カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2015年5月20日 (水)

「オフ・ザ・マップ 世界の隔絶された場所」...人に本来備わる〝場所愛〝に気づくために

新装オープンなった丸善名古屋店に行ったところ、店頭の一番目立つところに「オン・ザ・マップ 地図と人類の物語」が平積みされていた。如何にも優等生的な本。買おうか迷う。
その少し横を見ると、ひっそりと?「オフ・ザ・マップ 世界から隔絶された場所」がおいてあった。オンとオフ...意図的なものを感じる。うーむ!
天邪鬼ですね。明らかにマイナー的気配の「オフ・・・」の方を買ったのでした。

この本の内容は?
原題はunruly places。つまり、世界の常軌を逸した場所を紹介する本だ。しかし、何のために?読者の関心を得るために?

著者の前書きによると、人間の〝場所愛〟を満たすためにこの本を書いたと、述べている。
場所愛...私には聞きなれない言葉。しかし、強く引き付けられる言葉。
著者ボネットは言う。人間には生物を愛する心が生まれつき備わっている。同時に自分にとって特別な意味のある場所を本能的に愛する性質を持っていると言う。

素晴らしい眺望は誰もが愛するでしょう。自分の住処は?故郷は?行ったことがなくても憧れの地というのもある。
しかし、こういった意味ある場所が、いろんな事情で意味のないものに変わっていく。気象変動などの自然の変動、開発などの人間の活動によって。
そして人々の〝場所愛〟という感情がどんどん希薄になっている。
人々が〝場所愛〟という感情にもう一度気づくためにはどうすればよいか?
幸せいっぱいの場所を覗いてみてもダメだと著者は言う。場所について知っていることの再考を迫るような、そんな場所、言ってみれば、読者を苛立たせ、混乱させる力を持つ場所を示そう。

以上、著者の意図を前書きなどから、大胆にまとめてみた。
私は、本文で紹介している内容もさりながら、この著者の意図、〝場所愛〟についての指摘がとても重要で、この本の真髄だろうと思うのです。

☆    ☆    ☆

さりながら、本文についても少しだけ触れておきたい。
いろんな常軌を逸した場所が紹介されているが、私の個人的なかつて好きであった場所(広い意味で私の場所愛の対象の一つ)を取り上げてみた。

「失われた場所」の1節の「アラルカン砂漠」
何処のこと?読み始めると、あの「アラル海」のことだった。
ユーラシア大陸の地図を拡げると、巨大な内海が三つ。西から黒海、カスピ海、そしてアラル海。
シルクロード沿いと言うこともあり、一度は訪れたいと思っていた。黒海はトルコ旅行で、カスピ海はイラン旅行で一応覗いてきた。残りはアラル海と思って過ごしてきた。
ずいぶん、昔から、アラル海の縮小が問題になっていたことは知っていた。
原因はアラル海の水源であるアムダリアとシムダリアの二つの大河の水を灌漑用にバイパスしてしまったことによる。
港が干上がって、水辺ははるか遠くに。陸に取り残された廃船を見るツアーもあった。
それでも、アラル海は、小さいながらもずっと「海」であり続けた...と思っていたら、この本でびっくり!
...アラル「カン」...カン=砂。要するに海がとうとう砂漠になってしまったのだ。
最近はこの呼び方も良く使われていて、地図もアラルカン砂漠に書き換えられる運命にある。
なお、この記事によると、元のアラル海の北部、ほんの一部をダムで堰き止めるなどして、小アラル海と称しているらしい。
ただ、この地区の住民は、いずれかの日に大アラル海がよみがえるとの希望を捨てていない。それというのも、何千年と言う地質学的タイムスケールで見れば、アラル海は何回も消えては復活したという痕跡が残っているからだ。
住民にとって「場所愛」はかろうじてつなぎとめられていると言うことか?

Photo
「オフ・ザ・マップ 世界から隔絶された場所」
アラステア・ボネット著 2015/3 イーストプレス







Photo_2アラル海位置図
(矢印で示す)
我が家の地図(1997年発行)





Photo_35Photo_42アラル海の水源だったアムダリア川を渡る(2010/5)
トルクメニスタンとウズベキスタンの国境
この水量!しかし、灌漑などでどんどん吸い取られ、最後は砂漠に消える。
アラル海には到達していないのです。(シルクロード旅行記参照
                                         

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2012年3月17日 (土)

ちょっと変わったタイトルに惹かれる...「右利きのヘビ」「アナロゴ山を濡らす」!?

