められやすいという特質がある。
したがって、写真に付されるキャプションや見出しは決定的に重要だ。さらに、雑誌とか、大きな枠組みの中で写真を使うことによって、写真自体が強力なメッセージを発することになる。

ある文献を読んでいて、昔(1930年代)、アンセル・アダムス、エドワード・ウエストン等が主宰した「f64(エフ64)」という写真家グループがあったことを知って興味深く思った。
当時、芸術写真の世界はソフト・フォーカスによるぼかしや、演出や合成などのテクニックにより絵画的な作品作りが行なわれていたが、写真本来のシャープな視線の、あるがままな表現で作品を作るべきだとの主張「ストレート・グラフィ」が起こり、その先鋭的なグループの一つが「f64」である。
周知のようにカメラにはレンズと絞りがあり、絞りを開放に近くすると、ピントの合う範囲(前後)が狭くなり、背景や前景が大きく「ぼける」。一方、極限まで絞り込むと、背景も前景もむら無くシャープに表現できる。
当時の大判カメラにおける絞りの極限値がf64であった。
歴史は波動のように繰り返し、現代ではこの両方の表現が自由に使われていることは言うまでもないでしょう。

一眼レフカメラの醍醐味のひとつは、レンズを選択することにより、「シャープさ/ぼかし」を表現に取り入れることができることだ。そういうわけで、ニコンD80の2本目のレンズは「ぼかし」を強力に表現できるものを選んでみようと思う。

  ★★――――――★★

ギリシャへ行って来た友人からお土産にコンボロイをもらった。
説明書が付いていて、"COMBOLOY"とは、Worry Beadsつまり、「気を落ち着かせるためにさわる数珠」のことだそうだ。
友人によると、ギリシャでは男性の9割はいつもこれをもてあそんでいるとのこと。

Comboloy 蛍光灯の下で撮ったら、白いバックのはずがグレーになってしまった。こういうときはホワイトバランスを調整すればいいのだ。
(ブログに添付してから気が付いても遅い)

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2006年9月28日 (木)

犬が食べたらいけない植物

今週に入り、急に涼しくなってきた。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです。
おかげでウォータンがやたらに元気になってきた。食欲もきわめて旺盛。ドッグ・フードを食べるスピードが凄い。あっという間に皿を空にして、未練がましく舐め回している。

ウォータンは胃腸が生まれつき強いのか、ほとんど下痢などしたことが無い。ただ、この2年で数回、食事のドッグ・フードを食べないことがあった。いつもは飛びつくように食べ始めるのに、そっぽを向かれると、私の方がショックを受けてしまう。さて、どうしたんだろう?散歩中に何かヘンなものを口にしたのか?あれこれ考えてしまいます。
この夏は2回あったのですが、1回はどうもセミを食べた所為かな、と結論を出した。
もう1回は、全く原因不明。
二・三日前に届いたジャパン・ケンネル・クラブの会誌に「犬が食べたらいけない植物」という記事が載っており、はたと気がついた。そうかどこかで毒のある植物を口にしたかもしれない。
この記事によると、犬は肉食ではあるが、人間に飼われるようになる前は厳しい環境を乗り切るために何でも口にしてしまう習性を身に着けてしまった。その一方で、怪しいものを食べた場合は、速やかにかつ簡単に吐くことが出来るという特技を持つ。
また、犬は好奇心が旺盛だから、散歩中などに危険な植物を舐めたり、かじったりすることは避けられない。ただ、植物を大量に食べることは考えられないから、一般的には下痢や嘔吐程度で済むことが多いが、植物によっては死に至ることもあるから注意はした方が良いとのことである。
それではどんな植物が毒性があるのか?
《家庭で見られる代表的な毒性植物》
アザレア、アマリリス、クレマチス、ジャスミン、ジギタリス、スズラン、ステリチア、つた類、ツツジ、トマトのつる、ヒイラギ、フジ、ポインセチアなど
《猛毒の植物》
イチイ、キングサリ、クリスマスローズ、シロガスリソウ、西洋キョウチクトウ、チョウセンアサガオ、フクジュソウ、ベラドンナなど

これを見ると怖くなる。どこにでもあるような植物ばかり。幸い我が家には猛毒のものは無いが、クレマチス、スズラン、ツツジ、フジがある。ウォータンはほとんど室内に居るものの、庭に放すと結構、葉っぱや枝くずをかじって遊んでいるから、多少は影響を受けているかもしれない。
しかしながら、先代のバスターは日中はいつも庭の藤棚の下のサークルに居たし、庭中歩き回っていたが、14年10ヶ月と、ほぼ寿命を全うした。だから、上記の植物のうち、猛毒のものでなければそう心配はないというのが、私の実感である。甘いだろうか?

殺虫剤、除草剤も問題があるだろうから、必要最小限にしている。腐葉土や肥料は匂いが魅力的らしく、撒くと食べてしまうことがあり、これも心配だ・・・考えてみると犬の生活環境は危険が一杯なのだ。
親の心配、その心子知らず・・・今も庭で穴を掘り、虫探しに熱中している。

  ★★――――――★★

Photo_66 庄内川は定光寺の辺りから深い渓谷となる。
私の住居からは車で12~3分。
この川は名古屋市を取り巻くように流れ、伊勢湾に注ぐ。
河口まで40kmの表示があったが、本当だろうか。
         
Photo_67
近くに玉野発電所がある。
定光寺駅付近より、水路、取り入れ口のあるダムを臨む。


Photo_68
JR定光寺駅は渓谷の崖を削り取って作られている。





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2006年9月25日 (月)

Don't give up the fight

私のレガシーは音楽を聴く場所でもある。そのために、わざわざマッキントッシュのカーステレオをオプションで付けたのだから。
6連装のCDドライブの中身は次々と入れ替えるが、ここ1年ぐらい入れたままのCDがある。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「バーニン」。レゲエのカリスマの歌うこのCDは何回聴いても飽きない。乗りの良いリズムと心地よいメロディに重いメッセージ。
このCDの1曲目、Get Up, stand Up がとりわけ好きだ。

Get Up, stand Up (起き上がれ、立ち上がれ!)
Stand up for your rights(自分の権利のために)
Get Up, stand Up
Stand up for your rights
Get Up, stand Up
Stand up for your rights
Get Up, stand Up
Don't give up the fight(闘いを途中で投げ出すな!)

心に何かわだかまりがある時、この曲を聴くと、とに角、すーっとする。特にDon't give up the fightは自分に言われているような気がしてしまい、不思議に勇気が湧いてくるのです。

このブログを始めて以来、ちょうど6ヶ月が経過した。ネタ切れになり次第、さっさと退散するつもりだったが、人間を60年以上やっていると、書くことはいくらでもあるものだ。
それよりも、書くことが習い性になって、書かないと気持ちが落ち着かない。当分、続けることにしよう。

パソコンで文章を書くことには功罪があると言われますね。罪の方は、よく言われるように漢字が書けなくなってしまう事。でも、文章を推敲するにはパソコンほど便利なものは無い。パソコン普及によって、日本人の国語の力は落ちるだろうか?その心配は無いようだ。最近、「新潮」や「文学界」の新人賞への応募が著しく増えていて、その大半がパソコンで書いたものだと言う。

  ★★――――――★★

03 落合公園最大の構造物
曇っていたので、空や水の色が無く、かえって
建物の水色が映える。


落合公園を、ニコンで撮って、順次紹介しようと思っていたら、素晴らしい360度パノラマビデオ画像がインターネット上にありました。
是非、ご覧下さい。
これには、前に紹介した水の塔が写っていませんので、この上から撮ったものでしょう。
また、春先ですので池の水位が低い。夏は満々と水を湛えています。

ホームページ名;魔女が案内する桜の落合公園
http://hero.maxs.jp/034/otiai.html

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2006年9月22日 (金)

西国三十三札所を三十三回巡る!! ニコンD80は赤とんぼ

西国33ヶ所札所めぐりのルポが日経に連載されているのに気がついた。「愚庵を歩くシリーズ」の4回目で、四番施福寺、五番葛井寺(いずれも大阪府南部に位置する)についての記事だった。これに興味深いことが書かれていた。

西国三十三札所を満願の三十三回巡った巡暦僧を「三十三度行者」と言い、それを目指す巡礼僧が多く居たそうだ。1めぐりするのに約3ヶ月かかり、歩く距離は約1,000km。満願まで10年の歳月をかけ、3万3千kmを歩いたという。しかも、背中に10数kgの御背板と行李(こうり)を背負ってである。
巡礼は、自らに苦行を課すことにより仏の救いを得るということでしょうが、ここまで人はするのか、と驚きます。
私も、2回目を始めるなら、いっそ死ぬまで、永久に続けてもいいかな、と思った。勿論、私の場合は、月1回、2年ぐらいかけて周るから、何度周れるものやら。
西国三十三札所巡りの信仰上の拠り所は、衆生が困難に遭遇した時、観世音菩薩を念ずれば33種の姿に身を代えて現われ、即座に苦しみから救ってくれるというものである。《法華経の〈観世音菩普門品第二十五〉に説くところによる》。各霊場には様々な霊験談が伝わり、人々の観音に対する期待がとても大きかったと言う。

定年退職して目的を失ってしまって、やることが思い浮かばない人は、西国でも四国でもいいから札所めぐりをするのがいい。信仰心の多寡は置いておいて、とにかく始めれば、完遂するのが目的となる。納経帳にそれぞれの寺の印しを書き入れてもらうと、また次を目指したくなる。スタンプラリーのようなものだが、やはり重みが違うことにすぐに気がつくでしょう。それは一緒に巡礼する人々の純真さであり、寺の持つ威厳かもしれない。もし行くとしたらマイカーは極力けて、公共交通機関のみで行くべきだ。そうすれば徒歩の区間も何がしかあるし、時間待ちなど円滑に行かない場面も出てくるが、それが現代における苦行だと思えばいい。
この旅にはプラスアルファも多い。寺々は四季の装いをして待っているし、何年ぶりかの御開帳だとか、折々の行事に出会うこともよくある。お茶所で美味いお菓子にありついたり、地元の珍しい産品を買う楽しみもある。

  ★★――――――★★

秋、二題。赤とんぼと萩。萩の写真はピント合わせに工夫がいりますね。ぐっと絞り込んで被写界深度を深くすべきかな?風で揺れるからシャッタースピードが落ちると呆けるし。

S_1
赤とんぼ。羽の先にも赤いマークが。
とてもおしゃれです。



_005s
団地の人通りの多いところで慌てて

撮ったからか、ピントがイマイチ。


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2006年9月19日 (火)

ニコンD80撮り初め

台風の影響でぐずついた天気が続き、ニコンD80の撮り初めが遅くなってしまった。とりあえず草花の写真を2枚掲載しましよう。

1枚は名古屋の鶴舞公園の蓮池で撮ったもの。この時期は公園へ行ってもあまり花が無く、ぐるぐる周っているうちに、木立の間から、空色の広がりが見え、何だろうと近寄っていくと蓮池でした。見事に成長し、池をびっしり埋め尽くしていました。こんなに空色に見えるのは曇天だったせいでしょうか?写真を撮るということは、自然を見つめ直すということなんだな、と思い知ったことでした。

もう一枚は、我が家の庭にある吊り花。今年もたくさんの実をつけ、ここ数日で一斉に実がはじけてきました。実自体が長い柄で垂れ下がっているが、真っ赤に熟すと、はじけて中のタネが更に垂れ下がるという、二段構えになっているところが面白い。
吊り花の属するニシキギ科について、平凡社の百科事典に面白い記事が出ていたので、紹介しましょう。
『室町時代の《格臥抄(あいのうしよう)》には,陸奥国の風として,恋文を書くかわりに,枝を1尺ほど切っておもう女の家の門に立てたとある。女は承知のしるしにそれを家に取り入れ,取り入れぬ場合は拒絶を意味した。だが,それでも男が立て続け,千束に達すると恋が成就する場合もあった。』
先代のコーギー犬バスターは、この実が大好きで、いつもジャンプして食べていたことを思い出す。ウォータンは今のところ関心を示さず。

ところで、8月28日付けで、ニコン対ソニー、キャノンの比較記事を書きましたが、キャノンの新機種を間違えていましたので、ここに訂正させて頂きます。
EOS-5Dは1,280万画素ということで、既発売の上級機種であり、比較対照とすべきではありませんでした。キャノンの同クラス機種はEOS Kiss Digital X (1,010万画素)で、 9月8日に発売されました。

なお、ペンタックスK10D(1,020万画素)が10月末に発売されるようで、このクラスの競争は熾烈を極めてきました。

_010ver1
鶴舞公園の蓮池

葉の表裏でこんなにも色が違うのですね。


S
ツリバナ(吊り花)…自然の造形の妙。
ニシキギ科。紅葉もきれいです。
ただし、花は小さく目立たない。





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2006年9月16日 (土)

ニコンを持って西国33ヶ所巡りに出よう!

ニコンD8018135mmF3.55.6キットを入手しました。この標準レンズは広角(35mm版換算27mm)から望遠(同200mm)までかなりの幅があるので、これ1本で何でも写せそうな感じである。それでいてコンパクトで軽量だから、海外旅行に持って行くには重宝だろう。値段も安い。ということで、このキットの方に人気が集まっていて、販売店によると、15日発売日には予約分のみしか入荷せず、後続入荷はいつになるか、メーカーも言わない、という状況のようです。
しばらく、これ1本でいろいろ撮ってみて、追加の交換レンズとして何が欲しいか探ってみることになる。現時点では、花などのクローズアップ写真を撮るためのマクロレンズ、大きな建物や広大な風景を撮るための超広角ズームが必要かな、と考えている。
さて、何を撮るか?その方が問題である。とりあえず日常生活の範囲から始めて、そのうちに、少しばかり遠出も必要だろう。

家内が亡くなった後、西国33ヶ所めぐりをしたが、まだ現役だったから、全部周るのに2年近くかかった。月1回、1~3箇所を巡るというのんびりしたペースだったが、これが結果的にとても良かった。季節がどんどん変わるから、京都、奈良の名刹の四季折々のたたずまいに出会うことができたのです。あの時は、精神的に落ち込んでいたので写真など撮る気も無く、ただ、ただ、眺めていたが、次第次第に日本の風景や草花が何と美しいことか、と気づき始め、これは写真に撮って見たいな、と何度も思ったことでした。
この記事を書きながら、回った寺々の姿を思い出すと、急にもう一度行ってみたいとの思いが募ってきました。
そうしよう!今度はニコンを持って。あの時と同じように月1~
2回のゆったりとしたペースで。そうすれば日本の四季を撮ることが出来よう。

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2006年9月13日 (水)

聴力に関する不思議な経験

iPodを買おうかずっと逡巡して来た。
音楽を聴くのが大好きな人間が、何をためらっているのか、と言われそうですね。実は私の耳に一寸した障害があるのです。

7年ほど前に、水泳中に左の耳に激痛が走り、その直後から綿でも詰め込んだように、聞こえが悪くなった。耳鼻科へ飛んでいったところ、左の耳に直径1mmぐらいのピンホールが開いていると言う。
対策としては鼓膜形成法という手術もあるが、まずは自然治癒を待つべきだとの診断。うまく行けば鼓膜自身が伸びて来て穴を塞ぐはずだと言う。若い人であれば特に早いようだが、高齢者は遅いし、うまく行かない場合もあるらしい。
結局、1年ほどの間に、何回かくっつきかけはしたが、うまく行かなかった。くっついた瞬間、スイッチが入ったように、大音響で聞こえるようになるのだが、すぐに、ポンと破裂して元の木阿弥。そのモードが変わる1~2分は、あたかもモノクロの世界からから明るく色彩豊かな世界に飛び込んだような、歓喜の瞬間だった。とても不思議な経験だった。

そして1年半後、耳鼻科の医者は鼓膜形成術の手術をしますか?と聞く。
方法は、鼓膜の穴の部分を削って新しい組織を出し、更に耳の後ろ辺りの皮膚を切り取って鼓膜の穴に補強材としてあてがう。そうすると、新しい組織が容易に伸びて穴が塞がる。その後、補強材の皮膚は剥がれ落ちる・・・。
ところが、リスクもあるようなのです。穴を更に大きくするのだから、首尾よく行かないと、現状より聞こえが落ちる恐れが大なのです。あなたは、比較的聞こえているから、そのままでもいいのではないか、と医者は言う。大分悩んだ末、手術はやめました。

鼓膜にピンホールがあるとどうなるか?始めは音が歪むし、右左のボリュームも異なるのでとても不愉快だった。しかし、一月もしないうちに、余り気にならなくなってきた。1ヶ月ごとに聴力検査を受けたが、どんどん良くなって来るのです。音の周波数を変えて聞こえる音のレベルを調べるわけだが、最終的には100Hzより上の方は左右ほとんど差が無くなった。ところが50HZとかの重低音は全く聞こえない状態は改善しなかった。

こんな状態で音楽を聴くとどうなるか?しばらくは左右のバランス(ボリューム、周波数特性)が違うからとても聞きにくく、音楽の楽しみも半減か?と悲しくなったが、聞き続けていると、だんだん気にならなくなってきた。
音は鼓膜で聞くというより、脳神経で聞いているのです。これまでの経験が脳神経に叩き込まれているから、勝手に左右のバランスを調整してしまうらしい。また超低音は左耳は全く受け付けないが、高音に比べてもともと方向感はないから方耳だけで問題が無いのです。そういうわけで、高級オーディオ?をいつも楽しんでいます。

ところでiPodを聞く時、どんな問題があるか?
スピーカで聞くときは、左右のどちらのスピーカーの音も、良い方の右耳で聞くことが出来、それを頼りに左耳の音の聞こえ方を脳の方で調整して聞いているのだが、イヤホーンの場合は、左と右の音がそれぞれにしか届かないのである。したがって、音(特に低音)の脱落が起こる筈です。
理屈上はそうだし、初期の頃、イヤホーンで聴くと、若干違和感を覚えたものだ。ところが、最近、HMVなどのCDショップで試聴しても、余り問題を感じないのである。私が想像するに、脳の方で、音楽を長年聞いてきた経験値から、欠落した音を適当に補ってつじつまを合わせているのだと思う。厳密には録音されている音とは違うかもしれないが、それなりに楽しめるということに気がついたのです。

そういう訳で、時代遅れになりたくないから私もiPodを手に入れようかと思い始めた。それにしても、脳の潜在能力は偉大なり!

Ver1落合公園のフォリー「水の塔」

フォリーとは西洋式公園に設置される要素の一つで、

「風変わりなもの」を意味する。
その名にふさわしく、とても奇妙な構造物です。
天辺まで水を揚げ、各階の室内をゆったりと巡りながら、

最後は水車を回す仕掛けで、他に放水銃も備える。



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2006年9月 9日 (土)

当世スポーツ・クラブ事情&私の利用法

私が当地域のスポーツ・クラブ会員になってから、かれこれ20年近くになる。
最初はスイミング教室だけだったが、時代の流れに乗ってジムが併設された。ダンスなどをやるためのスタジオと、筋トレ用のマシン群と、それにスクール用プールに加えて会員専用プールがもう一面出来た。プールが
2面あるのはきわめて珍しいだろう。初期の頃は会員の確保に苦労していたようだけれど、今は大繁盛である。
若い人たち、特に女性たちにとって、かっこいいダンスやエアロができる素敵な場所である。ジムの方でも次々と斬新で魅力的なメニューを用意してくれる。
勿論、太極拳やヨガのような泥くさ?系統のメニューもある。
最近急激に増えた定年退職した年寄りの会員たちにとっては、暇つぶしに格好の場所である。ほとんど毎日来て、午後の数時間を適度な運動と、サウナと、おしゃべりで過ごす。銭湯気分…ちょっとしたパラダイスだ。
もちろん、文字通り体力を鍛えるのに余念の無い人たちもいる。この人たちも大抵毎日来て、マシンやウェートによるトレーニングなど、一定のメニューを黙々とこなす。あたかも、それが仕事のように。

最近は会員のトレーニング・ウエアが派手やかになってきた。エアロではレオタード姿の人もいるし、特にダンス系ではそれこそ優雅なウエアを着て、しなやかに踊る若い女性は見ているだけでも気持ちがよい。
フツーにトレーニングしかやらない人でも、
Tシャツのデザインには凝っている。何処で入手するのか、個性を競い合っているかのようだ。ある女性は、一汗かくごとにTシャツを着替える。そのたびに眼をひき付けられる。
最新流行のトレーニング・スタイルはiPodの着用であろう。音楽を聴きながら次々とマシン・トレーニングをこなす。特に、自転車やランニング、階段踏みは30分以上続ける人が多く、退屈しのぎに良いのだろう。いや、単にファッションなのかもしれない?
外国人も結構来ていて、英語のやり取りもしょっちゅう耳にする。習得中の英語会話の実践をちゃっかりやっている日本人会員もいるようだ。

ロッカー室や休憩スペースでのマナーはひところに比べて大変良くなったが、まだまだ改善の余地がある。自宅での芳しくない生活習慣を持ち込む人もいるからだ。男でも結構、化粧道具一式を持参し、丹念に身だしなみを整えている人も多い。中には、歯磨きまでしている人が居るが、これはやめてもらいたいものだ。

私は、と言えば、
平均週2回(3回のときも1回のときもある)。滞在時間は2時間弱。
これ以上は時間が無いし、体が痛くならない限界でもある。私の場合、このほかにテニスを週
1回やっているから、ジムの方はやり過ぎないように気をつけている。
60
歳を過ぎると、体力の衰えを自覚し始め、こんなはずではなかったと、ジムでリハビリをしている人も多いが、私もその一人である。正しく使えばジムは体力の若返りを保証してくれる、と言うのが私の考えです。

これまでの経験から、体力づくりについて分かったこと、反省していることをまとめてみましょう。
① 水泳ばかりやっている人が居るが、これは奨められない。運動にはなりすぎるくらいなるが、生活に必要な各部の筋力維持には役立たないと思います。長年、水泳ばかりを、それもハードにやっている高年齢の人を見ていると、年々体がしぼんで、みすぼらしくなって行く。逆に水泳ばかりを適度にやっている人は飯がうまいと見え、腹が出てくる人が多い。
やはり、陸(おか)の上の運動(重力が効く)を主体にすべきです。
② 60歳を過ぎると、階段の上り下りが億劫になってくる。駅で列車に乗り損ねる機会が多くなる。この対策には自転車と、階段踏みマシンが非常に有効です。これを継続的にやっていれば、階段の1段飛ばしや、駆け上がりも、何と言うこと無し。
③ 同じく60歳を過ぎると、体が固くなる。年寄り臭くなる一つの要素が、体の柔軟性と姿勢です。その維持に効果的なのがストレッチ。自宅でも出来なくないが、ジムへ行けば、広いスペースで、みんながやっているから、スムーズにやれる。ストレッチのメニューもビデオやカードで用意されているし、上手い人のを見ていれば、要を押えつつ優雅にできるようになる。

最後に私のトレーニング・プログラムは;
ストレッチ20分(始めと終わりに違うメニューで10分づつ)、自転車こぎ10分、階段踏みマシン10分、ランニングマシン2km、その他の筋トレマシン数種10分。
どの運動も負荷は軽めにするよう心がけています。体を痛めてはなんにもなりませんから。続けることで効果が出てきます。
60を過ぎたら、ゆめゆめ、体力増強にチャレンジをしないこと。あくまでも現状維持で満足すべきでしょう。

Photo_65ウォータンの散歩コースの一つ落合公園。
夕暮れ時。空の色が美しかった。

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2006年9月 2日 (土)

講座「心の耳で聴くバッハ」を受けて(2)

8月27日に、朝日カルチャーセンターの講座「心の耳で聴くバッハ」の第2回があった。
この講座のタイトルは、最初は「バッハの教会音楽における言葉と音」だったが、あまりに直截的であるからだと思うが、講師としては「心の耳で聴くバッハ」に変えたいようである。これまでの講義からは両方とも適切だと感じました。
今回は、バッハが21~2歳の時に作ったカンタータ106番をとり上げて、音楽の構造と、音楽と言葉との関係を、解明するという内容でした。
核心部分の楽譜が配られ、CDを聴き、講師はキーボードや自分の歌声で丁寧に説明してくれる。楽しく、刺激的な2時間はあっという間に過ぎてしまった。

これを文章にするのは至難のワザ。一応、記録したメモによりその一端を書いてみよう。

106番は最初期(17078)のカンタータにもかかわらず完成度が高く、素晴らしい曲である。バッハの傑作のひとつに数えられる。20世紀最大のバッハ研究家アルフレッド・デュルによれば、バッハはこの曲により他を一挙に抜き去った、と言っている。
BWV106  Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit(神の時こそ いと良き時)。葬送がテーマである。
使用される楽器は質素な編成である。
リコーダ(アルト)×2、ヴィオラ・ダ・ガンバ×2、通奏低音(オルガン、ヴィオローネ)。 これは古い形態であり、バッハの時代にはリコーダはフルートに、ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロに変わって行く。

カンタータは小型のオペラのようなものと考えてもよく、合唱や独唱、重唱により言葉が添えられる。言葉との関連で音楽の進行を見て行くと、およそ次のようである。
1 ソナチネ
a 合唱;「時、死」…“神により定められたことである”
 b テノールソロ;“私たちは死なねばならない”
 c バスソロ;“汝は死に、生きながらえることはできない”一挙に緊張   
  d
合唱;“汝は死ななければならない(外伝)”“古い定めだ(旧約)” 
   ソプラノソロ;“しかり、イエスよ来て下さい(新約)”
           
…聖書を閉じるにあたっての言葉「神を待望」
  器楽によるコラール;我は我がことを神にゆだねたり
            
(タイトル…民衆は言葉を知っている)
   《このdの部分は多層的に重ねられている》←楽譜をもらった
3 アルトソロ;“ゆだねる”
  バスソロ;(その答えとして)“救いはパラダイスにある”

                                        ←十字架上での言葉
  コラール;“平安と喜びを持つ 我は往く”
4 コラール;(感謝)と賛美

構成としては、2のdの部分を中心としてシンメトリーに作られている。言葉も建築物のように組み立てられている。
コラールは中央部の後半になって初めて出てくる。(イエスの登場まで待って)

さらに、バッハは、「古き律法(定め)」と「イエスによりもたらされた福音」を次のように音楽的にくっきりと対比させて作曲している。
      古き律法         福音(エヴァンゲリウム)
編成    合唱           ソロ
様式   厳格(模倣:フーガ)   自由(モノディ:通奏低音+ソロ)          
     古風(ルネッサンス)   バロック

音域   低い(下3声)      高い(最上声:ソプラノ=天に近い) 
     バス+Vl.gamb+通奏低音  Fl.tr  Ob.cac. 通奏低音なし
        →低音強調
    “死なねばならない”と歌う “イエスよ来てください”と歌う
リズム  一定、穏やか4、8分音符 16分音符
強弱   一定 指示なし      変化 エコー 最後はピアニッシモ
コラール  なし           あり  

     (コラールとは全会衆によって歌われる賛美歌)
   

音楽の構造としては、隅々まで実によく考えられており、バッハの知性・理性が強く感じられる。しかしながら、曲を聴く限りそんなことは全く思い浮かばない。
我々は、頭(理性)と心(感性)を分けて考えることに慣れているが、バッハの時代には両方不可分だったことに留意する必要がある。
「心の耳で聴く」と言う時には、このような理性もまたバッハの心であることを、理解した上で聴いて欲しい、と講師は強調するのです。

なお、この曲の中核部(2の部分)は、既に述べたように、「古き律法」と「福音」を象徴する低音と高音が絡み合いながら進行するが、最後には高・低音両方が一緒に“イエスよ来てください”と歌って、終わるのです。見事としか言いようがない。