ちょっと変わったタイトルに惹かれて買った本とCDの話題。
性格がミーハーなのか、タイトルだけ見て衝動買いする悪癖がある。結果、なんじゃこれ、ということも多いのだが、時折、へぇーと、儲かったような気がすることもあります。

【1】「右利きのヘビ仮説 細 将貴著 東海大学出版会  2012/2」

 グールドやドーキンスの大フアンだったが、この両巨匠も老いて(グールドは故人となった)、しばらく進化論関係の本を読んでいなかった。しばらくぶりで本屋の進化論のコーナーを見ると、妙なタイトルのこの本があった...つい、購入してしまう。

何を持って「右利」きというのか?
問題のヘビは蝸牛ばかりを食べる〝イワサキセダカヘビ〟。蝸牛(ニッポン・マイマイ)というのは基本的には右巻きの殻を持つものらしい。突然変異で左巻きのものが出来たとしても、交尾が出来ないから子孫を残せないのだそうだ。
ところが、このヘビが棲む西表島と石垣島には左巻きの蝸牛が存在することが分かっていた。何故か?
ここで、著者は「右利きの捕食者(ヘビ)」が居るのではないか、と言う仮説を立てる。「右利き」の意味は、右巻きの蝸牛は食べるが、左巻きの蝸牛は食べない(食べることが出来ない)ということで、このような偏った捕食者が居るために、生殖に不利な左巻き蝸牛が数が少なくても残り得たと言うのだ。

この仮説を立証すべく行った、フィールド・ワークの詳細がこの本で語られている。
たくさんのセダカヘビを苦労しながら集めて、調査の結果、歯列が左右で異なることを突き止め、実際に右巻きと左巻きの蝸牛を食べさせてどんな行動をとるか観察する...悪戦苦闘の日々...その語り口が実に魅力的なのだ。学術的色彩の濃い内容なのだがエンターテイメントのごとくワクワクしながら一気に読んだ。
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【2】「アナロゴ山を濡らす R・ロヴィゾーニ&F・メッシーナ/Italy 1979」

 イタリアン・プログレッシブ・ロックの探索は依然、続けているが、去年、6枚組のセットを購入した中に、フランチェスコ・メッシーナというアーティストのCDがあった。Medio Occidente と言うアルバムで、これがいたく気に入った。そこで、F.メッシーナの音楽をもっと聴いてみたいと思い、アマゾンで検索してみると、ただ一枚、このタイトルのCDが出てきた。〝アナロゴ山を濡らす〟...なんとなく妙な感覚のタイトルに、どうかと思ったが、購入してみた。
聴いてみて驚く。まず、冒頭に「ツーーー」と長く続く無機質な音が入り、その後二分間の沈黙。そしてそこから、遙か遠くに、懐かしさを感じさせるムーグの音が低レベルで流れ、そして、ピアノがポロン、ポロロロンと、分散和音で雨が落ちる音を模したように響かせる。このピアノのポロン、ポロロロンが高く低く、また微妙な変化をしながら二十分ほど続く。背後に静かに流れる単音のムーグとの絡み合いがとても気持ちがよい。
メッシーナは実験音楽を指向しているアーティストだという情報もあるが、この「アナロゴ山を濡らす」は〝環境音楽〟のジャンルに属すだろう。前述の「Medio Occidente」とは、毛色がかなり異なるので、若干面食らったが、いずれも音楽(音響?)そのものは分かりやすく、親しみやすい、と言うのが私の印象です。
ところで、この「アナロゴ山」と言うのは、どんな山で、何処に存在するのだろうか?気になって仕方がない!
Photo_3 Raul Lovisoni/Francesco Messina 〝Prati bagnati del monte Analogo(1979)〟
二人の共作アルバムだが、タイトル曲はメッシーナ作
日本語訳「アナロゴ山を濡らす」は、もっと工夫があっても良かった?



Photo_4Francesco Messina 〝Medio Occidente(1983)〟






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2010年1月20日 (水)

〝右か、左か(沢木耕太郎編)〟を読む...横尾忠則のY字路を連想した

〝右か、左か(沢木耕太郎編/文春文庫)〟は、日本文学の中から、人生に訪れる「選択」をテーマにした13編を選んだものだ。
この本を見つけた時、インパクトのあるタイトルにいたく惹きつけられたし、さらに編者が沢木耕太郎と来れば、これは多分間違いなく面白いだろうと思った。
そして期待は裏切られなかった。本のカバーには、〝芥川龍之介、山本周五郎から小川洋子、村上春樹まで〟と紹介されているが、驚くのは江戸川乱歩や、果ては阿佐田哲也まで入っている。