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2006年8月30日 (水)

ウォータン2歳の誕生日

今日、30日はウォータンの2回目の誕生日である。僅か2年生きただけなのに何でも知っているような大きな顔をしている。自信に満ち溢れている。
それもそのはず、人間に換算すると23歳。立派な大人なのです。

ウォータンの最大の特徴は、ヒトに対しても犬に対しても優しく、愛想がいいこと。決してこちらから吠えることはない。特にダックスやシーズーなど小さな犬にはウォータン自身が低い姿勢になり、目線を合わせて相手してやるので、みんなから歓迎される。
彼がヒトだったら、世渡り上手で、きっと大物になるだろうと、つい、想像してみたくなるのです。


飼い主として私は何をしてやれるだろうか?
3ヵ月半の訓練は既に受けさせた。人によっては、家庭でも訓練を続けているけれど、私にはその気がない。せいぜい散歩の時には威厳を保って歩かせるようにするくらいだ。
それよりも、できるだけいつも近くに居てやろう。そして折々に話しかけ、遊んでやり、夜にはお互いの寝息を確認しながら眠ろう。
犬の一生は短いのだから。
10年後にはこの子も老境に入る。その頃の私も間違いなくかなりの高齢になっている。そのことは、犬を飼い始める前にさんざん考え、覚悟の上で彼を迎えた。
何が何でも私自身の健康を維持し、彼を最後までキッチリ飼うのだ。

彼と生活を共にするようになってからというもの、精神が実に安らかになり、体力も年齢に見合わず充実してきた。これは実感である。
ありがとうウォータン!これからも頼むぜ。

P1010018ver3_1

63日、我が家に来てすぐの頃
秘蔵写真です






83
83日、年賀状に使用した写真






06082901
2006/8/29 撮影




06082902
2006/8/29 撮影





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2006年8月28日 (月)

デジタル一眼レフカメラ・・・ ニコンD80を選ぶ

デジタル一眼レフカメラを買うことにした。この11月に海外旅行に行くことに決めた途端に、新しいカメラが欲しくなった。
現在手持ちのはフジFinePix F10とオリンパスC-3030ZOOM。それぞれ1年半と約5年使用している。オリンパスは一眼レフではないが広角レンズを装着できるので、重宝に使っている。しかし、フジの630万画素に比べて、330万画素なので見劣りがするし、もう少し望遠側も欲しい。

幸いここへ来て一眼レフ市場は、ソニーがα100という革新的なモデルで進出し、一挙に活気付いている。9月にはニコンとキャノンがそれぞれD80、EOS Kiss Digital Xという対抗機を売り出すのです。
買う方としてはこの上ないタイミングです。メーカーの生き残りをかけて、意欲的な製品を出すのですから。低級機の値段で高級機の性能を、と言うことだから価格破壊が起きて来たとも見れる。
私も悩ましかったが、結論としてはニコンのD80を選び、考えが変わらぬうちにと予約しました。選択の理屈は次のようなものです。

○「ソニー対ニコン、キャノン」は、即ち「電気機器メーカー対カメラメーカー」。昔人間の私にはソニーという名のカメラを持つことに強い違和感がある。ソニーは実質的には吸収したコニカミノルタの技術を使っているようなので、コニカミノルタ名義ならいいのだが。でも世の中の大勢はソニー名義だから売れるらしい。
(面白いことに撮像素子CCDはニコンもソニー製を使っている。ただし、設計は異なるし、絵造りはそれぞれの蓄積ノウハウに依存する。要はソフトのウエートが大きいということ。)

○手ぶれ防止機構が着いているのはソニーだけであり、その点も大いに気になった。ソニーを選ぶとすればこれが理由となる。カメラ雑誌によれば、カメラに慣れていない人には効果大だが、従来、3脚が必要とされたようなシーンはやはり手ぶれ防止機構では対応不可能のようだ。さらにニコンなどでは交換レンズ側に手ぶれ防止機構が着いているものも用意されている(値段は高い)。

○本体のスペックの相違は正直言って評価できない。カメラ雑誌が頼りだ。ソニーとニコンは記事が多く出ていて参考になった。一口に言えば、ソニーはアマ指向、ニコンは中級者指向でしょう。なお、画素数はソニー、ニコンが
1020万画素、キャノンが1010万画素。
残念ながらキャノンは最後発のため、未だ評価記事が出ていない。
なお、一眼レフの場合、写真の良し悪しは本体よりはレンズで決まるでしょう。

○本体の大きさはキャノンが最もコンパクトだが、この時点ではデザインが不明。

○値段はボディだけでなく、組合わせるレンズとの総合で見なければならない。

ニコンD80では、18135mm(35mm版換算28200mm相当)が標準キットとして用意されていたのでこれを選んだ。これなら、この1本で広角から中望遠まで対応可能で、旅行向きだろうと考えた。
E電器店ではこの組み合わせで148千円とのこと。ちなみに、ソニーで同じような組み合わせをすると、16万円近くになるようだ。

そういうわけで、今後、練習がてらこのブログにも自前の写真を載せていくことにしよう。

D80ニコンD80のパンフレット
9月1日発売となっているが、予約が予想を大幅に上回ったため、ED18-135mmキット(左側)は9月15日発売に変更になった。




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2006年8月24日 (木)

地球外生命を探せ!

地球外生命はいるだろうか?
これは地球上での我々の生命がどのようにして生じたか、そしてどの程度の幸運さが必要だったか、を問うのと同じである。

地球の原始の海を模擬した、メタンとアンモニアと水素と若干の水をガラス装置に入れて雷撃の代わりに電気火花を飛ばしてたんぱく質の構成要素を作り出した実験が有名だが、これを行なったミラー自身が最近、「生命の起源の謎を解き明かすのは、自分や他の人が考えていたよりずっと難しいものになってしまった」と言っている。この「原始スープ」説以外にも、生命誕生理論は幾つかあるが、いずれも証明はとても難しそうである。

広い宇宙には、地球と同じような環境を持った惑星は10の20乗(1兆の1億倍)はあるだろう。だから、そのうちの幾つかには生命はあるはずだという議論があるが、これは間違っていると、ドーキンスは言っている。この議論の根底には、地球にも存在するくらいだから、生命の誕生というのは比較的起こりうるものだと言う前提が初めから含まれているからである。全宇宙で1回だけ起こったことかも知れないのである。

ここで、生命が生まれてから知的生物ヒトにまで自然淘汰で進化する幸運はどれくらいの確率と考えればいいだろうか。地球に生命が誕生する確率が、もしとても低く、奇跡的なことだったとする。そうすると、ヒトに進化する確率も奇跡的に低いと言うことにはならないのである。何故なら、奇跡が2度続けて起こるということだから。したがって、生命が生まれて、ひとたび、進化が始まれば、ほぼ確実に知的生命にまでたどり着くだろう、と考えられる。

地球外の知的生命の探索のためにNASAが一時期、電波探索を行なっていたが、成果はえられなかった。火星探査でもいまだに生命は発見されていない。したがって、少なくとも生命は何処にでも溢れているものではなく、むしろかなり稀な存在と考えられるようになっている。
このようなことから、逆説的であるが、我々が「ありそうな」「もっともらしい」と思う方法で生命が誕生したのではないだろう、と言える。ドーキンスは、今考えられているシナリオはいずれも、もっともらしいので、誤っている可能性がある、と述べている。もっと、もっと、想像もつかないような方法・過程であったに違いない、という訳である。
また、もし実験で生命誕生の証拠を得ようと思えば、たとえ正しい方法を選んでいたとしても、万年、億年の時間が必要ではないか?
人間はその寿命が高々1世紀だから、それぐらいの時間スケールでしかものを考えられない。生命現象を考えるには時間スケールを抜本的に変えねばならない。
むしろ、地球外生命を探した方が早いかもしれない!

(以上の文章は、「科学の終焉」と「盲目の時計職人」の内容をミックスしてまとめてみたものです)

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2006年8月22日 (火)

眼の進化について・・・三葉虫は何を見たか?

前回の記事で、眼の進化についてとり上げたが、その続きを少しばかりやりましょう。

マイクル・ランドという人は、眼の結像方法には9通りの基本原理が存在し、生物界ではそのほとんどが何回でも試されていると言う。例えば、大型望遠鏡ではレンズの代わりに凹面鏡を使うが、この原理に基づく眼が、様々な軟体類や甲殻類によって発明されてきたとのことである。昆虫が持つ複眼もまた、別の基本原理による。

最近出た本で、「眼の誕生(アンドリュー・パーカー2003、翻訳2006)」と言う本がある。サブタイトルは「カンブリア紀大進化の謎を解く」となっています。
広く知られている事実ですが、今から5億4300万年前、カンブリア紀の初めに、生物が爆発的に進化した。それ以前はクラゲやカイメン程度の生物しかいなかったが、突如として、僅か500万年ほどで、生物は実に多様な形態を持つに至った。
カナディアン・ロッキーで発見された5億年前のバージェス頁岩には、多種多様な奇妙奇天烈な生物の化石が含まれていたことで有名になった。何がきっかけかは分からないが、生物が一斉に進化の試行錯誤を始めた様子がここには記録されているのです。
このきっかけを巡って諸説が出ているけれど、パーカーは、54300万年前に「眼」が誕生したのが原因だと言う新説を出したのです。彼はこれを「光スイッチ説」と呼ぶ。
生物にとって、光はとても強い刺激で、進化を促す要素であったはずだと言う。これを利用するようになるのは半ば必然であったわけで、ある生物が眼を獲得した時、光スイッチが入った、とパーカーは表現する。
眼を獲得した捕食者は圧倒的に有利で、生物界に大混乱をもたらし、生き残りのために一斉に進化を始めたというのが、この説の骨子です。この、最初の眼を備えた強力な捕食生物とは、原始三葉虫だろうと彼は言う。

三葉虫に関しては、素晴らしい本がある。「三葉虫の謎(リチャード・フォーティ2000、翻訳2002)」がそれである。三葉虫の最新の研究成果が惜しげもなく述べられていて、図版もたくさん付いている。一口に三葉虫といっても、こんなに多様な形態を持っていたのか、体の構造や生態がそこまで分かっていたのか、と、私は驚嘆した次第です。
この本でも、三葉虫の眼について詳しく論じています。
小さな三葉虫の化石を昔持っていたこともあるが、眼の存在など気にも留めなかったが、この本の写真でははっきり見ることが出来ます。三葉虫類の最も古いもののひとつ、モロッコ産のファロタスピス(54000万年前)にも、既に大きな眼がついています。フォーティも、カンブリア紀が始まったほとんどすぐの時に動物間で多様な眼への進化が起こっている、と言っています。

ところで、三葉虫の眼はとても変わっていて、カルサイト(方解石)で出来ているのだという。他の動物は皆、柔らかいレンズを選んだのに対して、である。通常我々が手にすることが出来るカルサイトは白色だけれど、ゆっくり成長させて完璧な結晶にすれば透明になる。三葉虫の体は堅固な鎧の殻で出来ており、その殻と一続きの眼鏡のようにこの眼が据えられている。カルサイトの結晶は6面体になる性質があり、光は結晶軸に沿った方向にだけ通過させる。この結果、三葉虫の眼は6面体が多数集まった蜂の巣状になり、トンボなどの眼と同じ複眼を構成するのです。レンズが鉱物で出来ているがゆえに化石を見れば、この複眼のレンズの数まで数えることができるのだ。実際に数えてみると1個から数千個までの幅があるようだ。
この眼で何処を見ていたか?三葉虫の眼の視野の研究までなされている。レンズの要素である方解石の軸の方向を綿密に測定した結果、大多数は、全面を見るのでなく、前方と側面それに僅かだが後方を見ていたことが分かった。上部は全く見ていなかったようだ。多分海底に棲んでいたためだろう。
一方、全面を見るための巨大な眼を持った三葉虫も多く見つかっている。遊泳型の三葉虫である。著者は、このタイプについて、水槽で流線型をテストする実験まで行なっている。その結果、高速の遊泳が可能だったと言っている。

最初に眼を持った三葉虫は、眼も持たず、何の保護もない軟体動物を食べ放題だったろう。しかしそんなパラダイスは暫らくで終わりを告げた。強烈な淘汰圧により、急速に軟体動物が固い殻を防護用に持つようになった。一方、三葉虫のほうも強烈な顎を持つようになり、また、自身が捕食されるのを防ぐために、鎧と棘を身に纏うようになった…

興味尽きない話しがたくさんあるが、とりあえず、これくらいにしておこう。

Photo_64 Richard Fortey 著「三葉虫の謎」
実に多くのバリエーションを写真で見ることが出来る。
三葉虫は3億年にわたって存続した偉大な成功者である。
化石も多く得られ、構造や生態の詳細が次々と明かされつつある。
著者の三葉虫への並々ならぬ愛着心が伝わってくる。

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2006年8月19日 (土)

進化論生物学は終わったか?

少し古くなったが、1996年にジャーナリストのジョン・ホーガンによって書かれた「科学の終焉(おわり)」と言う本があります。この本の趣旨は、翻訳者のあとがきによれば、「科学の輝ける日々、偉大な冒険としての科学は終わりつつある。革命的な大発見はもうない」というものです。科学者からはかなり強い反駁があったことは当然です。本人もジャーナリストによる「愛の鞭だ」と、発言しているようですが、かなり当たっていると私も思う。
この本の良いところは、科学の主要な分野について、分かり易く到達点と最新の状況を整理していることで、我々一般人にとって手っ取り早く知識をうることができる重宝なものです。

この本で、進化論生物学はどう扱われているか?この分野の本はかなり読んだので、著者の言うことに一々相槌が打てるのです。
この分野で近年、注目されている人物は、リチャード・ドーキンス、スティーブン・ジェイ・グールド、リン・マーグリス、スチュアート・カウフマンなどである。

以下に、リチャード・ドーキンスについて述べます。
進化論はダーウィンにより構築された。ポスト・ダーウインとして名を挙げるための一つの道は、ダーウイン以上にダーウイン信奉者になって、ダーウィン説を徹底的に磨き上げることだ、と「終焉」の著者は言う。その代表格がドーキンスである。ドーキンスは無神論者であることを公言しており、どんな複雑な進化も自然淘汰のみで実現すると主張する。それどころか、自然淘汰は宇宙の原理だから地球外生物にも当てはまると述べている。
彼の代表的な著作の一つ「ブラインド・ウオッチメーカー(盲目の時計職人)」でも、生物の複雑さがいかにして自然淘汰のみで実現するかを、巧みな、切れ味鋭い論法で説明してくれる。

誰しも、野原に時計が落ちていたなら、自然に出来たものでなく、時計を作った職人がいるはずだと思う。時計よりもうんと複雑な生物(人間も含めて)が、ダーウィンは自然淘汰という偶然の力でつくられたというのだから、信じられない人たちが出てくるのは当然である。
しかし、ドーキンスは、累積淘汰と言う考え方と、還元論の手法で、ダーウィン説を信じない人々を打ち砕くのです。
ヒトの眼のような精巧な器官がランダムな自然淘汰で出来るはずがない、と多くの人が言うのに対して、「ランダムなのは突然変異であり、自然淘汰は改善が累積する過程である」と、論破する。

累積淘汰に関して、面白い実験を紹介している。
シェイクスピアの中から28文字の文章、Methinks it is like a weasel(俺にはイタチのように見えるがな)を、猿にタイプライターで打たせるとして、28回キーを叩くのを1試行とすると、何試行するとこの文章になる可能性があるか。これは単純な確率の計算で求められ、およそ1040乗にひとつであり、とんでもない時間が必要だろう。これはランダムな変異の1段階淘汰に当たる。
今度は累積淘汰の実験である。最初に無作為に打った28文字の文字列を作る。そして、これを育種する。即ち、この文字列の複製を作るのだが、ある確立でランダム・エラー(突然変異)を起こすことにする。そして作られた複製から、目標に少しでも近いもののみを残す。以下、同じ手続きが繰り返されると、徐々に目的の文章に近づいていく。ドーキンスはコンピュータプログラムで実際にやってみたところ、2040世代で目標を達成したと言う。これが累積淘汰の凄さである。
生物の進化は数十億年かけて行なわれてきた。その世代数を思い遣ると、どんなに複雑な生物や器官であろうと、実現は可能だろうと納得できるのだ。
なお、ドーキンスも注意を促しているが、この猿/シェークスピアモデルでは選抜の過程で目標の文章との類似性を判断規準にしているが、生物進化では完成目標はなく、淘汰の規準は「生き残りやすさ/繁殖しやすさ」である。

ヒトの眼のような複雑で見事にデザインされたものが、自然淘汰で出来ると容易に信じられない人のために、徹底した還元論で説得する。現在の眼から眼のない状態まで、少しづつ前の段階Xを考えると、Xの長い系列が出来る。この各段階の変化量は誰もが信じうるくらいまで狭めればよい。そしてこの途中段階のものについて、実例があることを示し、また、たとえ5%でも、1%でも視力があれば充分役立つことを懇切に説明するのである。
ある単細胞動物は感光点を持っていてその背後には小さなスクリーンがあって、ある方向からの光を遮るので、光がどの方向から来るかについて何らかの観念を持つだろうと言う。ミミズやゴカイは基本的にこれと同じ構造だが、感光性細胞が小さなカップ状になっており、少しばかりマシな方向探知能力が得られる。
いま、このカップをもう少し深くして、側面から上部を覆うような構造が出来れば、最早これはレンズのないピンホールカメラである。実際にオウムガイはピンホールカメラの眼を持つのだそうです。

「終焉」の著者ホーガンは、ドーキンスをダーウィン説を異とする者に対し容赦なくやっつけるダーウィンの猟犬(グレーハウンド)だと、述べているが、ドーキンスの主張はとても論理的で、しかも実例で根拠を示してくれるので、私は好きだ。

とても長くなったので、今回はここまで。もう少し書きたいので、日を改めて。

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2006年8月17日 (木)

サイエンスへの興味…三つの謎

この世の中のことは大抵、サイエンスが解き明かしてくれる。
それでもまだまだ、サイエンスが説明しきれていない部分が多々あるようだ。
そういう分野では、最後には超自然…神の出番になってしまう。
私は随分若い頃から、次の3点はサイエンスがどう説明するのかに興味を持って来た。
そして、これらについて、新しい見解や事実の発見を分かり易く説明してくれる本を読むのは無上の楽しみだった。

1 宇宙はどうしてできたのか?ビッグ・バン以前はどう考えるのか?

最近はあまりフォローしていないが、高級な数学を導入した理論が展開されていて、次第に近寄りがたくなってしまったのは残念である。
宇宙はある有限時間の過去に創生され、その後10のマイナス33乗時間にビッグ・バンが発生し、未だに膨張を続けている、というインフレーション宇宙論が研究者の大勢を占めているようだ。いずれ膨張が止まって収縮を始めるという理論もあるが、最近の観測から、その可能性は薄いことが分かってきた。
私にはビッグ・バンの前の状態がどうして出来たのかが不思議でならないし、その辺の理論は本を読んでも理解不可能である。神が創ったことにするのが一番手っ取り早い。
そういう訳で、この問題については敬遠ぎみであります。
スケールがかなり違うが、最新の話題としては、太陽系の惑星を9個から12個に増やす検討がなされているとの報道があった。もっとも、新惑星候補はいくらでもあるらしいので、慎重を要するようだ。

2 生物はどのようにして発生したのか?生物進化は突然変異と自然淘汰(自然選択)のみで何処まで説明できるのか?生物は地球だけの存在か?

この分野がいちばん楽しい。恐竜を初め、奇妙な生物たちに出会えるし、自分自身が何故存在するのか、と言う疑問にも繋がるから。
チャールズ・ダーウインの進化論は、自然選択が進化の原動力であり、予定された進化の方向性はないというものであるが、その後いろいろな議論がなされている。
進化には生物自身が持つある一定の方向があると主張したり(日本では今西錦司)、有利な突然変異はほとんどなく中立的で、自然選択でなく遺伝的浮遊現象として進化する(木村資生)、あるいは自然選択の単位は遺伝子であり、生物は遺伝子によって利用される乗り物に過ぎない(リチャード・ドーキンス)、といった主張もなされたり、進化論自体もとても面白い。
いろいろな考えが出て来る背景には、人間は特別ではないか、とか、自然選択だけで、例えばカメラそっくりの「眼」のような複雑な器官が進化するとはとても思えないからです。「眼」の進化についてはダーウイン自身も悩みのタネだった。中途半端な段階では役に立たないし、そうかと言って突然変異で一挙に進むことは考えられない、というわけ。
でも、最近の論調では、ほとんど全てが自然選択で説明が付くというものが多い。
進化があったことは間違いないところですが、最初の生物の発生や地球外生物についてはほとんど解明が進んでいないようで、神の世界に入ってしまう。私のカンでは、生命(生物)は地球外には存在しないのではないでしょうか?

3 意識(心)とは何か?コンピュータ(ロボット)は意識(心)を持てるか?

最近この問題を扱う本が多く出ている。コンピュータが意識(心)を持てるかどうかについては学界でも両論あるが、肯定派は概して科学者系の人達で、一方、否定派は概して人文系の人達であるようだ。
鉄腕アトムは可能かどうか?猿や犬は心を持つか?ウォータンと共に行動していると、彼も意識を持ち考えているように見える。
でも、そもそも心とは何か、から議論しなければならない問題なのだ。これは科学だけではどうにもならないところがある。哲学の世界では、これは昔から重要なテーマでさんざん議論されてきていて、科学者も耳を傾けなければならないだろう。
これも私のカンだけれど、ロボットは人間と同じようには心は持てない、と思うのです。

地球外生命やロボットの心について、私はペシミストすぎるだろうか?ひょっとするとワクワクするような事実や理論の発表があるかもしれない、と期待しつつ今後もしっかりとウオッチングして行こう。

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2006年8月11日 (金)

マイルス・デイビス…モード・ジャズって?

マイルス・デイビスの最も有名なレコードと言えば、「カインド・オブ・ブルー(1,959)」でしょう。モダン・ジャズのレコードとしては驚異的に売れていて、200万枚に達しているらしい。

ジャズ史の上でもモード・ジャズの世界を切り開いた画期的なものとの位置づけになっています。それまでのモダン・ジャズはバップをベースとしたコード進行に基づく音楽だった…。

こういうことは表面的には知っていたが、音楽はただ聴くだけの人である私は、「モード」とか「コード進行」とかという言葉の意味については、全く理解できず、永年、謎のままの状態でありました。

このレコードを買った200万人もの人たちはどうなんだろうか?

715日付けのブログで紹介した「東京大学のアルバート・アイラー」はジャズの歴史と理論についてのとても分かりやすいよい本だ。この問題についても当然、触れていて、私を少しばかり分かったような気分にしてくれた.。以下は、その受け売りというか、私の理解を書いてみたものです。

コードについては、和声の種類を記号化したものだ、ぐらいのことは分かっていたが、ジャズの譜面では、あるコードが指定されている場合、その和声(通常4音)のどの音が上でも下でも構わない…演奏者に委ねられる、ということのようです。

さらにコード進行というのは、単にコードが時間的に変化して行くということだけでなく、意味を持った(作曲者の意図を持って)進み方をするということなのです。

具体的には、7種類ある和声(コード)には、それぞれ特徴的な響きがあって、大きくはT(トニック;安定)、SD(サブドミナント;宙吊り/緩い緊張)、D(ドミナント;緊張)と言う機能に分かれ、これを組合わせて、山あり谷ありのストーリーを作って行くと、強力な進行感が得られるのだという。

こういったコードとその進み方だけを指定する仕組みによって、アドリブやプレーヤー間の交歓が可能になるのです。

(そう言えば、中学か高校の音楽で、先生が適当に和声を弾き、生徒がT,D,SDの区別を聞き分けるということをやったなあ。)

これに対して、モードとは何か?

ファッションのモードと同じような意味合いです。コードの進行で曲を作っていくのではなく、全く異なる作り方をします。すなわち、曲全体を一つのモード=音列で支配されるように作ります。その音列とは、例えば「ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど」であり、第3音と第6音が半音下がった「ど、れ、bみ、ふぁ、そ、ら、bし、ど」は、また別のモードなのです。モードが違うと、音感的にかなり違う印象を受ける。なお、モードは「れ」から「れ」、「み」から「み」・・・という風に種類があるようです。

コーダルな曲では異なるコード間を行き来するが、モーダルな曲は一つのモードで終始する。(実際には1曲の途中でモードが変わることもしばしば)

演奏者は指定されたモードの中でアドリブすることになる。T、SD、Sのようなものに縛られることも無い。和声的にはシンプルになるから、アドリブの領域も大きく取れるようになると言うことらしい。

菊地の別の本によると、数学で言えば、コーダルな曲は微分的であり、モーダルな曲は積分的であるという面白い表現をしていた。コーダルでは、最小の長さと形が決まっていて、その枠内でアドリブのスペースをはめ込んでいくが、モーダルな曲では、次々とアドリブを積み上げていくことが出来るのだという。(この辺りは立ち読みの記憶で書いたので多分正確ではないでしょう)

いずれにしても、モダン・ジャズは個人のアドリブに芸術的価値を認めた音楽であり、それを可能にしたのが、コード、モードなのです。

モード・ジャズは音楽としてはクールに聞こえるのが特徴である。また、クラシックの作り方に似ていて、マイルスもクラシックを意識していたという証言がある。また、シンプルな故に、単調になる嫌いもあって、リズムを複雑にして色付けをする方向、ポリ・リズムの方向に進んで行った(ハービー・ハンコック他。マイルス自身もリズムに関心を強く持つようになり10年後には「ビッチェズ・ブリュー」で結実した。…なるほどそういうことだったのか。)

なお、現代の曲作りでも、コーダル、モーダル共に取り入れられているようです。

Photo_59 上はチャリー・パーカーの「コンファメーション」の譜面
コード・シンボルがたくさん並んでいる。
下はカインド・オブ・ブルーの中の「ソー・ホワット」の譜面。コード・シンボルが少ししか出てこないし、同じシンボルのように見えるが、意味合いは異なり、モードの指示である

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2006年8月 9日 (水)

備えあれば憂いなし…ウォータンはセミが好き

東海地方直撃かと思われた台風7号は、紀伊半島沖で東に急旋回、雨も風もほとんど吹かなかった。気象庁もほとんど想定外の動きのようだ。
我が家でも、建て掛けてあるヨシズの紐を外して倒すぐらいの準備はしたが、空振りだった。以前に、ヨシズを縁側の小屋根に括りつけたままにしておいたら、強風で小屋根の部材が剥がれ落ちた苦い経験があるから、損したな、とは思わない。

昔、公共的設備の運営の仕事をしていたことがあるが、台風が来ることが分かれば、会社に居残りして、トラブルに備えたものだった。
設備運営管理の仕事では、日頃から何時起こるか分からないトラブルに対する備えが必要で、それが仕事でもあります。
だから、想定トラブルに対する対応訓練は非常に大切だった。勿論想定できないことも多々起きるのであるけれど、少なくとも想定できることはキチンと対応できなければならない。訓練はおざなりでは役に立たない。シミュレーションと言えるぐらい、起こる事柄と内外の条件を詳しく分析して、実際に対応してみることが必要でした。そうすると、バリエーションは数え切れないほど出てくる。
そこで、私の職場ではほとんど毎日、訓練をやっていた。
しかし、訓練というのは仕事としては「詰まらない」という面もあるから、こういう職場では、士気の高揚・持続が特に大切でした。

今回事故が起きた流水プールではこの辺がどうなっていたのだろうか。予断を持って書くのは控えるべきだけれど、いちばん問題なのは、運営監視の仕事を請け負いに出していることかもしれない。それによって、責任の所在がうやむやになっているのではないかというのは容易に推測できる。
排水口の蓋が外れた場合の危険性については想定されていたようだが、全ての当事者の認識があまりにも希薄なのはどういうわけだろうか?また、蓋が外れた事を発見した時の監視員の措置はどうすべきかは決めてなかったのか?