阿佐田哲也は言わずと知れた色川武大の麻雀小説作家名義で、昔読んだことがあったので懐かしかった。ここでの作品では、「博打打ちは何故大金を賭けるか?生命に匹敵するような重いもの掛けるから真剣になれる」と言ったばかりに、とんでもないものを賭けることになる物語。

劈頭を飾る小川洋子の作品も面白かった。ウィーンへのツアー旅行で同室となったお婆さんに親切心を出したばかりに、自分の観光も出来ずにずっと付き合うことになってしまう物語だ。爽やかな気分で読んで行くと、ラストで大きな衝撃を受ける。

山本周五郎もとても良かった。「その木戸を通って」というタイトル自体が、〝右か、左か〟の分岐点を暗示しているように思える。「時代小説であるにもかかわらず、ほとんど現代小説の雰囲気を持つ」と、解説されている。

あまり紹介してしまうと、これから読む人に悪いのでこれくらいにしておこう。
分岐点で右か左か、思い迷う。そして思い迷った末にどちらかを選んだ結果はどうか?
自分自身の人生でも幾つかの分岐点があったことを思い起こしますね。あの時、ああしていたら??

★    ★    ★

ところで、この本を読みながら、横尾忠則の〝Y字路〟を連想してしまった。
横尾がその長い芸術活動の末に到達した〝Y字路〟...それは、そこに立つ者に、正に〝右か、左か〟を確実に問いかける...横尾の思いは、そんな単純なものではなかろうが、〝Y字路〟の持つこの基本的な特性がベースにあることは間違いない。
考えてみると、分岐点と言うなら、〝T字路〟もある訳だが、T字路はそこまで行って右や左を覗かねば先が見通せない。これに対して、Y字路はそこに近づきつつ、ずっと前から右も、左もある程度見えるのだ。前もって見えるが故に、なおさらどっちへ行こうか迷うことになる。

私も、真似をして〝Y字路〟の写真を撮ってみようかと思った。
ところが、名古屋市内の道路は基本的に碁盤目だから、完全なるY字路はほとんど無いのだ。それでも、どこかで見たはずだと、思い起こして、とりあえずそれらしき2カ所を撮ってみました。
それが次の写真ですが、やってみてこれは結構面白そうだ、と思ったことでした。二つの道路の先に何が見えるか、二つの道路の間にどんな建物があるかで、雰囲気がまるで変わるし、意外と風景写真の題材になりそうだと思った。
もう少し、調査して、本格的でかつ面白いY字路を探し出してみようと思ったことでした。

Y東区東桜一丁目




Y_2名駅近くの泥江町交差点

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2008年3月16日 (日)

猿がコンピュータをたたく時...

猿がタイプライターをでたらめに打ち続けると、無限に時間があれば、いずれは「ハムレット」の全文を作り出すだろう...ランダムな振る舞いから秩序が生まれてくるプロセスとして、理屈上はありうるわけだが、実際にはとても待っておれない。
一方、猿がタイプライターではなくコンピュータをたたくとどうなるだろうか。コンピュータに対して、入力データはプログラミング言語だと知らせておくと、そのうちにプログラム言語的に意味を持った文字列が猿によってたたかれるだろう。それらをコンピュータが実行すると、大抵はエラーメッセージが発せられるだけだが、中には意味のある出力をするものもあるはずだ。例えば偶然、円周率の全ての数字を印字したりするかもしれない。
ひょっとしたら、宇宙自体がコンピュータであって、自分自身でランダムにプラグラムを造って実行しているうちに、このような宇宙構造が出来たかも知れない...そういう説が1960年頃から提示されているのだという。
しかし、ただのデジタルコンピュータでは〝とても〟という感じだ。

「宇宙をプラグラムする宇宙/セス・ロイド著 早川書房」という本がある。本書では、宇宙はただのデジタル・コンピュータではなく〝量子コンピュータ〟だと考える。
宇宙はつきつめれば、分子、原子、素粒子から出来ていて、それらがそれぞれ自身の状態についての情報を持っている。だから宇宙は、〝ビット〟で出来ていると言い換えることができる。これらの宇宙の構成要素は量子力学の法則に従って振る舞い、相互に作用する。そしてそれらが持つ〝ビット〟が変化する...すなわち情報処理が行われる。
したがって、宇宙そのものが大きな〝量子コンピュータ〟であり、絶え間なく計算を行っている。
宇宙は何を計算しているのか?自分自身の振る舞いを計算しているのだ。計算して実行した結果、このような複雑な宇宙が出来たのだ。もちろん生物の発生も含めて。