もっとも、私個人のレベルでは偉そうなことは言えない。そろそろ築30年になろうとする我が家、耐震対策はほとんど講じていない。一応、地震保険付きの損害保険に入っているから、壊れたら、建て直せばいいぐらいに考えている。しかし、震度5以上では背の高い食器棚はどうなるだろうか、42インチのプラズマテレビは?悲惨な状況が想像できるから、これくらいは至急対策をとって置こう。

午前中に、暫し庭で、ウォータンとボール遊びをしてやるのだが、あまりに暑くて勝手に遊ばしていたら、セミを食べてしまう癖が付いてしまった。最初は、藤棚の下から出てくる孵化直後の柔らかいのを、知らぬうちに食べていたようだが、最近は飛んできた奴を素早く捕らえて暫らくジージー言わせて、そのうち食べてしまうのです。私が、ダメ!と怒鳴ると、なおのこと、くわえて逃げ回ります。犬の胃液は強烈な酸を伴っているから、大丈夫か、と諦めです。先代のバスターはトカゲが大好きで、いつもおもちゃにしていたことを思い出します。死んだものは相手にしないから、動きそのものが面白いのですね。

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2006年8月 5日 (土)

真夏の1日…ウォータンの暑さ対策は?

今日は暑かった。名古屋の最高温度は36度のようだけれど、名古屋北部のこの地域は多分40度近かったと思われる。午後3時ごろ車で移動中、外気温度表示を見ると39度5分を示していた。
私はこの猛暑の中、週1回のテニス・スクールに出かけた。私のクラスは土曜日の12:50~14:20という最も暑い時間帯です。コートは屋内だから直射日光は避けれるが、風はないし、テント屋根は熱をかなり通すようで猛烈に暑い。多分40度近くあると思われます。暑い暑いといいながら、それでも練習はいつもと変わらず。いつも不思議に思うのですが、1時間半の練習は、あっという間に終わってしまうのです。この暑さでもそれは変わらない。
黄色いボールを夢中で追っていると、日常の些事は吹き飛んでしまい、暑ささえ気にならない。これがスポーツのいいところですね。

ところで、ウォータンの暑さ対策は?
彼は室内飼い(サークルに入れてある)なのですが、今日はテニスに出かける前に、エアコンをつけてやりました。いつもは、昼間はエアコンなし。その代わり、「アルミひんやりマット」と、扇風機がもらえます。このアルミ・マットというのはかなり有効らしく、ウォータンはこの上にいる事が多い。表面は滑らかだが、裏は波形になっていて、放熱効果がよくなるよう工夫がされています。犬仲間から「これはいいぞ!」との情報を得たので、最近買ったものです。ネットで買ったのですがサイズによっては「売り切れご容赦」となっていました。
夜は私自身の要求もあって、朝までエアコンの中。お互いの寝息を確かめ合いながら平和に眠ります。
それから、給水機には1日2回、氷を少し入れてやります。
散歩から帰ってくると、トレーに水を満たし、足を洗うのだけれど、最近は水が満たされるのを待ちかねて、自分からそそくさと入ります。とても気持ち良さそうなので暫らく、顔に水を掛けたりして遊んでやります。
散歩は、朝は5:50~、夕方は18:10~。アスファルトが熱くない時間帯ですが、これは私の日焼け防止にもよいのです。

前回、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックについて書いたけれど、いろんな形に発展放散していて、そのひとつ、今年春に出たシュリフトの「ロスト・イン・ア・モーメント」は良質のアンビエント・ポップスです。ブラジル音楽を消化ないし昇華した、英国発、サンフランシスコ経由の音楽ということですが、波の音など環境音もさりげなく取り入れていて、クーラーの中でこれを聴きながらビールでも飲んでいると最高です。

Shrift シュリフト「ロスト・イン・ア・モーメント(2,006)」
ドラムンベースを基調とした演奏にブラジル的な
ビートやバイオリンの音色、そして魅力的な女性ヴォーカル
(ヴォーカルは英語、ポルトガル語、フランス語の間で
違和感なく移行していくのがとても面白い)

Shrift2
こちらはジャケットの裏側
こちらの方が、音楽にあっているように思えました
猿(イラスト)の意味は?

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2006年8月 2日 (水)

ブライアン・イーノ…環境音楽から光のアートへ

ブライアン・イーノについて、ある紹介文には、「講師、視覚的アーティスト、作家、政治活動家、未来科学者、そして音楽家、と、多様な顔を持つ」と書かれていました。そこまで多彩な活動をしているとは私も知らなかった。
それでは音楽家として、つまりロック・アーティストとしては、どの位置に居るのだろうか?大きくはプログレッシブ・ロックに括られるか、その延長線上だろうと思うのだが、「UK Progressive Rock / Mainstream The Golden Era」ではアヴァンギャルド系という名称を与えている。これは実に的確な分類と言えましょう。

ロキシー・ミュージックから独立して以来、常に実験的な音楽作りで他のロックアーティストとは一線を画していたから。そしてその実験の中で「環境音楽(アンビエント・ミュージック)」という新分野を創始したのですから。

彼が環境音楽を初めて提唱したのは、1,975年のことで、交通事故に遭った経験がヒントになったとされている。また、彼は現代音楽にも関心を持っていて、実際に演奏活動も行なっているが、エリック・サティ(Erik Satie)の「家具としての音楽」から、環境音楽の考え方に、影響を受けたと、イーノ自身が語っている。

実際の方向はサティと異なっていて、イーノの環境音楽では、音楽が周囲の雰囲気を積極的に定義付ける、もっと言えば、記念碑に付随するような音楽であり、何らかのモニュメントとそこに流れる音楽が周囲の雰囲気を決定する。その音楽はその場所に行かねば聴くことが出来ない、というものであった。したがって、当初は環境音楽は音楽のジャンルというより音楽の作曲・使用方法に関する思想であった。(この部分はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用しました)

イーノの環境音楽の代表作といえる「Ambient 1ミュージック・フォア・エアポーツ(1,978)」は、聴き込む事も出来れば、環境の中で無視することもできる音楽を意図して作られた。この音楽は、実際に、ニューヨークのラガーディア空港でバックグラウンド・ミュージックとして使われたという。
これを実現するために使われているのは、非計画性、偶発性、自動生成(自動演奏)をキーワードとする手法です。例えば上記アルバムの2曲目は透き通った3人の女性コーラスだけで構成されているが、

7つの音程を1つずつノンヴィブラートで5秒間歌い、無音の部分を加え、1音に付き20~30秒のテープループにし、7本のテープを7台のテープレコーダでひたすら繰り返して出来ている。7本のテープは全部長さが違うから、定率的なリズムが成立することは無い。それでいて、ゆったりとした波の干渉が描き出す半ば偶然のメロディーとハーモニーが、恐ろしく心地よいのです。

イーノは次のような体験談も語っている。元は4つのパートをぴったりと同期させて再生するように出来ている無限音楽のテープ4つのそれぞれ最後に長さの違う無音部分を加えて、4つの別のテープデッキで延々と再生していたところ、ある瞬間に
Dolly Partonのよく知っているメロディーが浮かび上がり、作業中のスタッフ一同が大いに驚いた。(実際にはもっと手が込んでいるようですが簡略に書いた)


77 Million Paintings」は、基本的にこの音楽での試みがアートに適用されていると考えてもよさそうです。「77 Million Paintings」に添付のブックレットには、光のアートへの取り組みについてのイーノ自身の長めの文章「My Light Years」が掲載されている。
それによると、彼は10代の終わりごろ、音を奏で始めたのとほぼ同時に光を操り出したようで、ライト・ディスプレー作品で特許をとりパブなどの憩いの場で、人々を夢中にさせようと、考えていた。
しかし、歴史的に音に比べて光のコントロールは難しかったので、試行錯誤だったようです。
1,978
年のこと、使い古しのビデオ機材を譲り受けたのを機に、ビデオ・アートを作ってみようと、撮影を始めたが、機器が巨大過ぎるし、下がカーブしていて三脚がないと設置も出来ない、仕方が無いので横に寝かせて撮影した。自宅でテレビで再生すると、画像は当然横向きになり、全く理解できない映像だった。ところが、再生しているところへ訪ねてきた人々が、とても興味深げに集中して見ている。

このとき、テレビ(ビデオ)が絵画としての可能性があることに気が付いたという。

80年代に入り、「ビデオ・ペインティング・ショー」に打ち込み始め、イーノはビデオ・アーティストになった。スクリーンや建物に映像をプロジェクターで映し出すものは当然だが、文字通りテレビを光を出す装置として使う試みも数多く行なっている。

そして自然な流れとして現代美術の1ジャンル「インスタレーション場所や空間全体を作品として体験させる芸術」に傾斜して行った。

このような活動を行なうに際してソニーがかなり協力しているようです。
77 Million Paintings」は、これまでのインスタレーション作品とスクリーンをベースとした作品の集大成である、とイーノは言っている。

長々と書いてしまったが、それは、ブライアン・イーノの活動を見ていて次のような点にとても感嘆したからです。

①音楽とアート(絵画)の間を自由に行き来していて、私たちにもその垣根が意外と低いことを教えてくれる。

②アートの自動生成という私にとって驚きの手法を実践している。

最後に、私の持っているブライアン・イーノのCD3枚のジャケットを添付しましょう。

Greenworld

アナザー・グリーン・ワールド(1,975)





Ambient1
アンビエント1

ミュージック・フォー・エアポーツ(1,978)





Dayonearth
アナザー・デイ・オン・アース(2,005)








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2006年7月29日 (土)

テレビは21世紀後半の絵画と考えられないだろうか?・・・ブライアン・イーノ

先ず、添付の絵を見てください。これは私のコンピュータが生成したものです。あるソフトウエアを起動すると、最初の絵が現れ、ゆっくりと時間をかけて複雑に変化して行く。瞬間瞬間が異なる絵。そして、そのうちにとても美しいな、と感じる瞬間が訪れる。これだ、と思ったら、保存する。でも、もう少し時間が経つと、もっと面白い画面になる・・・

ソフト(DVD-ROM)の名は、「77 Million Paintings By BRIAN ENO」。

作者のブライアン・イーノのコメント。

《テレビとは光をコントロールするもの/イメージとはコントロールされた光の一部/物語はイメージの一部

《テレビを光のエンターテイメントと考える/情報と刺激は切り離せない/「エフェクト」をテレビに追加されたものとして考えるのは止めよう/現在は端にあるものもいずれは中心となる

《テレビはシアターの代わりとして成長した/教養・連続性・物語が結合したシアター特有の価値が今日までテレビ文化を支配してきた

《テレビについて他の見解があるとしたら?/21世紀後半の絵画と考えられないだろうか?》

このような思想のもとに、光を媒体として、コンピュータ生成による芸術的可能性を探ろうと試みたものだという。

素材として使用するのはイーノ自身が長年にわたり描きためてきたもの(多くは手書き)。

大きな箱の中に大量の絵を入れ、その中からランダムに1~4枚取り出し、手にした絵を自由に組合わせて1つの絵を創る、そういうイメージである。「組合わせる」という言葉より、「配合する」という言葉の方が適切なようだ。しかも時間的要素も介在する。

実際のソフトはどのように作られているのか興味あるところだが、説明では完璧なランダム生成プログラムであり、無限に近い合成的な絵を作り出すのだと言う。

タイトルの「77,000,000の絵」は、順列組合わせの計算で出てくるものらしい。

77 Million Paintings で生成される絵のオリジナル性はどう考えればいいのか?通常のアートのオリジナルとは、アーティストが実際に手で形成し、内面にあるアイデアを何らかのプロセスで表現する作業である。

77 Million Paintings では、過ぎ行く瞬間のユニークさ、過去に全く感じたことの無い瞬間のユニークさをオリジナルと考えるのだそうだ。

全てのユーザーは同じソフトを手にするが、それぞれが全く異なる育ち方をし、アーティスト(イーノ)自身も見たことの無い特徴的な絵に成長するのです。
ユーザーは、この瞬間が好きだと思ったら保存することは可能だから、どの瞬間を選ぶのか、ユーザーのセンスが問われることになる。この選択という作業は創造の一種かもしれない、と私は思った。

また、絵だけでなく、音楽も付随しているのだが、これも幾つかのレイヤーの音楽から生成的に配合するもので、二度と同じ音楽を聴くことはない。
実は、ブライアン・イーノはロックミュージシャンでもあるから、音楽の方にも期待していたのだが、いざ、実際に手にしてみると、77 Million Paintingsはやはり絵画としての価値がメインであることが明確です。

ところで、作者のブライアン・イーノについてもう少し触れておく必要がありますが、長くなったので次回に譲りましょう。

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2006年7月26日 (水)

講座「バッハの教会音楽における言葉と音」を受けて(1)

日曜日に朝日カルチャーセンターにて題記講座の第1回があった。
古典音楽研究の権威である藤原一弘氏が講師。
サブ・タイトルは「心の耳で聴くバッハ」ですが、バッハが教会音楽を作曲する時、歌詞をどのように捉えて、具体的にどんな風に音で表現したのか・・・言葉と音の関係・・・を知ると、バッハの音楽を心の耳で聴くことが出来るようになるという。

現代の我々はロマン派の延長上に居て、それに浸りきっている。その既存の枠組みを取り払わないと、本当のバッハは理解できない。それには、バッハ以前の音楽を徹底的に聴くしか方法が無いことを、講師の藤原氏は実感していると言う。

第1回は「音楽と言葉はいつ出会ったか?」でした。

・現代では、音楽は芸術という捉え方をするが、かつてはそうでなかった。紀元前500年のピタゴラスから、18世紀初頭のバッハ以前までは、Musica est scientia mathematicaすなわち「音楽は科学」と捉えられていた。そして音楽家は職人であった。

・中世においては、言葉と音楽には直接的な関係はほとんど無かった。優れた詩に優れた音楽を付ける。あるいは重要な言葉を際立たせるための役割を音楽が担った。
〈ここで、1,360年頃のG.ド・マショーの「ノートルダム・ミサ」を聴く。ある言葉の部分のみ音楽を例外的に際立たせているのがよく分かる〉

・ルネッサンスの16世紀から、言葉に対して音楽をどう表現するか関心が高まった。そして、言葉をより具体的・描写的に音楽で表現し始めた。これは、ルネッサンスがギリシャ、ローマの古典の再生であり、言葉自体への関心が高まった時代だったことも影響している。
〈ルネッサンスの音楽の例として、ジョスカン・デ・プレのモテットを聴く。「我が子アブサロン・・・」という歌詞のところで、フラット音を5~6個も使うことにより、黄泉に入る(死へ)と言う感情を、ドキッとするほど美しくも悲しく、見事に表現している。デ・プレは言葉を音楽に本格的に反映した最初の人。〉

・バロックの時代(1600~1750年頃)の音楽はAfektつまり、感情・情念を表現するのが目的になった。ただし、個人の感情ではなく、普遍的な意味での感情表現である。悲しみとはこういうものです・・・。
言葉の意味を直接的に音楽に表現するようになり、モンテヴェルディ(1583~1643)は「言葉は音楽の女主人である(言葉は音楽を支配する)」、と言っている。
〈サンマルコ寺院の音楽監督であったモンテヴェルディのAh, dolente partita! (ああ、辛い別れ!)を聴く。英国盤;二人のソプラノがミの音から同時に発して、突然半音階になると同時に二人の音が分かれていく。別れの痛みを忠実に音の上でも再現・・・言葉優先。
イタリア盤;全体の音程を下げて、男と女に歌わせている。おまけに途中に「休符」まで入れて、ため息の情感を表現。・・・イタリア人はここまでやるのだ。いずれにしてもモンテヴェルディというのは凄い。官能的なまでに美しい音楽でした。〉

今回はバッハ以前のお話でしたが、バッハの曲も1曲聞かせてもらった。
カンタータ8番 Liebster Gott, wenn werd ich sterben (いとも尊き神よ、わたしはいつ死ぬのか)

以上が概要ですが、高校以来音楽の講義を聴くなんてことは絶えてなかったので、とても新鮮な気分で受講できました。次回以降が楽しみです。なお、日曜日の講座はさすがに大盛況、受講者数は約100名でした。

Photo_57 ネジバナとモンシロチョウ
(日光Kさん提供)
絶妙のショット。脱帽ですね。


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2006年7月22日 (土)

面白小説・・・クライブ・カスラー

19日のWOWOWで、「サハラ―死の砂漠を脱出せよ」が放映されました。これはクライブ・カスラー(Clive Cussler)の小説「サハラ」を映画化したものです。クライブ・カスラーが映画化されているとは知らなかったので、とても興味深く見ました。

先日の日経に、ある経済人が「面白小説」を楽しんでいることが書かれていましたが、私にとっては、このクライブ・カスラーが正に「面白小説」の代表です。別に定義は無く、要は自分にとって面白ければ良いだけの事ですが、強いて言えば、①ストーリーが奇想天外である、②テンポがよくサスペンスが継続する、③ロマンスが適度に(軽い方が良い)含まれている、そしてこれが最も大事かもしれないが、④明るいトーンである、ぐらいでしょうか。

カスラーを見つけるきっかけとなったのは、第二のお勤めも慣れて安定した頃、電車通勤の時間を有効かつ楽しく過ごす方策として、ペーパーバックス(英文)を読むことに決めたことからです。とに角、面白くなければ続かないから、丸善や三省堂で探す時間は惜しまなかった。そして、買ったはいいが、読みづらかったり、暗かったり、残虐だったりというのは、即座に止めて、他のにすることを徹底しました。そのおかげで、7年ほど続いて、自分でも驚くほどたくさんの本が読めました。1日に読めるページ数は20~30ページほどでしたが、毎日のことですから塵も積もれば山となる、です。

そんな中で見つけたのが、クライブ・カスラーです。翻訳本はほとんど無いから私も知らなかったが、洋書の新刊コーナーに、彼のダーク・ピット・シリーズの新作が1~2冊/年のペースで出てくるのです。1冊試しに読んだのが運の尽き、虜になってしまいました。そして、バック・ナンバーも。本棚には9冊(ダーク・ピットもの以外もある)も並んでいます。
どういう作風かと言うと、

主人公のダーク・ピットはNUMA(National Underwater and Marine Agency)という、架空の政府機関の職員である。その名のとおり、海洋、とりわけ海中の調査が職務で、特に過去に海底に沈んだ歴史的な船や文化財を探索し、引き上げるのが得意である。
したがって、物語は大抵は過去の出来事と現在とを卓抜なアイデアで結びつかせた謎解きがベースになり、何かを企む悪者との戦いがあり、魅力的な女性も出てくるからさわやかなロマンスもある。

ダーク・ピットは強靭な肉体と卓越した知能の持ち主だが、とりわけ知力で悪党どもをやっつけるのが楽しい。面白いのはこのシリーズが進むにつれてピットが歳を重ね、「トロイアン・オデッセィ(2004)」では、最後に引退を宣言するが、それまでの功と能力が認められてNUMAの責任者に格上げになる。
そして、次作のBlack Wind(2005、未だ読んでいない)からはピット・ジュニアが主人公になるようである。著者の方も、カスラーの息子と連名になる。なんとも、微笑ましいではありませんか。
なお、ダーク・ピットの最初の妻は子供を残して早死にしているので、アドベンチャーを楽しむのに支障が無いのです。都合よく出来ていますね。ダーク・ピットの唯一の趣味はクラシック・カーを蒐集するという贅沢なもので、これは著者のカスラーの趣味でもあったようです。小説の中にカスラーがクラシック・カーのディーラーとして出てきたりして、茶目っ気があるところも、面白小説として盛り上げています。

書き忘れてしまいましたが、海洋調査の専門家ピットが何故、サハラへ?物語の発端は、米国の南北戦争の最中に、鉄製の装甲船が現れるところから始まるのです。現代のサハラとどう結びつくのか?これ以上は、読んでいない(映画を見ていない)人のために伏せておきましょう。
Clivecussler
著者クライブ・カスラーと
ダーク・ピットのお気に入りの
MARMON V-16 TOWN CAR






最後に、日光Kさん撮影の素敵なお花の写真です。
Photo_52

ギンリョウソウ(銀竜草)
(日光Kさん提供)
別名幽霊茸とも言う。奇妙だけれど、美しい。





Photo_53 ニワナナカマド
(日光Kさん提供)
清楚な美しさに思わず息を呑みますね。

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2006年7月20日 (木)

本屋さんも進化中

私にとって、街へ出る楽しみの大部分を占めるのは、本屋さんと、CDショップへ寄る事です。と言うよりは、それが目的で街へ出ることが多い。退職後は時間に余裕があるから、その機会も増えた。
郊外の大規模団地に住んでいるが、近所にも昔に比べればマシな本屋さんが出来てきた。大抵、チェーン店で規模も陳列内容もワンパターン、おまけにコミックスのスペースばかり増えると言う傾向が、ひと頃続いていたが、最近、様相が変わってきたように思える。店内のあちこちに椅子を置いて、立ち読みならぬ座り読みができるような配慮をしたり、喫茶コーナーが併置されたり、ゆっくり楽しんでいってくれ、と言う雰囲気造りをしているようです。

いつも思うのだけれど、店の経営者はどういう考えで、陳列する本を決めているのだろうか?私の嗜好が偏っているかも知れないが、例えば最も近いS堂というチェーン店はろくな本が置いてないので、滅多に行かないし、行ってもNHK講座のテキストぐらいしか買わない。ちょっと離れているのだけれど、Rという店は音楽や美術に関する本がとても充実しているので、しょっちゅう行くようになった。ここはブランド物の店が寄り集まったモールに入っているからかも知れない。
一方、名古屋駅前の三省堂にもよく行くのだが、専門分野別に膨大な本があるけれど、落ち着いて本を探す雰囲気でないし、私の求める肝心の本が置いてなかったり、何か間が抜けている感じがする。唯一利用価値があるのは、洋書コーナー。これは丸善も同じ傾向。
これらの大規模店の中では、ジュンク堂が最も素晴らしい。言って見れば、各分野のマニヤックな本が実に多いのです。私の好奇心を刺激してくれ、時間が経つのを忘れて長居することが多い。

もうひとつ、よく利用し重宝している本屋さんがあります。インターネット上の本屋さん「アマゾン(amazon.com)」。
本はロングテール現象を示すものの代表ですね。世には膨大な数の本が出ているが、よく売れるのはホンの一握り。売れた数を縦軸にして、売れた順から並べていくと、長い尻尾を持った恐竜のような形になる。大概の本はこの延々と続く尻尾(ロング・テール)の方に位置することになる。だから陳列面積が限定されている街の本屋さんは、売れる本しか置かない。見たい本、欲しい本が無いわけである。これに引きかえ、インターネット上の本屋さんは実際に在庫を持つ必要はなく、本のリストだけあればいいのです。前にも紹介した「ウェブ進化論」によると、米国の現物の本屋さんチェーンでは13万タイトル(すなわちランク13万位まで)の在庫を持っているが、アマゾンは全売り上げの半分以上は13万位以下の本から上げているとのことです。

アマゾンの利点の一つは読後の感想が載っかっている事です。これは参考になりますね。昨日も、前記のR店で「反音楽史」なる本を見つけたが、買おうかどうか迷ったので、アマゾンでチェックしたところ、たくさんの感想が載っていた。これで大体内容は分かったし、あまり評価がよくなかったから、パスすることにした。
また、朝日カルチャーセンターの講義で紹介された文献などは、まずは本屋に在庫が無いので、アマゾンで注文と言うことになります。

世の中全体としては、本離れの傾向は続いているようだけれど、リタイアして時間が有り余るほどある我々にとっては、本屋さんは無くてはならないもの。本屋さんには今後とも頑張ってもらいたいものです。

さて、今回も、日光発の素晴らしいお花の写真をお届けしましょう。
Photo_50
クリンソウの群落
(日光Kさん提供)



1_2
珍しい黄色のクリンソウ
(日光Kさん提供)


Photo_51
ワタスゲが広がる野
(日光Kさん提供)

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2006年7月15日 (土)

音楽の消費者

私たちは「音楽の消費者」である。

一寸古いが、音楽社会学者アドルノによれば、人々の音楽への接し方には6つのパターンがあると言う。①音楽の構造を聴き取る能力を持った「エキスパート」、②全体のまとまりを自発的に理解する「よき理解者」、③レコード(CD)を次々に購入して聴く「教養消費者」、④音楽を聴いて開放されることを望む「情緒的聴取者」、⑤陳腐なコンサートに飽きて古楽に聴き入る「復讐型聴取者」、⑥ジャズ(日本では演歌?)だけを聴く「ジャズフアン」。
  さらに彼は、①以外は全て「娯楽型聴取者」であり、資本の管理の下にモーツアルトからジャズまで商品化された音楽を消費しているのだと、実に1933年の論文で述べている。

言い得て妙だと思いませんか?

最近は、1曲100~300円程で、ネットで購入することが出来、ますます「音楽は商品」という感覚に拍車が掛かって来た。若者に負けてはなるまじ、と、私も、携帯電話に、メモリーを付加し、ネットから数曲購入して入れてみました。もっとも、購入サイトにもよるのでしょうが、好みに合う曲は少ないという印象です。若い人が主たるターゲットになっているからでしょうか。

同じ「娯楽型聴取者」であるにしても、私の場合は④③の状態から、せめて②の方へ上がりたいと言う願望はある。

先日、菊地成孔の「東京大学のアルバート・アイラー」と言う本を入手した。

この本は、東京大学での、ジャズの歴史と理論についての講義録だが、講師の個性を反映して、とてもユニークな内容になっています。

この本については、別途詳細に触れたいと思いますが、菊地氏が言うには、この講義の正式のタイトルは、「12音平均律→バークリー・メソッド→MIDIを経由する近・現代商業音楽史」だそうです。
これは何かと言うと、音楽を記号化、デジタル化して記録する手法の歴史的な大きなエポックが3回生じたと言うことを示しているのだそうです。

12音平均律は、1オクターブを数学的に単純に12等分した素音をベースに音楽を作るもので、18世紀半ばから西洋音楽において一般化し始め、バッハの彼の有名な「平均律クラヴィーア曲集」により、ワールド・スタンダードとなったものです。これにより、西洋音楽は大衆に受け入れやすく、ポップなものになった。

バークリー・メソッドは、20世紀半ばに、ボストンのバークリー音楽院で商業音楽を製作するためのメソッドとして教え始めたもので、音楽の和声や旋律のバリエーションを記号化・数値化して手っ取り早く教える発想の元にできたものです。たまたま、同時期に発生してきたバップ→モダンジャズとの相性が抜群で、これらの発展に寄与したのです。現在でも、演奏の現場で使用されているコード・シンボルがそれです。モダンジャズでは、指定されたコードの範囲内で、演奏者は自由な発想が許され、そこに、モダンジャズの真髄があった。
バークリー・メソッドはジャズだけでなく、ポピュラー音楽の世界にも広く受け入れられ、その興隆に繋がったことも特筆すべきことです。


MIDI(Musical Instrument Digital Interface)は、1982年に制定された規格のことです。これは音楽の全ての要素を記号化・デジタル化しようとするもので、最初はシンセサイザーのためにヤマハが開発しました。例えば音色や発音状況までもが数学に置き換えられるので、純粋に電子機器のみで音楽をアウトプットできるようになった。
MIDIは厳密に音楽を記号化できるから、バークリー・メソッドのコードのようにアバウトなところがない。もう一度5線譜に戻った感じである。モダン・ジャズの即興性はこのアバウトさに支えられていたし、即興演奏のテクニックも行き着くところまで行ってしまったから、MIDIの出現に合わせるようにジャズにおける「モダニズム」は終焉した、と菊地氏は述べる。