ところで、物質を量子レベルで眺めると、その振る舞いはとても奇妙なものになる。いわゆる量子力学の法則によって。波動が粒子のように振る舞い、粒子が波動のように振る舞う。そして、物体は同時に二カ所に存在しうるのだ。
量子コンピュータでは〝量子の奇妙さ〟を利用して、古典コンピュータでは複雑すぎて実行できない作業もたやすく効率的に行える。量子ビット(〝キュビット〟と呼ぶらしい)は、0と1の両方を同時に記録できるので、量子コンピュータは何百万通りもの計算を同時に実行出来るのだという。

この宇宙の量子コンピュータのキーをたたく〝猿〟は何処にいるのか?
それは量子力学の法則のひとつである〝量子ゆらぎ〟だと言う。どこにでもあるランダムな〝ゆらぎ〟によって絶えず宇宙に新しい情報がもたらされるのだ。(例えば、初期宇宙では物質の平均密度は何処でも同じだったが、量子力学の法則がランダムな揺らぎを添え、銀河の凝集を可能にした)

猿がランダムにプログラムを作っていくとして、当然ながら短くてもアルゴリズムとして成立するプログラムの方が、長いプログラムより多く現れてくるだろう。
例えば、規則的な幾何学的形状、フラクタルパターン、量子力学の法則、素粒子、化学の法則など、数多くの複雑な数学的パターンは、短いコンピュータ・プログラムによって生成されてしまう。すなわち、アルゴリズム成立確率の高い事柄というのは、規則性、構造、秩序を多く示すものに他ならず、猿は次々と宇宙造りに必要なプログラムを生み出すのだ。

宇宙(我々の住む世界)は何故こんなに複雑なのか?
量子の世界はいくつもの不思議な性質を帯びていて、それらがこの宇宙の計算に複雑さをもたらす。量子から構成される世界では、複雑さが生まれるのは論理的必然である、と言ってしまえば簡単なのだが、セス・ロイドは複雑性とは何かから始めて、詳細に論じている。
しかしながら、これくらいにしておこう。とても私の頭ではついて行けないから。

以上は、セス・ロイドの本を飛ばし読みして興味のあるところを拾い出したものです。かなり危ういところもあるので、興味のある方は本書をじっくり読んでください。
宇宙&コンピューター好きには、とても刺激的な本だと思います。
なお、著者はMIT教授で、かつ複雑系研究のメッカ、〝サンタフェ研究所〟の兼任教授。

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東山動植物園にて


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グリーンピア春日井にて

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2007年7月11日 (水)

「重力のデザイン」という一見重そうな本

「重力のデザイン(鈴木一誌著 青土社 2,007/2)」という本がある。重そうな内容を想像してしまうが、気になるタイトルでもある。躊躇したが、「本から写真へ」という言葉が副題として添えられているので読んでみる気になった。新刊として出た直後に購入し、ざっと眼を通して、そのままになっていた。丁寧に読むには少しばかり努力が要るが、内容は素晴らしい本だと感じていた。
暫らく振りでこの本のことを思い出し、amazon.comでこの本の読者レビューを見てみようとチェックしてみたが、いまだに誰も記入していなかった。売り上げ順位も今日現在、106,000位で、あまり売れていない。いわゆるロング・テール現象のテール(尻尾)の方に位置すると思われる。
そこで、何がしかの情報をここに書くことは意義があるかもしれない、と思った次第。

著者の鈴木一誌氏はグラフィック・デザイナーで、特にブック・デザインの仕事をメインにしているが、映画評論なども手がける。

この本の趣旨は、前書きに鮮明に表現されている。長くなるが一部を引用してみよう。

【写真に撮られた道は、形だけとれば不定形な矩形や三角形でしかなく、
そこに遠近感を付与するのは視覚世界の了解事項でしかない。
私の写真にも、了解された道は写っているが、往来や通行の重量を受けとめ、それでもなお今は空洞であるとの不在感が、決定的に欠けている。
森山大道や荒木経惟の写真には、道が写っている。
おそらく、森山や荒木は、平面像でしかない道に生気をあらためて吹き込んでいる。
彼我の差は「表現された重力」の有無ではあるまいか...】

つまり、写真という平面には「表現された重力」が湛えられていると主張する。同様に本のページにはテクストがあり、テクスト空間にはすなわち「表現された重力」があるというわけである。

この本の項目立てを見てみると、
1 本と重力 2あいだの映画 3写真と重力 4重力の行方
となっている。

「1本と重力」では、
本のデザイン自体が重力を意識していることを述べる。表現された重力を湛えるのが本の役目だから、装丁や本文デザインの面でもしっかり着地していることが必要という。
この項では「縦書きと横書き」や「鏡文字」の問題について詳しく触れられていて、とても興味深かった。(全く枝葉末節だが、鏡は左右が反転するのではなく前後が反転するのだ...というようなことも書いてある)

「3写真と重力」では、
荒木経惟と森山大道という、大写真家を採り上げて論じている。この二人は写真集という書籍の形態を撮影の到達点と考えているという。
鈴木氏は、写真集のデザインを受けたりしてこの二人と接触した中で理解した、彼等の写真に対する姿勢、すなわち写真においてどうやって重力を表現しているか、を解説してくれるのです。
この二人の言葉がたくさん紹介されているが、いずれもとても興味深い。

例えば森山大道の言葉に次のようなものがある。
『写真の彼方から、街道の人々の声が聞こえてくるような気がしてくる。風が吹きぬけ、花びらが舞い散ってくるような気がしてくる。ただひたすらに、さまざまな、・・・ような気がしてくるのだ。』

荒木経惟の言葉。
『写真は、空間のフレーミングではないんだ。時間をフレーミングするの。だから写真のコマはその前と後に過去と未来を持っている。きられちゃった過去と未来が、コマとコマの間に潜んでるんだよ。だから、(写真集の)コマとコマとの間は均等に空いているんじゃなく、重なったり、広がったり、揺れてんだよ』

『写真は、選ぶ作業ではないんだな。(写真が絵になりそうな光景を切り取ることと決定的に違うこと言っている)
人に指図したり、被写体を選ぶんじゃなく、奴隷のように撮って撮って、それでアタシが相手に惚れていることが、そこに写っていなきゃダメなんだよ』

立派な本に対して、こんなおざなりの紹介で申し訳ない気がしますが、是非、もっと読まれていい本だと信じて、敢えてブログに載せました。
なお、この二人の写真が、かなりの枚数、解説(写真の成立過程やエピソード)入りで掲載されているので、写真に興味ある人にとっては大いに楽しめるのではないかと思います。
Photo_210








Photo_211 森山大道のトレードマーク的写真「犬の町」
鈴木氏はこの写真の犬が、ブリューゲルの「雪の狩人」に出てくる犬とそっくりだと、指摘し、さらに、「雪の狩人」の世界が森山大道の写真世界に類似ないし親和性があることを述べていて興味深い。
Photo_212これも森山大道の、「背伸びしてみる海峡を」という5枚組み写真の一枚。いろいろと考えてしまう、不思議な写真だ。

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2007年1月 7日 (日)

「ウェブ人間論」を読んで

年末に買っておいた「ウェブ人間論(新潮新書2006/12)」を読んだ。読み始めたら止められなくなり、最後まで一気に読んでしまった。ウエブ進化論の梅田望夫と芥川賞作家の平野啓一郎の対談であるが、なかなか迫力のある議論をしている。それもあるが、私自身もいつの間にかウェブに依存して生きる人間の一人になってしまっており、この本のテーマである「ウェブ進化によって、人間はどのように変わるか?」に強い興味を持っていたからです。
既に読まれた方の感想文などがたくさんネットには流れているのですが、敢えて私として印象深く感じたところを順不同で列挙してみよう。

《検索が全ての中心になる》
平野氏が作品「葬送」を書くとき、インターネットを駆使したという。あの年齢で、あの期間でアレだけの小説が書けたのは我ながら不思議だと、振り返っていた。
『検索』がインターネット時代の中核技術だと言うことを見抜いたのはシリコンバレーで創業したグーグルだけだった。その証拠にヤフーでさえつい最近まで検索をグーグルにアウトソースしていた。(ヤフーで検索ボタンを押すとグーグルに飛んでいた)

《いつもチェックしているブログが300~400ある》
1日8~10時間はネットに繋がっており、気になっている300~400人のブログ(英語も含む)をチェックするとのこと。彼等の日常や考えていることをシャワーのように浴びる。大変な刺激だ(梅田氏)

《ブログで人は成長できる》
ブログの本当の意味は、何かを語る、何かを伝える、ということ以上に、もうひとつあるのではないか、それは自分自身が人間として成長できるということだ(梅田氏)。
シリコンバレー暦10年と言う氏でさえ、それを実感しているそうだ。ブログを始めた頃はこのプロの俺が物言うのだから、読者はありがたく読むだろうと思っていたが、そのうち、ネットの向こう側にはとんでもない広がりがあり、鋭い反応が返ってくるに気がつき、それからはブログを書くに当たって謙虚に勉強するようになったし、何よりも深く物事を考えるようになったと言う。