少々堅い話になってしまったようです。言い訳ですが、私は理系人間だから、音楽の数値化のような話題には、自然に関心を持ってしまうのです。

口直しに美しい花の写真を。
これは日光にお住まいのKさんが撮影されたものを許可を頂いて掲示しました。自然に恵まれた土地ならではの珍しい花。そして撮影技術もとても素晴らしいと思います。

C
ニッコウキスゲ
(日光Kさん提供)


Photo_49
エリモシャクナゲ
(日光Kさん提供)



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2006年7月11日 (火)

西洋中世美術史入門講座を受けて(その3)

先週末、題記講座の第3回があった。講義が始まる前の教室では、講師がテレビ出演(美の巨人たち)されたことが話題になっていました。私は残念なことに見逃してしまった。講師にその話を向けると、「ホンの短い時間ですよ」と、謙遜されるのでした。

本講座は、1千年にも及ぶ中世の美術について、いろいろな切り口から特徴を探っていくもので、今回のテーマは「物語と記憶」でした。以下はその要旨です。

1 キリスト教的な時間
・始まりから終わりに向かう直線的な時間の観念はキリスト教によってもたらされた。
   ・・・天地創造から最後の審判まで・・・これらに関する絵が実に多く描かれ、人々                  は始めと終わりがあることを常に示されながら生活していた。
・一方で繰り返す円環的な時間観念も同時に存在した
   ・・・人生の各段階がが世代を重ねて循環する様を描いた絵等が多く残っている。

2 旧約聖書と新約聖書の対応関係
      旧約の予型が新約で成就するという考え方であり、それに沿った美術が存在する。

3 アナクロニズム
アナクロニズム(時代錯誤)は、あまりいい言葉で使われないが、キリスト教の美術ではむしろ積極的に利用されている。幾つも面白い例がスライドで紹介されたが、例えば、
1317年に描かれた「パリに入る聖ドニ」は、ほとんど何もなかった筈の3世紀半ばのパリへ、最初の司教としてドニが来た時の絵であるが、シテ島には立派な聖堂がありグラン・ポン(大橋)もプチ・ポン(小橋)も描かれている。

4 イメージによる物語表現
・物語とは何か  時間的に秩序付けられた少なくとも二つの命題で語ることが必要。
中世のキリスト教に関わる絵画には、漫画のようにコマ分けして描かれるものもあるが、1枚の絵でありながら、幾つものシーンを同時に描いているものが多い。この場合、1枚の絵の中に、同じ人物が何度も描かれることになる。「異時同図法」である。
・どれほどささやかな物語であっても、それは必ず事件の時間的な連続以上のものである。物語をたどることは既に、起こっている事に対する反省的な判断行為が伴い、全体的な意味を考えることに繋がって行く。(「意味論的巨大構造」と言うのだそうだ)

ここでもいろいろな実例をスライドで見たが、名画でもあるマザッチョ「貢の銭(1425~7)」の場合をここに示しておきましょう。
この絵には、次の3つのシーンが同時に描かれている。
<シーン1> 中央では税を要求する収税吏に対し、キリストが右手で湖岸を指し示す。左側に厳しい表情のペデロが立ち、キリストに目を向けつつ右手で湖岸の方角を示す。
<シーン2> 画面左端では、ペデロが岸辺で魚の口から銀貨を取り出している。
<シーン3> 画面右端では、ペデロがその銀貨を収税吏に渡している。

Photo_48マザッチョ「貢の銭」
(サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂/フィレンツェ)


「貢の銭」は、マタイ伝の奇跡の物語である。
ユダヤでの宣教中にイエスと弟子たちがカペナウに来た時、収税吏が来て、ペテロに「あなた方の先生は税を納めないのか」、ペデロは「納めておられます」と言う。
ペデロの家に入った時、イエスが言われた。「世の王たちは税や貢を誰から取るのか?自分の子からか、他の人たちからか?」。ペデロは「他の人たちからです」。イエスは言われた「それでは、王の子たちは納めなくてもよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って釣り糸をたれなさい。最初に釣れた魚の口を開けると、銀貨が見つかるだろう。それを納めなさい。」

このような絵はどのように見ればよいのか?講師は、「時間の順に見なければならない理由は何もない。私たちが絵の内容を把握する時間と、物語の時間とは別物だ。絵は、私たちが物語についての認識を心の中に作り上げるための素材だ、と考えればよい」と言う。

5 言葉とイメージ
「言葉とイメージ」は中世美術を考える時には重要な視点である。それはキリスト教が言葉の宗教であることから来ているとも言える。・・・初めに言葉ありき・・・(ヨハネ福音書)
特に中世初期において、文字がイメージを補完したり強化したりする目的で美術に取り込まれている例が多い。時には文字自体が華麗にデザインされ、象徴性を高め、アートになっている。

6 記憶と美術
中世においては、重要な事柄をきちんと記憶させるために、適齢の子供に必要な教育体験をさせた上、川の中に投げ込んだと言う。このような一見乱暴なやりかたは、最新の研究でもその効果が裏付けられている。強烈なストレスはアドレナリンなどのホルモンを放出させ、扁桃帯が活性化して、強固な記憶を作り出すのだそうです。

トマス・アクィナスは、教会に美術つまり画像を置く理由として3つを指摘している。
①読み書きの出来ない人々の教育のため。書物によるのと同様に画像によって教育される。②人々の目に日常的に示されることにより、奇跡や聖人の範例が記憶によりよく刻み込まれる。③信仰の感情をより強く刺激する。

中世の時祷書等の書物には、記憶の表象や定着のために、文字の形や色、位置や並び方、絵の挿入、羊皮紙の彩色などに、あらゆる工夫が凝らされ、結果として美術的価値が高いものになっている。

記憶とは、コンピュータのハード・ディスクに仕舞い込むような、単なるデータではない。記憶はその都度作り出されるもので、想像的、もっと言えば創造的構築なのだ。
(この講座ではこんなところまで踏み込むんでしまう・・・)

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2006年7月 8日 (土)

永遠の[あこがれの地」

スペイン旅行から帰って、約50日。余韻に浸る時期は過ぎ去ったかに思えるこの頃だけれど、まだ次の旅行先をどうするかまでは考える気持ちにはなれない。それでも、何人かの人から「次は?」と問われるし、年2回ぐらい行くとすればそろそろ予備検討ぐらいは始めるべきかもしれない。
これまでに利用した旅行社からは抜かりなく誘いのパンフレットが来るので、検討材料には事欠かない。その中に、とても興味を引かれるツアーがあった。「緑の魔境ギアナ高地」「ダーウィンの島ガラパゴス周遊」がそれである。この二つは、私にとって思い入れの強い場所である。秘境中の秘境だから自分が行くなんてことは永らく考えもしなかったが、今や、一般人を対象とした観光ツアーに組まれ、誰でも行けるようになったと言う事に驚きを禁じ得ません。

ギアナ高地は南米北東部の熱帯雨林の中に忽然と聳えるテーブル状の高地で、1000m以上の絶壁で隔絶された別世界です。コナン・ドイルはこの地から「失われた世界」を発想したとされる。子供の頃、いわゆる「魔境」物をワクワクしながら読んだが、そんな雰囲気の場所に違いないとずっと思っていた。それに、この高地の部分は古い古いゴンドワナ大陸塊の端くれであり、古生代、中生代の地層で出来ている。そんなこんなで、私の価値体系からするとロマンチシズムに溢れた土地なのです。
最近、テレビでも放映されたが、この高地から流れ落ちるアンヘル(エンジェル)滝は落差が979mと、東京タワーの3倍もあり、これを見るのがツアー目的の最重点になっているようだ。この滝を間近に見るためには、ベース地点から、船外エンジン付きボートで3時間急流を遡り、さらに密林の中を2時間歩いて登らねばならないとのことである。

一方、ガラパゴス諸島は言わずと知れた、ダーウインが進化論を思いつく端緒となった島です。南米エクアドルの海岸から1000Km離れた赤道直下の太平洋に浮かんでいる。
私は、生物進化論が大好きで若い頃からいろいろな本を読んで来たこともあり、その原点となった、ガラパゴスに興味を持たざるを得ない。
10年ほど前に、Jonathan Weiner「フインチの嘴(くちばし)」と言う本が出ました。ピューリツァ賞を受賞した名著です。Weiner夫妻が20年にわたり、ガラパゴス諸島のひとつDaphine Majorに住み着いて、ダーウインが見出したフィンチの変異を実地に検証した物語です。興味深いのは、厳しい気候変動が他所に行くことも出来ないフィンチ達に強い淘汰圧力となって、現在も「進化」が進行している事を詳しいデータで報告していることです。
従来、生物は確かに進化したが、それは過去のことで、現在進行形で見ることは不可能とされていたのです。この本には、ガラパゴス諸島の生物たちの挿絵がたくさん入っているけれど、それは全てWeiner夫人が描いたもので、夫婦の絆の強さを感じさせられ、この本の価値を更に高めているように思いました。
ツアーは豪華客船3連泊+サンタクルス島1泊となっている。私は、船酔いする方だからちょっと二の足を踏む感じ。

あきれたことに、この2箇所をいっぺんに周るツアーが販売されている。もし、私が行くとしてもそんなもったいないことはしないだろう。
さて、どうしたものか?誰でも行けるということは、もはや秘境ではないのか?
これまで心の裡に積み上げてきた私なりの秘境のイメージは壊したくないしなあ・・・
さすれば永遠に「あこがれの地」としておくか。

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2006年7月 4日 (火)

ラブちゃんのお腹

ウォータンのお友達に1歳になったばかりのラブがいる。この2匹は会うと必ず、「組んずほぐれつ」の大乱闘、大騒ぎをやるのです。ところが、週末に久しぶりに会ったら、いやにおとなしい。「ようやく大人になってきたね」と、連れていたお母さんに声をかけると、「この子、お腹にボールを持っているんですよ。」との応え。詳しくは分からないが、公園で子供たちとボール2個を使って遊んでいて、誤って(故意に?)飲み込んでしまったと言う。テニスボールよりちょっと小さめで、柔らかいプラスチックか何かで出来ているものらしい。消化できそうにもないものだから問題なのです。
こういう場合、吐かして上から出せれば最高ですが、腸の方に行ってしまうと腸閉塞を起こしてしまうので、開腹手術ということになる。
このラブちゃんがかかっている獣医は良心的だということで繁盛しているところだけれど、今のところ(3日目)芋をたくさん食べさして様子を見ているという。下から出させようという作戦か?それともほんとに様子を見ている段階か?そんな悠長なことでいいのだろうか?もっとも即、開腹手術というのも可哀想だし。

我が家の前代コーギー「バスター」もやりましたよ。中学生だった息子がプラスチック・バー付きのアイスクリームをケージの柵の間から舐めさせていたところ、バーごと引っ張り込んで、あっという間に飲み込んでしまった。夜10時だったけれど、これは大変と、夜もやっている動物病院へ電話して1時間かけて連れて行きました。当直の獣医師が粘り強くあの手この手を使って吐かせようとしましたが、2時間過ぎてもだめ。真夜中だし、「今晩はとりあえず帰宅して、お昼頃までに出なければ、開腹します」と言われました。覚悟を決めて帰宅途中、車に揺られた所為もあると思いますが、突如もの凄く苦しそうに吐き出しました。その瞬間の、得も言われぬ安堵感!

犬というのは奇妙というか、むしろ本能と言うべきかと思いますが、一旦何かをくわえると、取ろうとすればするほど、逃げ回ります。そして交換という手段が効かない。おやつを見せてもダメ。いやむしろその方が問題なのです。もしくわえているものが小さいものであると、おやつも欲しいから、下に置いたりはせずに飲み込んでしまう可能性が非常に大きい。
ウォータンは訓練しているから、ボールなど食べ物以外だったら大概は、「出せ」と言えば出すけれど、非常に関心を持った物の場合はやはりダメな場合があります。
対処方法は「無視」のみ。そのうち関心が他に移るのを心配しつつ待つわけです。

その後、ラブちゃんと会っていないのでどうなったか分からない。可哀想!