《ブログの上で歴史を重ねて来たら、実名でも匿名でも区別は無くなる》
平野氏は、匿名でブログを書くことについて強い危惧をもっているようだ。匿名ゆえに妄想的な人格が造られて、いわば2ちゃんねる化してしまわないか?
これに対して、梅田氏は、「2ちゃんねる」のような掲示板上の匿名とブログの違うところは、書いてきたことが歴史として残り、アイデンティティが遡れるところだ。作家のペンネームと同じだ。実際、梅田氏が知っている匿名のブロガーはみんなリアルな人格と同じだと言う。

《たかがネット・・・匿名の無責任性に対して》
それでも平野氏は匿名問題にこだわる。匿名である限りネットで行なわれることは身体を備えた主体には返って来ないから、行為には無責任性がある。
これに対して、梅田氏は、ネットが活きる領域は情報まで。たかがネット。匿名で出来ることは知れている。リアル世界には及ばない。
実名とリンクさせてネットで何かやると凄くリアルに跳ね返ってくるから、そのほうが良いだろう。

《ネットによって社会が三層化する》
これまではネットの世界は、エリート対大衆の2層に見られがちだったが、今後は間に「十人に一人ぐらいの層」というのを置いて考えてみたい。「中学校や高校のクラスの上から5人」とか、「親戚と言う小さなコミュニティで一番敬意をもたれている人」。これらの人々は能力は高いのに、社会的に沈没していることが多い。ブログでこういう人たちが筋の通ったことを言うようになれば、世の中は随分良くなる。

《リンクされた脳》
あるアメリカ企業に大学生がインターンとしてやって来た。彼に何を頼んでもすぐにこなして来る。凄い奴ということになったが、聞いてみると、彼にはネットで常時繋がった何百人もの友達が居て、テーマごとに助けてくれそうな人を選んでやり方を聞いたと言う。今のアメリカの若いエリートはみんな質の高い友人とネットで脳が繋がった状態で世に出たいと思っていて、大学生向けのSNSの利用も驚くべき高さになっている。

《ウェブ時代の教養とは?》
個人にとってネットはとんでもない能力を持った道具だ。能力の増幅器であるから個人の能力の差異が限りなく増幅される可能性がある。甚だしい格差を産むということは怖い面もあるが、「上」を伸ばさないと言う発想はもうないだろう。
この格差の元となるものを教養とするなら、この新しい時代にあっても、やはり本を沢山読むということではないか。教養が無ければネットでいくら書いても受け入れられないだろう。

以上のように、ブログに関する話題が多く、とても参考になったし、ブロガーの端くれとして勇気付けられた。
梅田氏はインターネットの将来に対しオプティミズムな立場と思いますが、「日本人1万人・シリコンバレー移住計画」を立ち上げたとのこと。
インターネットの百年先を変えるような新しい思想は、シリコンバレーのような環境でしか出てこないから、そのような環境を日本にも作るなり、社会全体でサポートすべきだと、強いメッセージを発しているのが印象的でした。

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2006年11月15日 (水)

「電車男」は偶然の賜物…CGM(Consumer Generated Media)で再現は期待できるか?

「低度情報化社会」の続き。

Web2.0のキーワードのひとつにCGMConsumer Generated Media)がある。文字通り「消費者が生成するメディア」であり、ネットで実際に成立しているのは、旅行関係のクチコミサイトなどである。

CGMもまた、情報低度化のスパイラルからは逃れられないだろう、と坂本氏。

昨年大きな話題を作った「電車男」は正にCGMである。2ちゃんねるの掲示板上で、自然発生的に出来上がった純情恋愛ストーリー。掲示板上の無秩序なやりとりを、ネット上で、とある人が読み物風にまとめたものがベースとなり、単行本や映画にまでなった。

しかし「電車男」のケースは、自然発生したストーリー、2ちゃんねる住人たちの善意ある互助性、自然発生のクチコミなどの条件が揃ったことによって生まれた、稀有で幸運なコンテンツだと言えよう。

この電車男方式をビジネスの対象としてとらえた途端に、自然発生は仕掛けられたものになり、クチコミも装ったものとなってしまう。本来、ボトムアップに意義があるのにトップダウンが見え隠れするようになる。

CGMの制作者(ビジネス側)は最初に手の内をさらけ出す。ユーザーからのコメントを受け付けて、制作者は作品にフィードバックする。このような仕組みによって、作品制作過程がユーザーフレンドリーになり、またユーザーが望む作品が出来上がる、というわけである。

しかしこれでは良質なコンテンツが生み出されるとは到底考えられない。何故なら、不特定多数に開放すれば、必ずかなりのノイズが発生するからだ。

CGMによって実のあるコンテンツが生成されるには、「相互贈与的」な集団をベースとすることが必要だ。
「電車男」では偶然にこれが成し得た。ビジネスとして最初に仕掛けがあるとすれば、それは最早、ユーザーに対する「贈与」ではなく、「収奪」である。さらに参加するユーザーも「収奪」を望む「乞食」が多くなるのだ、と言う。

ここまで、「低度情報化社会」を読んで、共感を覚えたところを抜粋して紹介した。このような一方的な切り取りは、著者の意図を正確に伝えない恐れが多分にあるので、是非本書を読んで頂きたいと思います。

まだまだ、興味ある事柄が書かれていますが、時間切れです。

最後に、低度情報化社会の毒から逃れる処方箋として著者は次のように述べていることを付け加えよう。

「先ずはネットを捨てよ。そして街へ出よ。現場に行け。古典を読んで、違う世界の人間と会え。そうすれば、貴方の頭がアイデアで一杯になるだろう。アイデアがこぼれそうになったら、ネットに戻ればいい」

さて、そろそろインド行きの旅支度をしなくては。

S_3日没の風景が好きだ。
この日はとりわけ面白かったので撮影した。
ウォータンの散歩途中で。

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2006年11月12日 (日)

Googleは信頼できるか?

「低度情報化社会」の続き。とにかくこの本は面白いし、勉強になる。

Google
に関しては坂本氏はどのように言っているか?

Googleの検索性能は他の追随を許さない。誰にでも素晴らしい検索結果を返してくれる。だから人々はこぞってGoogleを利用し、Googleは巨大企業となった。

Googleが検索結果に強い自信を持っていることの現われとして、通常の「検索」ボタンのほかに「I’m Feeling Lucky」というボタンがあることだ。「検索」ボタンを押すと、全ての検索結果がGoogleが有意義と評価した序列(これが問題なのだが・・・後述)で並ぶが、後者のボタンを押すと、直ちに検索結果序列1位のサイト・ページへ飛ぶのである。自信が無ければ出来ないことだ。

それでは、Googleの検索結果の並び順序は、どのようになされているか?検索語に対するデータのページランク付けを行っているのであるが、「より多くリンクされているサイトは良いサイト」と言う考え方に基づいているらしい。

要するに人気投票の方式なのだが、TV番組でも人気のある番組が良い番組とは限らないだろう。また、リンクには賛意も批判も含まれていて、正と負のフィードバックがそれぞれ働いているのだが、Googleは勝手に、ネットでは自浄作用が働くと考えている節がある。坂本氏はその点に批判的であり、リンクが多いと言うことは、単に関心が高いというだけのことと思わねばならない、とする。そのひとつの兆候として、最近、検索結果の高順位にブログが多く並ぶことを上げている。

また、大概のGoogleユーザーは検索したら1ページ目しか見ないだろう。そこで姑息な手段を使って、1ページ目に載るようにしようというヤカラも多くなっているらしい。一旦、1ページ目に載ってしまえば、アクセスが増え、リンクされ、また1ページ目に載るだろう。

したがって、“検索結果の1ページ目は汚染されている”“あなたの10年後のために欲しい情報はGoogle検索結果の1ページ目には無い”とまで言う。

問題なのは、ユーザーはこのような事情を知らず、Googleの綺麗に序列された1ページ目だけ見て盲信してしまうというところにある。

手間はかかるが、玉石混交の検索結果を返す検索エンジンの方がずっとマシだと坂本氏は言う。

ところで、Googleは世界の全てを検索することが使命だと考えていて、いろいろな展開を進めていることは周知の事実。英語版では主要な新聞・雑誌の200年分を検索できるサービスも始まったし。衛星写真で世界中を覗けるGoogle Earthの日本語版ではスーパーとコンビニ、寺院と神社の区分までされている。

その先には、個人のプライバシーまで検索されるようになるだろう、と坂本氏は危惧する。現に、Google の提供するWebメール「Gmail」やGoogleデスクトップを人々が利用すると、メール情報からパソコン内のファイル情報まで把握されてしまう。
さらに、「Googleがユーザーのパソコンのマイクから周囲の音声を収集することによってユーザーが見ているTV番組を特定するソフトウエアを開発した」というニュースもあり、これは最早、盗聴に等しいと言う。

そういうことだから、検索エンジンがGoogleに1極集中することは今後、非常に問題があると指摘するのである。

そこで坂本氏は、Google1極集中への対案として「分散検索」を奨める。これは個人のリンク集などマンパワーで集めたURLをデータベース化し、一方で無数の個人的な検索エンジンを連携するものだと言う。私には十分には理解できないが、何となく良さそうな気もする。

いずれにしても、Googleは利用してもかまわないが、全面的に信頼してはいけないと言うことが結論だ。(続く)

S_2 バスに乗り合わせた「もりぞう」
(何かイベントのようです 11月10日名古屋栄にて)

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2006年11月11日 (土)

ツンデレ・・・低度情報化の象徴?