Photo_47引張りっこが大好き
これくらい大きければ全く問題ない

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2006年6月30日 (金)

散歩は楽しい・・・匂いの世界はサイケデリック

たまにはウォータンのことを書こう。
今日(6月30日)で1歳と10ヶ月。人間で言えば立派な成人になった。生活のルールもほぼ100%飲み込んでいる。ただし、時折は失敗やズルをすることがある。

食べ物はほぼ100%犬用に造られたものしかやらない。唯一例外は、朝、私の食事の時にブルガリア・ヨーグルトを大匙にひとすくいもらえる。これは整腸剤としての効果も考えてのことで、ブリーダーからの引継ぎ事項でもあるのです。したがって乳離れした頃からずっと食べていることになる。(なお、犬には牛乳はやらない方が良い。全く消化酵素を持たないのだそうだ)
しかしながら、敵もさる者、散歩中に拾い食いするのだ。実にいろんなものが落ちている。ルート上に変わった物があるとすかさず鼻面をくっつけて食べれるかどうか確認して、OKであればあっという間に食べてしまう。遭遇してからリードを引いても間に合わないから、ヘンな物には近づけないように気をつけるしか方策は無いのです。小さい時は何であれ口に入れてしまうけれど、今では食べ物かどうかは即分かるらしく、たとえ食べても問題は無いので、半分諦めの境地です。コーギーは足が短く、顔が常に地面に着く状態になっていることでもあるし。捨てる人間の方が悪いのだ。
ウォータン「街には美味しそうな、面白そうな匂いが満ち満ちている。うむ・・・これは弁当の容器・・・これはガム・・・この何かが腐ったような匂いが堪らなく魅力的・・・雌犬の匂いがするぞ・・・」
犬の嗅覚は人間の百万倍から1億倍だと言う。だから犬にとって匂いの世界は、きっと極彩色のサイケデリックな世界なんだろう。大分前のことだが、香道の体験会で香木の嗅ぎ分けがとても難しかったことを思い出す。匂いに精神を集中させるという訓練がまるで出来ていないのだから。

ウォータンとの散歩は私にとってもとても楽しい。いろんな人と挨拶し、ちょっとした会話をするようになった。朝の散歩では、70代の脚の悪いおばあちゃんが決まったポイントで必ず待ち受けている。ウォータンは彼女を見つけると、耳を後ろにぴったりと付けていそいそと寄って行き、しばし撫でてもらう。ウォータンを可愛がってもらうと悪い気がしないから、公務員でそこそこまで行った彼女の昔話を聞いたり、サッカーの話をしてやったり。
朝は随分ジョギングをしている人が多い。みんな馴染みになってしまった。
朝と夕方ではルートを全く変えているから、会う人も異なる。夕方は3Km、50分の目安で歩いているが、1時間以上になることもしばしば。途中で犬同士で遊ばせたりするからだ。
ウォータン「僕は断然飼い主の方が好きだ。可愛い可愛い!と言って撫でてくれるもの。犬の方はこちらが低姿勢で行っても、突然、吠え付いて来るからな。」

さて、今日は遅くなるほど雨の確率が高い。早めに散歩に出るとしようか。

Photo_45 散歩から帰ると足を洗う。(雨上がりはお腹が泥だらけ)
冷たくて気持ちがよいらしく、自分で入る。
ここからはタオルにくるんで抱きかかえて室内へ。



Photo_46 夜10時。ジャズを聴きながら。

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2006年6月27日 (火)

パイオニアの旗艦モデル・スピーカー試聴会に参加

日曜日に大須アメ横にて開催されたパイオニアのスピーカーの試聴会に行ってみた。ここの2階にあるオーディオ店でスピーカーとアンプを買って以来、試聴会の案内をよくもらうようになったが、実際に参加したのは始めてです。
4階の特設会場に行くと、パイオニア社員が4名居て、椅子席が10数席用意されていました。前面には、同社の旗艦モデル・スピーカーS-1EXとその簡易型S-2EXがセットされている。
S-1EXはトールボーイ型のかなり大きなモデルである。エンクロージャーが一風変わっていて、上部ほど後ろに下がる斜めに傾斜したスタイルである。しかもスピーカーが並ぶ前面は三日月に顔のようにきれいなカーブを描いている。これにより、スピーカー筐体の重心が内よりとなり安定度が格段に良くなって、振動特性に好影響を及ぼしているとのことであった。カーブになっているのは、リスナーまでの距離を考えてのことだというのだが、多分にデザイン面だろうと思った。つや消しの真っ黒な色彩は異様な感じも受けるが、このデザインに合っているかも知れない。デザインはフランス人に担当させたとのこと。

試聴会の内容は、スピーカーの技術的説明、各種音源の試聴、質疑応答、併せて90分。ここではあまり技術的なことには立ち入らないようにしよう。
私としては、どんな音楽を聞かせてくれるのか、むしろ、そちらの方に興味があった。

女性ヴォーカルは、ジェニファー・ウォーンズ 男性ヴォーカルは不明
クラシックは、パガニーニのヴァイオリン協奏曲、ストラビンスキーの曲、室内楽
ジャズはアートペッパー。
フュージョンでは、チャーリー・ヘイデン(ベース)&パット・メセニー(ギター)

試聴会だからぶつ切りに聴くのだけれど、結構楽しめました。ジェニファー・ウォーンズは後で知ったのだけれど、この種の試聴会で良く使われるのだそうだ。とてもよい声だから1枚持っていてもいいなと思った次第。
何よりも気分が良かったのはパットメセニーが採用されていること。私が大好きなアーティストで昨年の来日公演にも行ってきたほど。これなら私のシステムとの聴き比べが出来ます。
試聴の印象。さすがに圧倒的なエネルギーを感じます。音質の点では非常に素直、逆に言えば全く個性を感じなかった。パイオニア側からの説明でも、どんな音源でも素直に再現するよう余分な加工は完全に排除しているので、JBLのジャズ向き、タンノイのクラシック向といった偏りはないとのことだった。
また、音の定位というか音像のクリアさは抜群の筈だとの説明があった。それにはパイオニアのフェーズコントロール技術が効いているという。今後のマルチチャンネル再生に威力を発揮するというのだが。(ここで、メーカーとしてはマルチより、先ず2チャンネル再生の技術を熟成させることが先決だ、と言う意味のコメントあり)
高級スピーカーは外国製が強く、各国でその国の好みに応じた音作りが為されているが、パイオニアとしては特に手を加えずこのまま世界に出したいとのことであった。それだけ自信があるのでしょう。なお、国内では評判がよく、売れているらしい。(S-1EXは1セット100万円)
試聴者は7~8名だったが、その内二人はかなりのマニアで、、専門的な質問も多数あった。どの世界にも達人的な人が居るものだと、いつも感心するのですが、メーカーもこういう人達の存在があるからやる気が起こるのでしょう。今では日本で本気に高級スピーカーを造っているところがほとんど無くなって来たから、頑張ってくださいよ、パイオニア殿!

S1ex_1
パイオニアのS-1EX
詳細仕様はパイオニアホームページ参照
大きさのみ表示すると
422(W)×1283(H)×609mm(D)  66.0Kg(1台)

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2006年6月23日 (金)

究極の交響曲

私は音楽ファンだと思っています。音楽通でもないし、音楽マニアでもない。その時々で聴きたいと思った音楽を、ジャンルを問わず気ままに聴いている。クラシックに関しては、若い頃は義務のようにあれもこれも聴いていた。決して楽しいとは感じなかった。そのうち、ジャズやロックの方に関心が移ってしまい、クラシックにはあまり熱心でなくなってしまった。そんな中でもずっと聞き続けているのが、ブルックナーの交響曲です。

ブルックナーに最初に出会ったのは、20年ぐらい前だったろうか。会社の同僚Tさんの家にレコードを聴きに行った時、帰りにお土産にもらったのがブルックナーの交響曲5番でした。彼は筋金入りのクラシック通で、ライブラリにはほとんど無いものが無いくらいでしたが、全く同じレコードを2枚買ってしまったとのことで私にくれたのです。
彼もあまり聴かない盤だったらしく、特にコメントも無く、私も1回聴いただけで、お蔵入りにしてしまっていました。ブルックナーの交響曲と言えば、当時は(今も?)4番が最もポピュラーで、ほとんどこれしか聴いたことがなかった。
その後、ブルックナーに注目するようになったのは、音楽評論家で自分でも指揮を執る宇野功芳氏のブルックナー交響曲の奨めを読んでからです。1~9番まで宇野氏の解説を念頭に繰り返し聞きました。彼が言うようにブルックナーの緩徐楽章はたとえようも無い魅力に溢れていると感じました。それ以来虜になってしまったのです。

もうひとつ関わりがあるのはワーグナーです。「ニーベルンゲンの指輪」全編ををNHKで放送した時に見て、それ以来、ワーグナーのファンになってしまった。そして、ワーグナーの近代的和声法と管弦楽法を踏襲しているのがブルックナーなのです。
交響曲3番はワーグナーに捧げられたから通称「ワーグナー」だし、7番はワーグナーへのレクェームとして作曲されています。そういう理由もあるが、私はこの2曲を特に愛します。とりわけ7番が好きで、今でも繰り返し聴きます。聴き慣れたせいか宇野氏推薦のマタチッチの盤が良く、私のCDコレクションの最も大切な1枚となった。

ブルックナーを知るきっかけとなった5番は宇野氏によると、最も初心者にはとっつきにくいが、聴きこんだ人には無上の感動を与えてくれると言う。私はそこまでは行っていない、というか好みの問題だと自分では思っている。たまたま一昨年の10月に「パリ10日間」というツアーに参加した際、時間があったので、一人でパリ管弦楽団の演奏会に出かけた。このときの演奏曲目がブルックナーの交響曲5番であった。ラジオ放送のための収録も合わせてやっていたせいもあり、緊張感のあるよい演奏でした。そして7番の生演奏をいずれ聴きたいものだとの思いが募ってきたのでした。

ところで、前にとり上げた石原俊氏の「オーディオ粋道入門」を読んで、驚いたというか納得したことがあります。交響楽団の究極の目的はブルックナーの交響曲を演奏することだ、とNHK交響楽団の茂木氏がエッセーで書いており、石原氏もオーディオ装置の究極の目標はブルックナーの交響曲を鳴らすことだと宣言しておられるのです。
何故、ベートーベンでもマーラーでもないのか?いろいろな要素をあげられていますが、オーディオの観点から次のように集約されています。
①交響曲として理論的にキッチリと出来ていながら構造が複雑でオーディオ装置に対して高い解像度を求める。②最強音から最弱音までの幅が広いからオーディオ装置に広大なダイナミックレンジを求める。③演奏時間が長く、それでいてサウンドが渋いから、長時間にわたって聴き続けても飽きないサウンドをオーディオ装置に求める。④ブルックナーの交響曲は宗教曲のような純粋さを持つから、上手く鳴らすためにはオーディオ装置のテクニックもさりながら、オーナーのメンタルな部分が大切である。
最後の④がとても面白い。ここまで行けば正に「粋(イキ)」のレベルですね。

Photo_43
マタチッチの遺産3
ブルックナー交響曲第7番
ロブロ・フォン・マタチッチ指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

Photo_44
パリ管弦楽団定期演奏会プログラム
2004/10/6  モガドール劇場
ブルックナー交響曲第5番
指揮 Marek Janowski

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2006年6月20日 (火)

西洋中世美術史入門講座を受けて(その2)

先週末、朝日カルチャーセンターの講座「西洋中世美術史入門」の第2回があった。今回は「人間と空間」という観点から、中世美術の特徴を理解しようという試みでありました。講義の要点をまとめると次のようです。

1.中世では美術はどんな場所に置かれていたか?
現代では美術は美術館やギャラリー、公共の空間に置かれるのが普通だが、中世では「教会堂」「修道院」「宮廷」「個人の邸宅」に置かれた。そして大事なことは、個々の美術毎に置かれる場所が決まっていて、そこではっきりとした役割を果たすことが求められていた。

2.巡礼
人間の美術との関わり方はとても幅広い。美術を見るために遠くへ出かけて行くという関わり方―巡礼もあった。巡礼は古代から現代まで宗教や地域の違いを超えて普遍的に行なわれている。西洋中世でも盛んで、最も有名なものは「サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼」である。これは、9世紀にスペイン北西部のこの地で聖ヤコブの遺骸が発見されたことに端を発する。当時の巡礼者数は毎年20~50万人。3~4ヶ月の旅であった。目的地のサンチャゴ・デ・コンポステラの聖堂はもちろん、出発地点の一つに定められたヴェズレー(フランス)のラ・マドレーヌ聖堂も素晴らしい美術で飾られている。さらに聖遺物(前回報告参照)も素晴らしい美術に包まれているし、面白いことに巡礼のお土産として銀製のバッジや金属製のホタテ貝が大量に作られたりした。

3.世界と宇宙、天国と地獄
中世ではこれらがどのように捉えられていたか?世界というか宇宙というか、を現わす地図のような絵がいろいろ残されている。大概、創造主による天地創造と一体になっている。地図の場合、中心はエルサレム。
天国と地獄に関しては、教会のタンパンの彫刻に描かれている例や、マンテーニャの地獄は地上の何処かにあり、見つけることができるという信念に基づいた絵などが紹介された。

4.中心と周縁
これは面白い視点であった。マイケル・カミール著「周縁のイメージ―中世美術の境界領域」という本がベースになっているようです。
・中心を置くことで(明確にすることで)生じる周縁部や余白の存在
・逆に周縁があることで、中心は中心となって行くとも言える
・中心部は、それ自体を存続させるために周縁部に依存していたとも言える
このようなことから、
・「ひとつの全体」の中で美術を見たり、考えたりする必要がある
・対概念では捉えられない、中心と周縁の密接な関係に目を向けるべき
講義では、実例として教会内部の祭壇のある部分の写真がスライドで示されます。漠然と見ると、壁の精緻な絵や彫刻に目が行ってしまうが、中心はあくまでも祭壇なのである。当時の人にとって祭壇はとてつもなく大切なもので、この「空間」の中で祭壇を(その重みに相応しい)中心たらしめるために、周縁の飾りは存在するのです。(こういう理解でよかったかなあ?)

5.中世の「芸術家」
中世の芸術家が無名であったというのは、一種の神話に過ぎない。多くの芸術家の名が知られているとのことです。ただし、芸術家とその注文主(パトロン)では後者がうんと重んじられた。作品における署名が一般化するのは19世紀で、中世の作品では少ない。「・・・が制作」「・・・が完成」との文字も時々見られるが、注文主なのか、芸術家なのか不明な場合が多い。

6.石工と彫刻家
現代では「彫刻家」は芸術家を意味し、石工とははっきり区分するが、中世においては全てが石工であっった。石を切り出す人と、それから意味ある形を彫り出す人が一緒に働いている絵が沢山残っている。しかし、能力についてはキチンと評価されていたようで、高い技術には高い賃金で報われていた。
ミケランジェロが彫刻家になりたいと言明した時、彼の父は石工になることは絶対に許さないと、拒否したそうです。

当日の講義では、多数のスライドで実例が紹介され、講師の深い知識や洞察力に基づく興味ある説明がありました。この辺りが当講座の真骨頂です。
ところで、今回のスライドの中に何枚ものタンパンの浮き彫りが紹介され印象に残りました。タンパンとは中世建築において、出入り口のアーチの上部に横に渡した梁との間に出来る半円形の小壁部分を言い、特にフランスの聖