前回、若者の日本語の問題に触れたが、最近のサブカルチャーから生まれる新語やインターネット・スラングには、とても付いて行けず、これは歳のせいか?と、自分を情けなく思ったりしたが、坂本氏の本を読んでいると、そんな心配はするだけ損なようだ。

低度情報化の典型例として紹介されているのだが、「ツンデレ」という言葉がある。これも私は知らなかった。信じがたいことだが、ウィキペディアにはちゃんと載っているのだ。

それによると、
『「普通はツンツンとすげない態度を取るが、一定の条件下では態度が急変してデレデレといちゃつく」という状態・光景、人物を指す言葉。もともとは、オタクサブカルチャーにおいて、恋愛アドベンチャー・ゲーム業界に発祥するインターネット・スラングである。いわゆる「萌え」の対象となる女性キャラの、またそうした女性キャラとの恋愛を指して使われるが、定義が拡大されて来ており、現在は非常に幅広い範囲を指す言葉になっている。』

同じ情報感度を持つグループ内では、1つの情報が無限に放散することがよくあり、これもそのひとつで、ツンデレには様々な使われ方があり、かつ無数の派生語も生まれているらしい。その辺の事情もウィキペディアには詳しく書かれている。

『ツンエロ、ツンギレ、ツンツンデレ、テレツン、素直クール、素直シュール、ツンロリ、クーデレ、ヤンデレ・・・』

なんとも感想の言葉が無い。

なお、Web2.0はイカサマだと言う坂本氏も、ウィキペディアについては評価しており、ネイチャー誌が世界最大のブリタニカ百科に匹敵するという調査結果を出していることを紹介している。 (続く)

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水銃。戯れる幼子が可愛い。

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2006年11月10日 (金)

mixi は疲れるらしい?

NHKのクローズアップ現代で「若者たちが日本語を知らない」という問題点をとり上げていた。工場やオフィスでマニュアルさえ読めない人たちが多くなったという。大学生に国語のテストをやってみると80%(数字は間違っているかも)は中学生の実力しかないという調査があるとのこと。

ある工場の若い人が、担当の製造ラインの前に貼ってある注意書きの「差異が生じたら上司に報告すること」の、“差異” という言葉を知らなかったため、製品がだめになり損失が出たというエピソードを紹介していた。

我々年寄りには信じられないことだが、深刻な状態が起こりつつあるようなのだ。

原因として上げていたのが、携帯電話とパソコンへの依存。文字を手で書かない、まともに文章を作らない、ということを続けていると、脳の正常な発達が妨げられることも分かってきたという。さらには、日本語自体が崩壊して行くことも危惧されていた。

前回の、インターネット依存の問題も、多分、同質だろう。坂本氏の指摘は的を得ていると思える。我々もよく注意する必要がある。

さて、坂本氏は話題のSNS mixiについて次のような指摘を行なっている。

mixiには、会員の紹介がなければ参加できないし、このなかのブログなどの情報は一般の検索エンジンでは検索できないようになっており、いわば閉鎖されたコミュニティである。

mixiの特徴の一つは若い人ばかり、多分平均年齢は25歳ぐらいではないかと言われるが、無垢なユーザーが多いから、チェーン・メールとかで騒動が大きくなったりということがあるらしい。また、若いだけに情報の質も劣るといわざるを得ない。

坂本氏は
mixiと2ちやんねるを対比させる。

2ちゃんねるは完全匿名制の掲示板であるから、「本音コミュニケーション」が出来る。初期には知的サロンとして機能したこともあった。しかし、匿名制のゆえに落書きが多くなりすぎて、情報源としては今や使い物にならないくらい「スラム化」しつつある。

一方、mixiでは友人とコミュニケーションするのだから、発信する情報は「建前的」にならざるを得ず、次第に「mixi疲れ」でストレスに満ちたものとなっていくであろう。

mixiはまた、壮大な出会い系サイトとも言える。人々は「何か新しい出会いや、楽しさ」を求めてやってくるのだが、実際には覚悟もない人々であるから自分をさらけ出してしまい、システム運用者側にその属性や性向を把握され、コントロールされてしまう(広告を通じて売りつけられたりする)。

かくて、mixi SNS全てがそうかどうかは不明)も低度情報化社会への潮流を作っているのか?(続く)

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魚釣りにしては?

不時着した紙飛行機を取っているところ。



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